降りしきる

@ninomaehajime

降りしきる

 雨が降りしきっている。

 腐葉土の匂いが強く立ちこめていた。山の中にある雑木林の中で、絶えず葉先から水滴が滴り落ちている。枯れ葉が降り積もった斜面には花が散った山桜が生えていた。その根元に、一人の少女が座っている。

 長い黒髪が顔を半ば覆い隠し、白濁した瞳が虚空を眺めていた。赤いワンピースが濡れるのを気にした様子もなく、靴も履いていない足を投げ出している。その肌は土気色をしていた。

 左手に皮膚と肉はなく、手の骨が剥き出しになっていた。

 雨粒が枝葉の上で跳ね、少女の頭の上で単調な音色を奏でている。樹肌に背を預けた彼女は微動だにしない。風貌ふうぼうと相まって、まさに死体そのものだった。

 その雨が降り止むことはない。鳥獣ちょうじゅうの気配はなく、静寂だけを際立たせている。空虚な時間が永遠に続くようだった。

 湿り気を帯びた腐葉土を踏み締める靴音がした。いかにもその足音の主は山の濡れた斜面に難渋なんじゅうしていて、一歩一歩の間隔が長い。白濁した瞳にようやく映ったのは、ビニール傘を差した人影だった。

「――やあ、ようやく見つけたよ」

 青年の声だった。長身で、灰色のダッフルコートを着ている。下は同じ色をしたスラックスにレインブーツ。顔は傘で隠れ、よく見えない。身じろぎさえしなかった少女の細い首が、ほぼ直角に曲がった。

 髪で隠されていた顔があらわになり、右の眼窩がんかにはあるべき眼球が抜け落ちていた。

 くらい空洞に凝視されても、男は恐れを抱いた様子はなかった。やっと少女の眼前に立ち、傘を差し伸べた。

「僕は君を迎えに来たんだ」

 青年の頭は白髪に覆われていた。笑っているのか、元から目が細いのか、飄々とした表情だった。



「――僕は引屋ひきやと言ってね、君のような迷子を然るべき場所へ送り届ける仕事をしているんだよ」

 骸骨の手を引いて、ダッフルコートの青年は雑木林の濡れた傾斜を下りていた。その足取りは非常に慎重で、とても軽快とは言い難い。おっかなびっくり歩を進める彼に対して、死体の少女は紫色の唇を開いた。

「ひき、や?」

「無理しなくていいよ。あんな山の中でずっと一人きりだったんだ。上手く喋れないだろう」

 身体の欠損が目立つ少女に対して、引屋と名乗る青年は平然と接していた。肉が削げた骨の指が食いこんでも、その手を離すことはしない。

 久しぶりのお喋りに、少女が口を閉じることはなかった。

「ここ、どこ?」

幽世かくりよだよ」

「かく、りよ」

「ああ、そうだ。あの世でもこの世でもない、どっちつかずの場所。狭間の世界だよ」

 二人の会話を、静かな雨音が包んでいた。

「ここには生きた者も死んだ者もいてはいけない。だから僕のような道先案内人がいるわけだね」

 据わらない首を揺らして、赤いワンピースの少女は尋ねた。

「おにいちゃんは、しにがみ?」

「難しい言葉を知っているね。そんな大層なものじゃないよ。ただ迷子の手を引くだけさ――やっと、着いた」

 木立を抜けて、発せられた声は安堵に満ちていた。雨で煙る山の中腹にはアスファルトの道路が伸びていた。ガードレールの向こうには、小さくなった町が見える。道路の窪みには水たまりが幾重もの波紋を立てており、ワンピースの少女は裸足で何度も踏んでは水音を響かせていた。

