悪妻
ハタラカン
外道
「…永遠の愛を誓いますか?」
「誓います」
「おうよ」
私は神の威光をものともしない妻と結ばれた。
妻…
まあワイルドというのは夫の欲目かもしれない。
世間一般に説明させるなら、どうしようもない粗暴なレディースという悪評は揺るぎないだろう。
実際、私もその評価に異を唱えるつもりはない。
彼女は手足を鈍器と解釈している危険人物で、何度となく警察の世話になっているのは確かなのだから。
だが私はそんなレオナを愛し、結婚に至った。
いっぽうの私はといえば、並よりいくらか正直者の気がある程度の凡夫。
そのありふれた男は、やはりありふれた平凡な希望的観測をやめられなかった。
新郎から新婦への希望的観測…すなわち、結婚後の女性の変化に関してだ。
さすがに落ち着いてくれるだろう、と。
人妻という立場が人を作るだろう、と。
お礼参りの人数に比例して倍々ゲームで病院の売り上げを増大させていった豪傑といえど、専業で家庭に入れば弁えて大人の女性をやってくれるだろう、と。
何の根拠もなくそう思い込んでいた。
だいたい予想はついていると思うが、私の目論見は見事に外れた。
結婚して初めての休日の事だ。
私が黙って昼食の準備をしだすと、妻がドスのきいた声で咎めてきた。
「オイコラァ。
どういうつもりだテメェ?」
「どうって…そろそろ昼だし、料理しようかと…」
「『しようかと』だぁ!?
『手伝う』だろ!!
なに人様の仕事横取りしようとしてんだクラァ!!」
「じゃ、じゃあ、手伝わせてください…?」
「ダメだね!!
テメェのメシはアタシが作ンだよボケが!!
いいからテメェは家に居る間くれぇのんびりしとけぶっとばすぞ!!」
レオナが奇妙な怒りを爆発させるのは日常茶飯事だ。
しかし今回は新婚早々の出来事。
ここでの結着が今後の生活を左右するのは疑いようもない。
私は家庭を保ちたい一心で立ち向かった。
「そういうわけにはいかない。
私もこの同じ家に住む一員なんだ。
家事は自分事として考えなければならないんだよ。
私が家事をしないと君が24時間家事をする事になってしまう」
「あのな…テメェは子猫でも飼うつもりでアタシと結婚したのか?」
「いや…私は、人生のパートナーとして君を選んだんだ。
だから…」
「ンだったらよォ、仕事させろや。
支えさせろや、テメェの事を。
テメェが外で働いてアタシを養うから、アタシは家で働いてテメェを養う。
それが筋だろがい。
片方が座るもしゃがむもあくびも便所さえもなかなかできず、音楽だのアニメだのをながらで気晴らしすんのも許されず、8時間以上ほぼぶっ通しで働くなら。
自分の裁量でいくらでも融通の効く、どうしたって休み休みになるもう片方は働きの合計が見合うようもっていく。
そこまでやってようやく相棒だろがい。
家事が自分事だって言う心意気は買うがなぁ、だからって家事がアタシの仕事って事にゃあ変わりねンだよ!!
それともなにか!?
テメェが家事してる間アタシはニートみたくボーッとしとけってか!?
おお!?おおん!?」
言い忘れたが、私はいま胸倉を掴まれている。
「わかった…とりあえず、とりあえず料理は諦める」
「はァん?
まぁだわかってねえようだな…。
とりあえずじゃねえ、アタシがいいって言うまで家事すンな!!
テメェはソファーに寝転がってゲームでもしとけ!!
あ、あとメシの次は全身マッサージもすンだから、勝手に体ほぐすンじゃねえぞ!!」
遥か下に見下ろしていた妻の頭頂が鼻の高さまで戻ってきた。
話の締めで踵を床に降ろさせてもらえたのだ。
昼食は私の準備を引き継いだオムライスになり、食後はありとあらゆる凝りを揉みほぐされた。
無論、この一件だけで諦めるほど私の妻への気持ちは軽くない。
日を改めて、事あるごとに粘り強く交渉した。
「いったいどうして君はそう家事をしたがるんだ。
主婦の家事なんて無給の奴隷労働じゃないか。
私はそんな女卑男尊の惨い仕打ちを君にしたくないんだよ」
完全無欠の正論を出したつもりだった。
しかし妻の負けん気は自他ともに認める三国一である。
とんでもない屁理屈で返してきた。
「あ゛?
