狂人冤罪

狂人冤罪

 私は今日も、学校に行くために電車に乗ります。私は電車が好きではありません。たくさんの無関心が押し合い、時に卑怯者が盗みを働き、虚無の人が痴漢を働くのに嫌気がさしており、しかも、それを逆手に取った犯罪もあるというのですから、私もどこか狙われているのではないかと、窮屈な気色にもなります。綺麗な鉄の棺桶に皆んなで入り込んで、仲良くその混乱によって規律だった都会に行き、降りれば溶け込んでいくその群像は、いかなる魑魅魍魎をも凌駕するものだと思います。だから私は、いつもは電車のドアと椅子との角に潜り込んで立ちます。前と右の障害物に、比較的人間の悪意から守られる気がするのです。しかし、今日は不運にも、角は埋まっていて、ドア側のど真ん中に立つしかありませんでした。こんなこともまあよくあるので、なんとか乗り切れれば良いと切り替えて、外を見ると、電車が発車しました。曲線の輪郭が沢山の点にそれぞれ分解され、速度についてこれなかった点どもが線となって窓の外に残像を描き出しました。いつも私はそれを見て、不愉快に思います。そうしていつも通りだと思い安心した矢先、案じていたことが起こりました。

「痴漢よ!」

 私は驚いて周りを見渡しました。また社会の混沌に、意識が削られていくのではないかと思ったのです。とっかかりがなくなると、生きるにもやる気というものが出なくなりますから……もちろん自分が冤罪をでっち上げられるなんてことも、ほんの一寸は考えていましたが、しかしそれはその時の私にとって杞憂か、あるいは疑惑の一環でしかありませんでした。きょろきょろと見回す私を見て、その女性は何か……しめた! と……思ったのかにやりと微笑して、私の掌の膨らみと結節種の間に人差し指を通して掴みました。そして一転悲しく、それでいて「不屈である」とでも言うかの様に、自分の犯罪行為を周りにアピールしながら女性は、

「次の駅で降りて」

 と大声で言いました。電車のおしくら饅頭の右端の真ん中に、冷たい好奇の目が集まります。私が下劣な学生に見えるのでしょうか。写真や動画を撮っている人もいて、そのカメラを私が見つけると、それを元の場所へと戻して、……自分は善良な人だと振る舞うかの様に……彼は先ほどと変わらない態度になりました。依然としてその騒動が耳目を集め、電車の愚か者たちが私を見せ物とし、一丁前に聴衆の気でいるのを脱力的な諦観から眺めていると、絶望的な時刻が刻一刻と近づくのを感じて、煙の様な汗と、あと一歩流れるには足りない涙とが、この肉体に焦燥感を駆り立てていくのを知りました。女性は私を、まるで強姦者だと言うほどに、きつく目を結んで、睨みつけていました。一秒は長いのに、一分はとても短く、刻一刻を感じながらもゆっくりと過ぎ行くその時に、何もできない無力感が醸されていきます。私は、これから渡される無実の請求書と、女性のほくそ笑む横顔が今の睨む形相から窺えて、とても怒りを感じ、しかし実際に何かをするともっと大きい、今度は逮捕令状になることが分かって、また思考が振り出しに戻り、さらに焦りました。結局どうにもできやしないのではないか? このまま、ン十万円の賠償と、幾らかの前科とを喰らわされて、学歴も、就職への資格も、全て失ってしまうのではないか? 破滅へのレールが淡々と、しかし徒歩よりは遥かに迅速に進められる中、私は絶望の先に疾走し始めました。……本当に痴漢になれば、見合った罪が与えられるだろう、いっそのこと、はっきりとやってしまうのはどうだろうか……女性は私の振り切れたその思索など全く意外にして、虚像の睨み節を自慢げに、白眼と黒眼の間をきらきらと輝かせています。瞬きが潤すたびに、目が私を陥れようとする施策に自惚れている、女性の薄汚れた魂胆の、寂れた光を見ることができました。