 その道路は二つの道に続いていた。一つは下り、麓の町へと向かう。もう一つは、古びたコンクリート造りのトンネルが半円形の闇を湛えている。

 少女の手を繋いだまま、引屋は言った。

「やれやれ、近くて助かるよ。あのトンネルは霊道だ。くぐれば、君はきちんとあの世へ行ける」

 骸骨の手を引いてそちらへ向かおうとして、思わぬ抵抗にあった。訝しそうに赤いワンピースの少女を見下ろす。彼女は俯いて佇んでいた。

「何だ、まだ未練でもあるのかい」

 尋ねると、少女は顔を上げた。虚ろだった片方の瞳に、強い意志が宿っていた。

「おかあさんに、あいたい」

 その言葉に、引屋は困った顔をした。スラックスが濡れるのも構わず、片膝をついて少女と目線を合わせる。

「心苦しいけれど、それはできないよ。君は死んでいて、君のお母さんはまだ生きている。いる世界が違うんだ」

 紫色の唇を噛む少女に、白髪の青年は諭すように続ける。

「生きた人間は、死んだ人間と会うことはできない。それはルール違反なんだ。約束事は破っちゃだめだって、向こうの学校で教わったんだろう?」

 沈黙が下りた。雨が傘を叩く音だけが響く。納得してくれたのだろうと判断して、引屋は立ち上がった。

「わかってくれたかな。それじゃあ」

 最後まで言い終えることはできなかった。脛に強い痛みが走ったからだ。思わず傘を落として、彼は脛を押さえてしゃがみこむ。

 涙目になって赤いワンピースの少女をうかがうと、右足の親指が欠けていた。思い切り自分の足を蹴られたのだと遅まきながら理解した。

「あいたいったら、あいたいの」

 にわかに雨の音が激しくなった。雨天の下で、青年を見下ろす少女の眼窩は、雨水が流れこんでは溢れ出していた。

 両手で脛を押さえていた引屋は、ゆっくりと立ち上がった。まだ痛みが残る足で、引っくり返った傘の柄を握る。半透明のビニール傘を少女の頭上に掲げる。

「お母さんに一目会ったら、もう心残りはないかい?」

 少女はこくりと頷く。その様子を見下ろし、白髪の青年はため息をついた。

「それなら会いに行こうか」

「ほんとう?」

「ああ、だけどここから結構遠いよ……また足の指が欠けるから、はしゃぐのは止めなさい」

 飛び跳ねて喜びを表現する子供に、額を押さえて首を振った。小さくぼやく。

「これだから人間は……」

「なに?」

「いいや、何にも。さあ、手を」

 差し出された大きな手に、骸骨の指が結ばれる。



 道路は緩やかに山の麓へと向かっていた。片側は山林が占め、反対側は雨で霞む町並みが見下ろせる。ところどころ錆が浮かぶガードレールに沿って、長身の人影と華奢きゃしゃな人影が傘の下で手を繋いでいる。