奴隷だぁ?
ふざけた事ぬかすなボケが!!
テメェが毎日元気に会社行って、疲れて帰ってきたのをまた元気にする。
それを抜かりなくやンのがアタシの仕事だ、誇りだ!!
アタシがアタシの権利、アタシの自由でやってンだ!!
テメェに支配された覚えはねンだよ…いくらテメェでも言っていい事と悪りぃ事があっぞ?
あ?オイ」
「わかった…奴隷は取り消す。
でも無給なのは確かだろ?」
「テメェは会社の営業でとってきた契約金を全部自分のもンにすんのか?」
「いや、それは会社の金だ…」
「だろうがよ。
会社の金からテメェに分配されンのがテメェの会社員としての給料だ。
ンで、テメェは会社員としての給料を全部自分のもンにすんのか?」
「いや、それは家庭の金だ…」
「だろうがよ。
家庭の金からテメェに分配されンのがテメェの家族としての給料だ。
同じくアタシに分配されてメシ電気ガス水道小遣いその他諸々に使われンのがアタシの給料だ。
無給だなンてとンでもねえ。
家を使う時間が長い分、アタシのほうが手取り多いくれえだぜえ?
なーにバカ言ってンだテメ?」
「いや、確かに家庭に金を入れてはいるが、そういう事では…」
「あ゛あ゛!?
ン〜じゃあなにかい?
アタシがテメェの稼いできた金を無断で盗ンで生活費に充ててるってのかい!?
ア゛ァ゛ン!?」
伝えるべきか迷うが、私はいまヘッドロックされている。
「あの…それはちゃんと、君が使っていい金だから…」
「だったら無給と違うだろがい。
間抜けな事言ってねえでおっぱい舐めろや!!」
部屋着のスウェットをぼるんっと捲り上げるレオナ。
妻流の仲直りなのか、ヘッドロックの次は頭を胸に押しつける弛いベアハッグだった。
先程までとは別の意味で息苦しい。
肉の海に入水させられているようなものだ。
私はかろうじて乳面から顔を出し、最後の説得を試みた。
「外で働くのはどうだろう?
共働きなら家事も分担制が自然な形になるし、何より女性の社会進出は経済を豊かにするんだ」
「女の社会進出は減ってんのか?」
「…増え続けてる」
「経済豊かになっていってるか?」
「…衰え続けてる」
「わかってンならおっぱい舐めとけ」
私の口は乳房で噤まれてしまった。
また別の日。
妻が避妊具を付けるなと言い出した。
「そろそろ…な?
少子化対策ってやつをしていこうや。
へへ…実はもう子供の名前まで考えちまってて…。
アタシが名前で苦労したからよお、おとなしめのやつがいいと思ってンだけどお〜」
私は開いた口が塞がらなかった。
「君は…君という人は、女性の権利をなんだと思ってるんだ?