「本当に痴漢してもいいんですか?」

 一応、鎌をかけてみることにしました。……このまま演技を続けるならば、本当にやろう……女性は未だ鋭い眼光を飛ばして、

「いい加減にしてください」

 と言い放ちました。……ならばこちらも決心がつくというもの。同じ土俵に立ってやろうではないか……今まで何人の人を私の様に落としてきたのか、吐かせてやる……痴的な愚か者の、惨めな姿を私の犠牲を最後にもって公衆に晒してやる……死なば諸共、さもなくば、この目の前にいる悪女の一人勝ちだ! ……私はついに、確信しました。

 私は私の右手を掴んでいる女性の手を払い、その胴体に抱きつきました。女性は先ほどと違った、本当の奇声をあげました。

「分かりました」

 そして私に譲歩してきたのです。所詮女性は、なんの覚悟もないのでした。自分がやってきたことが、何人の人を葬り、何人の人を陥れ、何円もの金を溝に放り捨てたのかと言うことは棚に上げて、自分の利益だけを見て、その破壊的な工作を、単なる楽な仕事だとでも思っていたのでしょう。復讐者については、一切のことが頭にないのです。それはつまり、私等を人でなく、小切手としか思っていなかったということでもあります。

「何人をこうしてきたんですか?」

 女性は直ぐには答えられず、少しして私によって身が穢されるのを恐れて正直に

「数え切れません」

 と言いました。力に屈服した女性の自白には、限りのないカタルシスがありました。

「あなたは、電車を降りればきっと私を警察に突き出すでしょう」

 なぜなら、私は実際に今痴漢をしているのだから。しかし女性は、そんなこと言えません。

「いいえ、だから許してください」

 私の腕はしっかりと、女性の背中にきつく結ばれていて、満員電車に揺られていることで、極度に密着してもいました。一歩……あるいは女性にとっては、一言一句……間違えれば、私に本当の、屈辱の眼光を浴びせることになるでしょう。女性にとっては、それこそ最も防がなければならないことなのです。

「突き出せばいいでしょう」

 女性の顔が化粧の下で熱くなってくるのを、伝わる空気から知りました。

「あなたが痴漢を自演し、私を陥れようとするのに対し、私は、本当にあなたに痴漢をしていいのかと聞きました。あなたはその時自白していれば、この事態を免れたのです」

 女性は絶望していました。自らの業から起因して、完全なる悪であり、屈辱であり、恥辱が、これからこの満員電車という場所で行われようとしていることに抵抗できないという絶望的な無力感を、……あの時の私と同じ様に……のしかけられて絶句していました。短く長い一秒を感じ、今か今かと来ようしているその瞬間を、ただ待つことしかできず、その小綺麗な飾られた顔に涙とも苦虫を噛むとも言えぬ表情を浮かべて、沈黙しているのです。

 


 塗れた私と女性は次の次の駅に着いて、駅員に捕まりました。電車は一時運転見合わせとなり、そのために私と女性が連れられて歩いたプラットホームはとても混雑していて、やはり野次馬がフラッシュを焚いていました。駅員室で間に合わせの服を着て取り調べが始まった頃には、女性は心身喪失の状態にありました。

「どうしてやったの?」

 中年の太った駅員が、蔑んで言いました。

「痴漢の冤罪をでっち上げられました」

 動機を話し、私は警察署へと連れていかれました。女性は被害者として、精神病院へと運ばれていったと取調室で聞きました。

 私と女性、どちらが悪いかと問われれば私です。しかし、私をそうさせたのは、女性です。皆不幸になりましたが、それは得手してそうなったのだと、刑務所にいて、私は今そう思っています。ただ言えるのは、私は女性へのその行為によるエクスタシーを、未だ忘れることができずにいるということです……

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狂人冤罪 @elfdiskida

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