「くるま、ぜんぜんとおらないね」

 山中にいた頃よりずっと流暢りゅうちょうになった少女の言葉に、ダッフルコートの男は答える。

「それはそうだよ。ここは現世とは似て非なるものだ。案内人である僕を除けば、この世界には君一人しかいない。幽世というのは、その人間の記憶に沿って形を変える」

 赤いワンピースの女の子は、下唇を突き出す。

「なにいってるかわかんない」

 引屋は苦笑いした。

「君が見ている夢のようなものだと思えばいいさ」

 大雑把な説明に、長い黒髪の少女は首を左右に揺らす。ひとしきり考えてから、尋ねた。

「じゃあおにいちゃんは、ようせいさん?」

「ああ……死神よりかは可愛げがあるね」

 レインブーツの靴底と、片方の親指が欠けた裸足の足音が交わる。雨は相変わらずビニールの傘を叩いていた。

「おにいちゃんは、どうしてこのおしごとしてるの」

「そういう役目だからさ」

「やくめ?」

「迷子がいたら、ちゃんと送り届けなきゃいけないだろう?」

 子供の質問攻めにのらりくらりと答える。

「デパートの、あんないのひと?」

「アナウンスでもできれば楽だったんだがね。僕は自分の足で捜さないといけない。君がいる場所は随分苦労したよ」

「とべないの?」

「何で飛べると思ったんだい」

 他愛のない会話を続けながら、山の濡れた道路を下っていくと、町並みが近づいてきた。なだらかな坂道を、急に少女が駆け出す。

「まゆのまちだ!」

 止める間もなく、足の指が欠けた少女は体勢を崩して転倒した。引屋は慌てて駆け寄る。

「だめじゃないか、君の体は生きているときとは違うんだから」

 硬いアスファルトを派手に転んだにしては、内股で座ったワンピースの少女は片目をしばたたかせるだけだった。全く痛みは感じていないらしい。

 ただふやけた額の皮膚は剥がれ落ち、頭蓋骨の一部が露出していた。

 白髪の青年はダッフルコートのポケットからハンカチを取り出した。彼女の額を拭うと、肉片がこびりついた。少女はくすぐったそうにしていた。

 再び手を繋いで並ぶ二人は、雨景色の町を眺める。そこは交差点になっていて、角にはガソリンスタンドがある。キャノピーから絶えず雨水が滴り、計量器から給油ノズルが垂れている。駐車している車は一台もない。

 ぼやけた信号機が点滅していた。傘の下で、赤いワンピースの少女は律儀に信号の色が変わるのを待っていた。手を繋いだ青年を見上げて尋ねた。

「いつ、あおになるの?」

「たぶんずっと変わらないね」

 二人は横断歩道を渡った。少女は学校で習った通り、片手を上げて白線の上を歩く。その様子を、引屋は細い目で物珍しそうに眺めていた。

 金木犀きんもくせいの街路樹が甘い匂いを放っていた。車線が引かれただけの道路は雨を弾き、窪みに水たまりを作っている。細かな波紋を立てる水面が、白髪の青年と少女の姿を映した。

 喫茶店や書店には、店員も客の姿もなかった。ただ大量の本が並び、テーブルと椅子が置かれているだけだ。建物が並び、それを必要とする人間が存在しない。

 薄暗い書店の奥に少女が駆けこむ。自由奔放な子供の振る舞いに辟易へきえきしながら、引屋は後を追う。そこは絵本が陳列された棚だった。高い位置にある本が取りたいのか、彼女は精一杯に背伸びして骸骨の指先を伸ばしている。

 代わりに大きな手がその絵本を取り、赤いワンピースの少女に手渡した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 礼を述べて、少女は自らの手に余る大きさの絵本をめくる。その頁にはアヒルの黄色い雛鳥に囲まれた、黒ずんだ羽毛の雛鳥が描かれていた。平仮名で書かれた物語を読むに、どうやら毛色の異なる雛が兄弟にいじめられているらしい。

 骨の指で頁をめくりながら、赤いワンピースの少女は懐かしそうに言う。

「おかあさんがよんでくれたんだ」

 生前の思い出に浸る少女に対して、ダッフルコートの青年は尋ねた。

「お母さんは好きかい」

「うん」

 元気な返事だった。少しの間の後、彼はまた訊いた。

「それでも、会いたい?」

 奇妙な念押しだった。どうしてそんなことを聞くのかと、片目のない少女はきょとんとした。

「いや、いい。聞きたかっただけさ」

 赤いワンピースの少女は小首を傾げた。首の骨が脆くなっているのか、ほとんど直角に曲がった。

「へんなの」

 そのまま絵本に目を戻す。彼女を見下ろしながら、屋外の雨音にかき消されそうな呟きを漏らした。

「わからない。わからないな」

 その呟きは、絵本に夢中になっている少女の耳は届かなかった。頁の中では、醜いアヒルの子が美しい白鳥に育っていた。



 青い紫陽花あじさいが咲いていた。

 幅広の葉が雨を弾いて、葉脈を水滴が伝っている。蛙や蝸牛かたつむりといった生き物は見当たらず、庭の奥に見える縁側にはやはり住人の姿はなかった。

 住宅街は閑静かんせいで、無個性な家々の屋根を雨粒が叩いている。元は通学路だったのか、児童の絵が描かれた標識が立っていた。排水溝には、大量の雨水が流れる音が響いていた。

「まいにち、こっからがっこうにかよったんだよ」

 ビニール傘の下で赤いワンピースの少女が言った。引屋は彼女が赤いランドセルを担いで登校している様子を想像した。きっと溌剌はつらつとしていて、可愛らしい児童だったのだろう。