女性は子供を産むための存在じゃないんだぞ。
出産や育児なんかより君にはもっとしなければならない事が山程あるはずだろう」
「なんかよりって…」
呆れて勢い任せで出た私の言葉に妻の瞳がうるうると濡れた。
零れ出る前に拭われたが、それはレオナが初めて見せた悲しみの涙だった。
妻を傷つけてしまった…その事実を理解した瞬間、後悔が心臓を握り潰しかける。
しかし、しかし…それでもここは譲れない一線だった。
「エステとかヨガとか推し活とか旅行とかランチとか、とにかく自分のために人生を楽しむべきだ。
子供のため、ましてや社会のためになんか費やしちゃダメだ。
君の人生なんだから」
「アタシは、産みたいもん…」
これも初めての涙声。
いてもたってもいられなかった。
物理的に不可能だとわかっていても、今すぐ腕をメチャクチャに振り乱して己を八つ裂きにしてしまいたかった。
だがこんな私には自罰さえもおこがましい。
罪人として在り、裁かれるなら妻にでなければならなかった。
だから私は、飽くまで妻を泣かせる夫として、せめてもの妥協案を提示した。
「今日は、今日のところは…まだ考えさせてほしい…。
するなら、いつものように、ちゃんと避妊させてほしい…。
するかい?」
「する」
私は仕返しとばかりに搾り取られた。
ああ…こんな妻をどう改心させたらいいんだ…。
わからなくなった私は、会社の同僚に相談した。
「そいつは重症だな」
同僚は薄毛の頭をペシペシと叩きながら呻いた。
入社当時はフッサフサのモッテモテだったのだが。
社内一のキャリアウーマンと結婚した帳尻合わせにもって行かれた、と本人は嘯いている。
「ああ。
どうしたらいいかな」
「どうしたもこうしたも、偉大なフェミニズムを学ばせる以外ないじゃないか。
どこの学校に通ってたらそうなるのか逆に聞きたい」
「それが…彼女は義務教育を受けてないそうだ」
「なに!?
それじゃ偉大なフェミニズムの授業を受けてないってのか!?」
「らしい…」
普通、男は小学校低学年のうちにフェミニズムの特別授業を受ける。
そこで生徒は手術台に固定され、特定の情報を与えた電子をワープさせる電子プリンティングによって脳へ直接フェミニズムを刻まれるのだ。
この教育を受けた男は例外なく女性への奉仕に無上の悦びを感じる体になる。
いわゆるドライオーガズムだ。
私もレオナ以前の恋人たちと暮らしていた頃は夢中で家事に没頭したものである。
思想面においてもフェミニズムの強力な信徒となれる事は付け加えるまでもないだろう。
「確か女子はビデオ見るだけでいいんだっけ。
それで完璧なフェミニストになれるんだから、やっぱ俺達男とは出来が違うよなぁ」
同僚は憧憬の視線を中空に向けうっとりし始めた。
「相談を忘れないでくれ」
「さっきも言ったろ。
偉大なフェミニズムを学ばせる以外ないって。
理解増進センターに行ってもらえ」
フェミニズム教育は義務であるが、義務が必ず訪れる運命でない以上漏れはある。
妻のように。
そうした者たちに後で学習させるのが理解増進センターだ。
私にも他の選択肢が思いつかなかった。
だからこその相談だった。
センター行きになり、別人と化して戻ってきた
迷いは私のためにしかならない。
女性はフェミニズムのもとでこそ真に輝けるのだから。
私は同僚に相談したその日のうちに話をつけようと思った。
「お帰り!!
メシか!?
フロか!?
アタシか!?」
「食事にしよう」
喜色満面で出迎えてくれる妻。
これまでの彼女の反応を鑑みるに、きっとこの笑顔は曇ってしまうだろう。
そう考えると、食卓の肴は他愛もない動画サイトの話題になった。
入浴と妻を同時に済ませている最中はキスで忙しく、切り出すどころではなかった。
結局私のフェミニズムが動き出したのは二人で床についてからだった。
「話があるんだ」
「イヤだ」
殴られる前に殴る。
妻の必勝法だ。
「絶対別れてやらない」
ただ、勝負の内容は間違えていた。
「別れ話じゃないよ」
「あ!?
そう!?
へへっなーンだい」
安心しきっている。
別れ話以外ならなんでもいいと言わんばかりに。
その度量に甘える事にした。
「理解増進センターに行ってほしい」
「そりゃあ…フェ…フェラチオズム?
を教えるとかいう?」
「たぶん真逆だよ…。
フェミニズムだ。
女性のための思想を学ぶ場所だ」
「入った奴が全員頭おかしくなって出てくるっていうあの?」
「センターの人間からすればおかしいのは君のほうだろうが、まあそういう認識でも構わない」
「アタシにそこらの女と同じになってこいって?」
「………………そうだ」
「わかった」
「えっ」
どうしたのか?
