10年前の僕へ
佐々井 サイジ
10年前の僕へ
十年に一度の最強寒波が来るというニュースを外で走っているときに見たのを思い出し、机の奥底に眠らせていたノートを取り出した。ノートには茶色の小封筒が挟まっている。封筒には宛先の住所ではなく『三十歳になった僕へ』と書かれていた。ちょうど十年前に書いた手紙だった。
昨日、三十歳の誕生日を迎えたが手紙を書いたことを思い出す余裕がなかった。糊付けされた封筒を、まだ息が上がって震える手で強引に捲った。いつもはハサミで切るのだが、面倒くさかった。
中身は縦書きの手紙が三枚、三つ折りにされて入っていた。手紙の文章も筆ペンを使っていたので、普段より字が大きくて汚かった。いや、汚いと言うより不細工だった。かわいげもない。
『拝啓 浅谷一馬様』という書き出しだった。
十年後と言えど自分に出す手紙の割には大仰だった。残念ながらそんなたいそうな身分ではない。人間としての資格ももう無い。
『お元気ですか。僕は今日、二十歳になりました』
そういえばちょうど二十歳の誕生日に書いていたな。記憶にはまだ霧がかかっているが、わずかに思い出した。
『僕は現在、奈美と付き合っています。大学の映画研究会で仲良くなったことがきっかけでした。自分に出す手紙ならそんな説明いらなかったですよね。奈美のことが大好きで仕方ありません。三十歳の僕は奈美と結婚して子どもができているのでしょうか。そうなると良いんだけど』
奈美――
この頃は奈美と付き合って一年くらいだった気がする。部員には内緒で付き合っていて、その秘密が二人を盛り上げていたと思う。初体験も奈美だったな。
でもお前、半年後に奈美の下宿先に行くと、部員であり僕が最も仲良かった三好と奈美が性行為している現場に出くわすぞ。裸で土下座する二人の写真を撮るんだけど、わずかな良心が邪魔をして写真は削除したんだ。映研に行くことは二度と無く、友達も消えたよ。
『大学を卒業したらどんな仕事をしていますか。僕は映画が好きなのでそれ関係が良いですね。でも競争率も激しいだろうから難しいかな。まともに働いてたらそれで良いです』
希望ではなかった食品メーカーの会社に就職したよ。でもそれは僕も納得してたから良いんだ。でも課長からのパワハラがひどかった。「こんな簡単な仕事、なんでできないんだ」「お前中卒じゃねえの」「会社にとってお前は害なんだよ」
我慢していたけどついに鬱病を発症し、五年前に退職しました。今は無職です。
ひどいですよね。僕は今も重度の鬱病で生活保護を受給しています。あ、両親は四年前、車を運転中にカーブを曲がり切れず、ガードレールを吹き飛ばし、崖に転落して亡くなりました。あいつらは「いつまで親に甘えてんだ」と鼻くそほどの理解もなかったので、悲しくなかったです。
生きる価値の無い糞課長はさっき耳をちぎって眼球をほじくってヤツの口に放り込んで食べさせ、もっともがき苦しませようと思ったけど、面倒になって持参した包丁で胸を何回も刺して殺しました。
『この手紙を見たら、四十歳の自分に向けて手紙を書いてくださいね。十年ごとに書いていきましょう。それで寿命が伸ばせるかもしれないですし。奈美や子どもたちには恥ずかしいので内緒ですよ 敬具』
僕への復讐なんだろうか。LINEの奈美のアイコンは二、三歳くらいの子どもが楽しそうに遊んでいる後ろ姿の写真だった。名前は『三好奈美』だった。
折り目通りに手紙を畳んで封筒に入れた。床に置いていた糞課長の血の付いた包丁を洗ってから、両手で掴んで首の横にあてた。ひんやりと冷たい。もう血が出たのかと思ったが水滴が滑り落ちただけだった。
二十歳の僕、ごめんな。寿命は十年後には終わるんだよ。
目を閉じると周囲の騒音も止まった気がした。肺に溜まった空気を口からすべて吐き出して、鼻で部屋中の汚い大気を吸った。同時に目を見開いた。包丁を握った手を前に突き出した。猛烈な痛みと比例するかのように血しぶきが飛び散っている。
10年前の僕へ 佐々井 サイジ @sasaisaiji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます