挿入歌1

彼は今日も趣味に勤しんでいた。

古びた商店街のこじんまりとしたいつもと同じ喫茶店で、いつものアイスカフェラテを頼み、いつも店内の一番奥の席に座っていた。もはや習慣というよりも拘泥だった。

そんな色んな物に拘泥する彼の趣味というのは音楽を作る事だった。自分で物語を作って音で世界を表現する。十四になるまで彼には音楽を作るといった才能も経験も更々なかった。

突然の事故等で脳内の損傷によって、これまで経験さえもしてこなかった新しい分野への特異的な才能に目覚めるといったサヴァン症候群というものがこの世にはあるらしい。

彼はそれに近かった。

彼にはそのようながあったのだ。

それがあったのは十ニの夏。大きな公園へ遊びに行った帰り道。彼と彼の両親は車を走らせながら少し夕陽が落ち始めた堤防の上の車道を走っていた。

車道が橋の下のトンネルに差し掛かかった頃。薄暗い空間を通り抜けようとしたその刹那だった。トンネルの中から法定速度を越えた大きい鉄の塊が彼が乗っていた小さい車に衝突してきた。

その反動で彼は車から飛び出して大きく道の端っこへと逸れた。それが幸いだった。彼は全身血だらけになりながらも左足を折るだけで済んだ。

彼は何が起こったのか周囲を見回した。首だけ動かしてやっと状況を把握できた。トラックに衝突した車の前方座席は飛び出した白い布に大量の血が染まっている。車の前方は殆どなく、辺りにガラス片が飛び散っている。

不鮮明な視界と正常な聴覚を取り戻した彼の耳に彼の母親の叫び声が聞こえてきた。彼の父親と彼の名前を呼んでいる声だった。この時までは彼女は生きていたのだろう。だが次の瞬間、車は火を上げて爆発し声は消えた。

ここから一週間ほど彼に記憶がない。

病室のベットのテレビのニュース番組で、この事故の全貌を取り上げていたことが事故の後で彼が最初に記憶した事だった。

加害者の六十代の男は持病を患っており、突発的な痛みに耐えながら運転していたという事。事故が起きたトンネルの道は曲がりくねっていて、対向車の確認するのに十分な選択を強いることが瞬時にはできていなかったという事。そしてトンネルを出ると逆光の夕陽が視界を襲ってきたという事。

テレビに写っている専門家はそう雄弁に事故の原因について語っていた。そしてテレビの向こうの見えない聴衆に女性キャスターがこのような事故を起こさないようにと注意喚起をして番組は夕方の特集へと話題を変えた。

彼はその時に何か変わったのだろう。そう彼は勝手に解釈していた。そして十四から十六に至るまでの約二年半、彼は音楽に拘泥してきたのだ。既に世に生み出した曲は十三曲。彼は紛いなりにもこの二年半に自己満足していた。

しかしながら彼の歌詞を書くペンはこの頃止まっていた。理由は分からなかった。歌詞は無数に浮かび上がってくるのにそれを文字にする事ができなかったのだ。

そして今日も彼のペンは動かなかった。学校帰りから一時間近く粘ってもコップの中の茶色い液体が減っていくだけだった。彼は諦めて喫茶店を出る。

外はすっかりと日が暮れていた。寂とした商店街に彼と同じ学校の二人組の男女の高校生を視認する。

そんな二人を見て彼は自分を卑下した。

彼は世間から持て囃される悦楽的な歌でも讃美歌でもなく、見えない憎悪や当てのない慟哭といった厭世観溢れる絶望の歌しか書いてこなかった。

このような感性こそ人がどこか心の奥底で欲しているものだと彼は信じ続けてきた。実際に結果は出ていた。彼の二年半の実績は少なくとも三十万近くの人に認知されていた。

しかし同年代の二人を見て彼は言葉に表現できないながらも、自分は他と何か違うのだと再認識し、自身を責め立てる気持ちでならなかった。

そんな感傷に溺れていると淡紅色に染まった桜が彼の両足の間を流れていった。彼はなぜかそれを追ってみようと思い至った。

不思議と焦っていたのだろうか。それとも煮詰まっていたからだろうか。はたまた追い込まれていたからだろうか。

理由は彼自身も分からない。

このような答えのない局面に人々は出くわした際に色々と考えるが、納得のいく解決策というものが見つかる事の方が彼の人生経験上まず少ない。有名な小説家や思想家といった聡明な先人達ですら最終的には自然に自分自身を委ねるといった思考に落ち着くのだ。

そう彼は結論付けた。

桜の花弁は柔らかい春風に乗って商店街の路地裏の方へと流れていく。路地裏には田舎特有の戦前の古い建物が佇んでいる。

彼の視界の先には両端の辺りに苔が生えている石階段が続いており、階段先には綺麗な赤い鳥居が見えた。桜の花弁を見失った彼は取り敢えず階段を登ってみようと思った。

二十段位の石の段差を登り終えると目の前には古びた小さい神社が彼の目に入った。両隣の狛犬は片方が耳の辺りが少し欠けており、もう片方は苔が覆っている。神社もこれまた簡易的な木造建築で作られており、少し腐っている部分もちらほらある。

彼は鳥居を潜って御神体の前まで近づく。

賽銭泥棒に遇いそうな小さい賽銭箱に彼は制服のポケットから所々が擦り切れた布財布を取り出し、中から五円玉を手に取って賽銭箱に入れた。

二礼二拍手一礼をした彼は御神体に背を向けて帰路につこうとした。その時だった。

彼の背後から歌が聞こえてきた。その歌は悦楽的な歌でも讃美歌でもなかった。それは彼が望んだ絶望の歌だった。彼の全身の毛はそれぞれが命を持った衆生のように逆立つ。

見えない人間に自己韜晦じことうかいした自身の歌を提供してきた彼にとって、自分の歌が人に認知されていたという経験を初めてしたからだ。しかしそんな文句だけでは彼の興奮は収まらなかった。聞こえてきた絶望の声は奥ゆかくて切なさのある、それでいて哀傷や愁哀といった負の感情をひとまとめにした声だった。

彼の心頭はまるで鈍いナイフで引き裂かれたように痛みのある痕を残した。声に魅入られた彼は振り返って歌の出所を探し始める。

神社の両隣に雑木林があるのが彼の目に入り、彼の両足は乗っ取られたかのように竹林の中へと踏み入れていく。

竹林を抜けるとそこには小さな広場があった。琥珀色の夕陽の光が彼の目を襲う。その夕陽にまるで皆既日食のように重なる小さい人影を彼は視認した。

「ねぇ!君!」

彼はその人影に話しかけた。驚いた素振りを見せたその人影は彼の方に振り返る。

そこにいた人影は彼と同じ学校の制服を着た少女だった。彼女は彼の首辺りまで伸びている身長に彼女の腰辺りまで伸びている長髪を持っている。振り返った反動で靡いた長髪の中の小さい涙粒が夕陽を吸い込む。琥珀色の真珠のような彼女の涙粒に彼は茫然自失の状態になっていた。

彼女はそんな彼に気を留める事もなく、彼が歩いて来た反対側の雑木林を通って行った。取り残された彼は未だに彼女の歌声が共鳴するように彼の全身を動き回っていた。


次の日の学校帰り彼はいつもの喫茶店で、いつもと同じアイスカフェラテを頼み、いつもと同じ席で時間を潰していた。

彼は昨日家に帰ってから思い悩んでいた。彼女の声が頭から離れなかったからだ。夜ご飯、風呂、歯磨き、ベットの中、朝ご飯、歯磨き、登校、午前中の授業、昼食、掃除、午後の授業、下校‥‥‥

彼はずっと彼女のことを考えていた。そして彼女の事を丸一日考えて彼は彼女の歌声こそがこの歌を表現するのに一番なのだと思い至った。

だから今日も彼は喫茶店に用もなく来ていた。彼はまた同じ時間にあの丘に行けば彼女に会えると思っていたからだ。彼女に会って色々と聞きたいと彼は思っていた。

石階段を上がり雑木林を抜けると昨日と同じ場所で夕陽に照らされ少女は立っていた。彼女は歌い始める前だったのか平然と景色を見ていた。

そして彼女は後ろに立っている彼にも気づかずに歌を歌い始めた。三分四十一秒の歌の中盤辺りで次第に彼女の声が掠れてきていた。

「ねぇ!君!何でそんな歌を歌っているの?」

彼の声に彼女は昨日と同様、驚いた素振りで振り返った。彼女はまだ泣いていない。

「昨日の人?ですか?」

彼女は怪訝そうな目で彼を見つめる。声は少し萎れている。

「ごめん!驚かせて。同じ学校だよね?どうしてそんな歌を歌っているの?ペイン‥‥‥だよね?そんな哀しい歌を何で君が歌っているのかなって気になったんだ。」

「変わった人ですね。普通そんなことで見知らぬ人に話しかけたりしますか?」

「ごめん、気持ち悪いよね。君の声がとっても綺麗だと思って‥‥‥それで。」

彼は言葉を詰まらせる。自分の正体を明かすかどうか考えあぐねていたからだ。そんな不審な彼の様子を見て彼女は自分にしか聞こえない程度の小さい溜め息を吐いた。そして置いていた荷物を持って彼女は雑木林の方へと逃げようとした。

「ちょっと待って!実は、僕がこの歌を作っているんだ。」

彼の言動に彼女は歩みを止めた。そして顔だけ振り返って驚いた様子で彼を見た後に爪先を彼の方へと向けた。

「ペインの作曲者って事ですか?」

「そういうことになるね。」

「そうですか‥‥‥驚きました。」

「疑ったりしないんだね。」

「別に嘘を吐いてもあなたに何もメリットなんてないじゃないですか?そんなことでいちいち疑ったりしませんよ。」

彼女の表情は少し和らいでいる。そんな様子を見た彼は舌下ぜっかに溜まった唾を飲んだ。

「でもどうして私がこの歌を歌っている理由なんて知りたいんですか?」

「だって普通の高校生は流行りの歌とか陽気な歌とか聴くのにどうして君はそんな哀しい歌を歌っているのか疑問に思って‥‥‥」

「そんなことを言ったらあなただって普通の高校生じゃないですか?」

「それはそうだけど。この歌は何というか、あんまり君にそぐわない感じがして‥‥‥」

少しの沈黙が流れる。彼が少し言った発言に後悔していると彼女は重い口を開く。

「大した理由じゃないですよ。母親が医療ミスで死んで色々と嫌になって歌っていただけ。」

彼女は淡々と憎しみを持った声で吐き出した。彼は言葉を用意しておらずにまた少しの沈黙が襲う。

「そういうあなたはどうしてこんな哀しくて救いのない絶望の歌を創作してるんですか?」

不意に似た質問を掛けられた彼だったが、こちらは彼にとって容易に返答することができる簡単な内容だった。

「ほんとの所は自分もよく分からない。ただ小学生の時に両親を事故で亡くしたのが一つの要因にはなってると思ってるよ。」

そう彼が言うと、彼女は少し顔を落とす。

「そうですか。それでどうして私に話掛けてきたんでしょうか?私に何か用ですか?ペインの作曲者ってわざわざ私に公言したという事は何か理由があるのでしょ?」

彼女に見透かされた彼は喉奥まできていた言葉を彼女に言った。

「君にペインのボーカルをやってほしいんだ!」

「私が‥‥‥ですか?」

「そう。君にやってほしい。僕の作品を表現するのに君の声はとっても合ってるって思うんだ。」

彼女の視線は彼の近くに転がっていた小さい石に向いていた。しなやかな長髪の先を指先で丸めながら彼女は彼の目を見て答えた。

「いいですよ。私もペインのファンなので!」

気色を浮かべた彼女の表情と元気そうな彼女の声に彼も釣られて頬が少しばかり緩む。

「本当?!」

「だから何でそんなことで嘘を吐いたりすると思うんですか。」

彼女は小さく笑った。彼も小さく笑い、強張っていた表情筋が久しぶりに動いたのを自分自身で実感していた。

そして彼女は自分の名前と学年を言った。僕も簡単な自己紹介をする。

「じゃあ先輩?ライン交換しましょ?」

そして二人は連絡先を交換して彼の連絡先は三人から四人に増えた。彼女は自身のスマホ画面を見てはにかんでいた。それを見て彼は疑問に思った。

「どうかしたの?」

「えっ?なんかこう‥‥急だなって思って(笑)。」

彼女はまた微笑んだ。

「確かにそうだね(笑)。」

そう答えた彼もまた笑った。

二人が話を終えた頃には夕陽はすっかりと山の向こうに隠れていて辺り一体は夜を迎え入れようとしていた。

二人はどうでもいい話をしながら階段を降り、彼は商店街の方に彼女は商店街とは反対方向の方へと歩いて行った。

帰り道を歩いていた彼は少し浮かれていた。長年追い求めていたものが手に入ったような幸福感とテストの問題を全問正解した時のような懐かしい高揚感に彼は包まれていた。

ある哲学者の言葉を借りるのならば、彼はいわば純粋経験というものを初めて感じたのだ。何度も間違った航海図で旅をした末に広大な海のど真ん中で彷徨っていた彼にとって、初めて手に入れた正確そうな航海図で新しい陸地を発見しようと動き出す事ができるきっかけとなった出来事だった。








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声患い 深谷 華暉 @hacomm85

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