いつもの理不尽な反論が来ない。
フェミニズムは発祥の経緯、存在理由そのものが正義であるが故に、いかなる反論もそれ自体が理不尽なのだ。
「そうでもしなきゃテメェが納得しねえってんなら、他にしようがねえ。
アタシだって覚悟決めるさ。
なってやンよ、フェ…フェ、フェイクニューストに」
「フェミニストね」
今日までしつこくフェミニズムを説き続けた甲斐あったのか?
妻はあっさり引き受け、あっさり寝息を立て始めた。
なぜ?
いや…なんでもいい。
これでフェミニストの名に恥じぬ生活を送れるのなら…。
「それで?」
翌日、私は同僚に経過を報告し、先を促された。
「最後の家事を終えたらセンターに行って、昼過ぎには帰るそうだ」
「お前がついて行ってやればいいのに。
ていうか絶対そうすべきだろ。
車よけ風よけ人よけになって手をとって肩車してイスになり財布になりサンドバッグになりお仕えすべきだろ。
なんで会社なんか来てるんだよ」
「奥さんと同じ会社に通うそっちとは事情が異なる。
家事もそうだが、最後の我儘を聞いてほしいと言われればな…」
女性の我儘を断るなぞフェミニストの風上にも置けない。
二律背反に悩んだ末、妻の意向を尊重した。
「はあ…先が思いやられるが、これから良くなっていけばいいな」
「ありがとう」
礼を言いはしたものの、先行き不安は私も同じだった。
センターを壊して帰ってきたらどうしよう…。
「ただいま。
……………?」
帰宅するといつもの笑顔がなかった。
レオナ…いないのか?
彼女の囚人服姿は何度も見た。
まさかまた…?
不安にかられ、早足でリビングへ駆け込むと、涅槃像となって菓子をむさぼる妻がいた。
「ギャハハハハ!!」
モニターで動画を見ながら大笑いしている。
よかった。
何事もなく帰っていたようだ。
「ただいま」
「んー」
改めて挨拶すると、喉を鳴らすだけの気のない返事。
今日は抱きついてこないのか…少し訝りながらもスーツを着替えようとすると、背後から鋭い声が追ってきた。
「ちょっとアナタ」
「あ、アナタ?」
思わず聞き返しつつ振り返る。
妻は涅槃像のまま私に一瞥もくれていなかった。
「この散らかったゴミが見えないの?
着替えなんかより片付けが先でしょう?」
妻の周囲には菓子袋や食いカスが熱心な仏教徒の如く群がっている。
それを捨てろと言うのだろう。
しかし私には確信の持てない事が一つ残っていた。
「アナタ、とは私の事か?」
「他に誰が居るの。
全く…さっさとしなさい。
使えないわね」
この言葉遣い、この態度…そうか、妻はちゃんと約束を守ってくれたんだ。
妻は自立した立派な女性になって帰ってきたのだ!
私はスーツ姿のまま手早くゴミを片付け、奉仕の悦びに打ち震えた。
だが、異変はすぐに訪れた。
妻にではない…私にだ。
片付けと着替えを終えたあと待っていたのは空腹だった。
食卓には埃が薄く積もっているのみ。
「晩ごはんは?」
「カレーがいいわ」
私の問いに涅槃から答えが返ってくる。
「そう…だな。
私が作るのが当然だったな」
「当たり前でしょう。
女性が男のために家事をやるなんて女卑男尊があってはならないもの」
妻は至極もっともな常識を口にしている。
何一つ間違ってはいない。
だのに私は、チョコと赤ワインで調味する快楽になぜか虚しさを覚えていた。
この日以降、妻は家事をほとんどしなくなった。
私は朝食を作り、場合によっては妻の昼食を仕込み、会社へ赴き、帰ればワイシャツと朝着替えた下着その他を自分と妻の分両方洗い、夕食を作り、朝昼夕の食器をまとめて洗い、風呂を沸かし、床掃除をし、布団を敷き、入浴後は風呂を洗い、先に寝ている妻を起こさぬよう静かに床へ入る。
会社以外の間、ずっと神経は性感で焼かれっぱなし。
誇張抜きに死んでしまいかねない快楽だった。
さすがに耐えかねた私は妻にいくらか家事を受け持つよう相談した。
すると…。
「掃除?洗濯?報酬は?
は?
無し?
やりがい搾取の奴隷労働だわ!
やりたきゃ自分でやりなさい!
パートナーなんだから!
主婦は名もなき家事で忙しいの!」
妻は掃除に分類して差し支えないような、数十個ぶん合計しても一時間で終わる雑用を煉獄の修業として誇り、分担を頑として拒んだ。
当然である。
私がひ弱なのだ。
妻は正しくフェミニズムを体現している。
私が望んだ通りに。
妻はよく出かけるようになった。
日に日に増えていく土産とレシートの山でそれとわかる。
これまた情けない話だが、その消費ペースは私の稼ぎを追い越そうとしていた。
「レオナ…自分のために人生を楽しむべきだとは言った。
でももう少し我慢してくれないか?
このままじゃ楽しむどころか生きる事すら難しくなる」
注意した…してしまった。
それはフェミニズムへの冒涜であり、裏切りだった。
言わずもがな、妻の返事は厳しかった。
「は?
アナタがもっと稼いでくれば済む話でしょ?
女性はこれまで歴史的に搾取されてきたんだから男を搾取する権利がある!」
妻は自分と限りなく無関係に近い他人の被害を盾とし、年内に死ぬ予定が無ければ説明がつかぬ勢いで家の金を浪費していった。
あの時…あのカレーを作った時の感情。
あの虚しさは消えも薄れもせず存在感を増していく。
だがそんなものはどうでもいい。
私は妻を愛している…いや、愛したいのだ。
愛を強がりだと自覚しながら、虚しさを埋めるように、何かを取り戻そうとするように、私は妻の体を求め、肩に触れた。
「痛っ」
その瞬間、妻はエイリアンに襲われた調査隊員のように暴れ、私の手首を打ち払った。
「どういうつもり?」
怒気に満ちた妻の問い掛け。
粗暴だった頃の怒りが熱く眩しい炎だとするなら、今のは何もかもを塗り潰さんとする闇の怒りだ。
これも正しいフェミニストの在り方である。
「あ…いきなりでごめん。
その…久しぶりにどうかなって…」
「どうって何が?」
もう無理だ。
応じてもらえるわけがない。
わかっているが、会話の流れ上答えないわけにいかなかった。
「その、セックス…」
「は?セックス?
汚らわしい!
その単語を口にしないで!」
フェミニストとして恥ずべき事に、顔に一目惚れするというルッキズムで告白した私を正直者と褒めてくれたレオナはそこに居なかった。
妻はなおも続ける。
「女性は男の欲望を満たすための存在じゃない!
近寄らないで不同意接触で訴えるわよ!」
性交を私に偏った独善と断じる事で、妻側の愛の欠如を伝えられた。
自分勝手だとわかっている。
自業自得だと理解している。
その上でなお、私は虚しさに耐えきれなくなりつつあった。
妻が見せる一般的なフェミニストの態度に辟易してしまっていた。
なぜ他の全てを自の餌食とする者に進んで身を捧げなければならぬのか、と。
なぜその非道を恥と思わぬ者を尊重しなければならぬのか、と。
妻は未だにパートナーを自称しているが、私から見れば控えめに言って荷物、率直に言えば捕食者でしかなかった。
全くもって情けない。
そんな女卑男尊の目線で妻を見てしまうなんて。
フェミニスト失格だ、私は…。
とどのつまり、私は自分に関しても思い込んでいたのだ。
結婚した後も変わらずフェミニズムを尊敬し続けられるだろう、と。
何の根拠もなく妄想していたのだ。
だが現実はそうならなかった。
できなかった。
思うに、私がかつての恋人たちと現状のような生活を送れていたのは、将来を約束していない相手との、ある意味で別れが約束されている相手との気楽さ故に過ぎなかったのである。
永遠の愛を誓った相手がフェミニストとして真っ当に振る舞ってきた今、私は心底憂鬱になっていた。
己の墓石を背負いながら己の墓穴を掘る罪人のように…。
水は低きに流れる。
後追いで落ちてきた後悔が脳天を直撃した。
いま思い返せば、センターへ行く前のレオナの何がおかしかったと言うのか?
夫を助ける事で夫と同等の働きを証明しようとした。
夫…厳密には婚姻契約を結んだ他人、それを助ける事に誇りを抱いていた。
子を生す事で世のためになろうとしていた。
嫌々でなく、自らの意思で夫のため世のためになりたがっていた。
フェミニズムに反していたのは確実である。
しかしそれが何だったと言うのか?
元のレオナこそ尊敬すべき人物ではないのか?
いや、尊敬するなと言われても私はする。
そもそもそういう彼女の男気に愛を誓ったのは私ではないか…。
「ただいま…」
「ギャハハハハ!!」
もはや返事も無い。
今日は座像となって経典、ではなくマンガに囲まれている。
その背中を見て、妻が哀れでたまらなくなった。
妻を責める気は毛頭ない。
全て私のせいだ。
それが哀れだった。
私のために家事を切り盛りし、私のためにフェミニズムを学び、私の望み通り立派なフェミニストとなり、しかもその結果疎まれているのだ。
あまりにも報われない。
とどめに、彼女はその件で私を裁く事さえできない。
よくも変えてくれやがったなと胸倉掴む事はなく、変えた責任とれと殴りつける事もない。
そういう彼女はもう存在しないのだから。
私が殺したも同然なのだから…。
「レオナ…!」
いたたまれなくなり、背後から抱き締める。
「三秒以内に離れないと不同意接触で訴えるわよ」
間髪入れずの警告につい硬直してしまう。
が、そこからむしろ強く抱き直した。
「すまなかった…私が間違っていた!」
いつしか涙が流れていた。
謝意と喪失の悲しみと悔恨と自己憐憫と…とにかくごちゃ混ぜの涙は、感情の量に比例してとめどなかった。
「センターに行けなんて言うんじゃなかった…!
君は義理に厚くて、働き者で、私を愛してくれていたのに…。
私は君を好きだったのに…。
ごめんよ…ごべん゛よ゛…!」
とうに三秒は過ぎた。
構わない。
せめて今の彼女に裁かれよう。
性犯罪者として、牢獄の中で彼女の温もりを頼りに生きていこう。
私はレオナと別れるために、離さないために、強く抱き締め続けた。
「ようやくわかったかよ」
「…………え?」
フェミニズムのかけらもないチンピラの声が腕の中から聞こえてきた。
「少し緩めろよ…そっち向けねえだろ」
なんだ?
何が起きてる?
わけがわからぬまま条件反射で従うと、ばつが悪そうにはにかむレディースの顔が目の前にきた。
「まさか…レオナなのか!?」
「おうよ」
この返事…まさにレオナだ!
ごちゃ混ぜの悲嘆が押し流されていく喜びは、フェミニストの快楽なんか比較にならないくらい頭をおかしくした。
その証拠に、今なら口角で地球を持ち上げる自信があった。
「どうして…!?
どうして元に戻って…!?」
「元にっつーか、変わってなかったンだよ」
「えっ?」
「アタシゃ義務教育をブッチするような女だぜえ?
センターだろうがなンだろうが、行きたくなきゃ行かねえのさ」
「すると今までのは…」
「演技。お芝居だよ。ぜーンぶな」
なるほど…それで私に怒るどころか逆に申し訳なさそうにしていたのか。
騙していたと気に病んで…。
「苦労したぜえ?
笑い声までは変えらンなかったしよお。
教材はウンザリするほどネットにあったが、演技って割り切れねーくらい胸クソ悪いセリフ言わなきゃだったしよお。
せっかく結婚したのに家事できねーし、セックスもできねーし…もうちょいでこっちから折れるとこだったわ」
「すごい演技力だった…意外な才能だな」
「ま、女は生まれながらの役者ってね。
アタシもちったあ女らしいとこあンだろ?」
言って、更に強くはにかむ。
落ち着いたら演技より素の表情が女らしいと言わねばなるまい。
そんな事を考えながら見とれていると、レオナが急に居住まいを正した。
「あーその、まだ伝えてえ事があンだわ…」
「えっ」
なんだろう?
あまり良い話を切り出す雰囲気ではないが。
「金…けっこう使ったろ?
あれさ…アタシのだから。
アタシが昼間働いて稼いだ金だから」
「え?ああ、うん」
そうだったのか…程度の驚きはあれど、今となっては些事もいいとこである。
「でさ…あの、そのくらい気は使ってたっていうか、アタシもひどい事言いたくなかったっていうか、家事だってできればしたかったっていうか…。
あ〜その〜、とにかく迷惑かけてごめん!!
アタシを嫌いにならないでくれ!!」
謝罪と同時、勢いの良過ぎる土下座。
愚かな私に怒るどころか、嫌わないでと懇願するなんて…。
吹き出してしまいそうになったが、私は笑える立場にない。
こちらも正座で改まった。
「顔をあげてくれ。
謝らなければならないのは私のほうだ。
君を失うに等しいセンター行きを無思慮に勧めた挙句、望み通りフェミニストとして完成された君を、あろうことか疎んじていた!
申し訳ない!
いや、違う…こんな言葉じゃ足りない。
何と言って謝ればいいのかわからないくらいだ…許してくれなくてもいい、せめて償わせてくれ!」
謝罪と同時、可能な限り早く額を床に叩きつけた。
衝撃で数秒意識を朦朧とさせている間に、レオナは私の上体を起こしきっていた。
「じゃあ償いかたを教えてやる。
償うな」
「どういう事だ?」
「だからよお…償いでこられたらこっちが困ンだよ。
そんなもん嬉しくもなんともねえの。
愛情でこい」
意味ありげに突き出される顔。
すぐさま唇を重ねた。
私が彼女を欲し、喜ばせたかったから。
「レオナ…」
「んっ、達野ぁ…」
語るタイミングが無かったが、私の名前は達野だ。
「んはあ…」
数分ほど舌を絡ませていると、私の中の野性が直感した。
今こそ互いの歴史を交える時だと。
妻の野性もそれを感じ取り、小さく頷いた。
妻を押し倒すべく、肩に手をかけた。
「そこまでだ!」
唐突にリビングの扉が開かれ、制止の言葉とともに薄毛の同僚が乱入してきた。
「な、なんだ?
どうやって…いや、なぜここに?」
家に招待した覚えは無い。
いや、招待客にしても同僚の態度は不自然極まった。
無断で、土足で、
「ふん、こんなことだろうと思ったぜ」
だというのに同僚は悪びれもせず、私達を軽蔑の目で見下している。
その後ろから、今度は黒服の女性がやはり土足で入ってきた。
「情報どおりですね。
大原百獣王女、大原達野。
あなたがたを連行します」
「連行!?」
「申し遅れました。
僕はフェミニズム省の者です。
フェミニズム法違反の疑いがある妻夫の情報を受け、こちらへ伺いました。
言うまでもないと思いますが、その妻夫とはあなたがたの事です」
フェミニズム省…フェミニズム法に反する国民を独自の権限で逮捕できるという、あの…?
それはわかるが、同僚は何の関係で…まさか!?
「お前が私達を告発したのか!?」
「おおそうとも。
当然だろ。
何がいけない?
反フェミニストの通報は国民の義務だ。
間違ってるのはお前らのほうさ」
同僚は頭の敗残兵を撫でつけながら勝ち誇っている。
「待ってくれ、私達は愛し合ってるんだ。
なぜそれが間違いになる?