「学校、というのはどういうものなんだい。楽しいのかな」

「おにいちゃん、おとななのに、がっこうにはかよわなかったの?」

生憎あいにくだがね。知識としては知っているけれど通ったことはないよ。何せ、ずっと幽世にいるものでね」

「さびしくないの?」

 今まで人間の姿を見なかった。幼いながら、この世界はあまりに孤独だと感じた。

 彼は不思議そうな顔をした。

「どうして?」

「だって、だれもいないから」

「それが当たり前だからね。どちらかと言えば、君のような子がいることが珍しいんだよ」

 少女の言いたいことがあまり伝わっていなかった。この白髪の青年は、自分が置かれている境遇に何ら疑問を抱いていないらしい。

「がっこうではね、いっぱいともだちがいたんだよ。じゅぎょうはきらいだったけど、おかあさんがりっぱなおとなになるためだからって、たくさんがんばったんだ」

「それは、偉いね」

 ダッフルコートの青年は言った。ぴんと来ないのか、どこか他人事だった。

 雨に霞む住宅路を歩いていると、我慢できなくなった少女が走り出した。理由がわかっていた引屋は、慌てて追いかけることはしなかった。十字路を曲がると、赤いワンピースの少女が佇んでいた。

「まゆのいえ……」

 何の変哲もない一戸建ての家だった。ブロック塀に囲まれ、表札が張りつけられている。彼女と母親の苗字なのだろう。

「かえってきたんだ」

 空っぽの眼窩で二階建ての自宅を見上げる。その昏い穴からは水が滴っていた。長い黒髪の隙間からは転んだ際のおでこの骨が覗く。左腕は完全に白骨化し、足の親指は欠けていた。皮膚は死人の色だ。

「君はここで暮らしていたんだね」

 傘を差して追いついてきた青年は言った。隣に並んで一緒に少女の家を見上げる。

「うん……おかあさん、げんきかな」

「ああ、少なくともここにいるよ」

「ほんと?」

 引屋は頭を掻いた。

「うん。本当はいけないことなのだけどね、現世と幽世の境目に少し穴を空けた。だから、君の母親は今、この家の中にいる」

 その大きな手で、少女の背中をそっと押した。

「行ってごらん。お母さんに会えるよ」

 その言葉を聞いて、彼女は満面の笑顔を浮かべた。据わらない首を揺らしながら、全力で駆け出していく。玄関の扉を開けて家の中に入った。

 手持ち無沙汰になったダッフルコートの青年は、ブロック塀に背を預けた。ビニール傘越しに見上げた空は、何もかもが曖昧あいまいだった。

 やがて、家の中からけたたましい悲鳴が聞こえた。

「真由、真由。どうして」

 女の声が絶叫した。

「埋めたはずなのに!」

 にわかに雨足が強くなった気がした。少し傘を低くして、彼は雑音を遠ざけた。やがて尾を引く金切り声が弱々しくなり、完全に途切れた。

 雨の音だけが響く。やがて扉を開ける音がして、塀の外から玄関を覗いた。入っていったときと同様に、嬉しそうに赤いワンピースの少女が駆け出してくる。骸骨の手の中に、何かを握り締めているようだった。

「ただいま!」

「何だ、もういいのかい」

「うん、おかあさんからプレゼントをもらったの」

 赤く染まった骨の指で、俯いた顔に何かをしている。少しもったいぶって、顔を上げた。空虚だったはずの眼窩には、血走った眼球が嵌められていた。少し不揃いな大きさの目から、赤い血が頬を滴っていた。

「にあう?」

 お気に入りのアクセサリーを見せびらかすように、彼女は引屋に訊いた。

「ああ、とてもよく似合うよ」

 そう言わないとまた蹴られそうだから、という言葉は呑みこんだ。ふと少女は雨空を見上げた。

「ねえ」

「何だい」

「どうして、ここはずっとあめがふってるの?」

 彼女の疑問に、引屋は答えた。

「落ち着くだろ?」

 一緒になって濁った空を見上げた。

「綺麗なものも醜いものも、全て曖昧にしてくれる」

 赤いワンピースの少女にはよくわからなかった。ただ、目の前に大きな手が差し出された。

「じゃあ、行こうか」

 うん。少女は元気よく骸骨の手で握った。二人の指から鮮血が滴り、地面に落ちて洗い流されていく。ビニール傘の下で、二つの人影が住宅街を歩き去っていった。

 降りしきる雨の音だけが残された。

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