妻も私もフェミニズムに沿ってこそないが、その状態に満足してるんだ」
「だからだよ。
世の中フェミニズムで動いてるんだ。
俺だけじゃない、誰も彼もだ。
フェミニズムが常識で、義務で、当たり前じゃなきゃいけないんだ」
返答された瞬間、全ての反論が無意味と悟った。
同僚の目が憎悪に燃えていたからだ。
どこに出しても恥ずかしくない、敬虔なフェミニストの目だった。
フェミニストへの反論は、内容に関わらず理不尽である。
「だから…お前らみたいなのがいたら、こっちの人生が虚しくなるんだよ!!
裏切りは許さねえぜ、達野!!」
「達野、来い!!」
同僚が私を威嚇した直後、ベランダへ抜けていく妻が私を呼んだ。
同僚と妻。
どちらを取るか迷えと言うほうが酷だ。
呼びかけから半秒と遅れずベランダへ駆けた。
「サンダル履いて降り…あっ!!」
意図は察していたので、指示を受ける前に二階のベランダから飛び降り、妻を受け止める体勢で待った。
「ったくもう!!」
追ってきた妻を姫として抱く。
さすがレオナ、あれほど貪っていた菓子をしっかり代謝できていた。
「なンか余計な事考えてねえか?」
「早く続きがしたいな」
「バカ」
私から降りた妻が愛用のサイドカー付きアメリカンバイクに跨がった。
無論、私がサイドカー側である。
普段ならなんだかんだ理由をつけて乗らずに済むよう策を巡らすのだが、今はそんな余裕は無い。
私が精一杯縮こまってシートに収まったのを合図に、改造マフラーが猛獣の雄叫びをあげた。
夜のハイウェイを征く。
抜け目ない妻は私が同僚と話す間にバイクのキーはもちろん通帳、身分証など大事な物をかき集めていてくれた。
これなら逃避行もやりようがありそうだ。
さすがにジャケットまでは無理だったので温暖化全盛とはいえ寒いが、久々のドライブデートの熱で相殺しよう。
境遇の割り切りを済ませ、追手がないのを確認し、妻と相談すべく風に大声勝負を挑んだ。
「私はつくづく楽観主義の愚か者だ!
世間並みの生活とまでは思ってなかったが、まさか国に狙われるほどとも思っていなかった!
迂闊な真似をしてすまない!」
「いいじゃねえか!!
アタシも今まさに楽観してるとこだ!!」
「なにをだ!?」
「あのフェミニズム省とかいう役人!!
多分てんで大した奴らじゃねえ!!
族時代にも何度か出くわしたが、追っ払ってそれきりだった!!
殴らせろっておねだりして、黙って殴らせてくれる相手しか殴れねえ!!
その程度の連中なのさ!!」
妻の評論は的確と思えた。
現にあの黒服の女性は、目の前で貴重品をかき集めていくレオナに一声かける事すらしなかった。
国に対してはこの読みが当たると祈るしかない。
「だがどうする!?
直接連行はされなくとも、社会的な圧力はあるだろう!
もう人里の暮らしは望めそうもない!
…山小屋でも建てて住もうか!?」
「ははっいいねえ!!
でもよお、どうせなら邪魔が入らねえとこ行きてえよなあ!!
火星とかよ!!」
「開拓民になると!?
あそこは厳しいぞ!」
「だからこそだ!!
お姫様ごっこで遊んでる暇はねえだろうよ!!」
確かに…火星行きの船はまだまだ片道切符の域を出ていない。
国の管理は地球と比べようもなく緩かろう。
そしてそんな辺境へ向かう船は一人でも多くの人員を欲しているものだ。
私達でも乗れる可能性は高い。
「そうだな…行こう、火星へ!」
私はもう何も心配していなかった。
これは楽観主義の思い込みなどではない。
どこへでも行ける。
私が背中を預けているのは墓石でなく、支えなのだから。
悪妻 ハタラカン @hatarakan
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