【疾風の傷跡】ふたつ
遠くで鳥の鳴く声がする黄昏を過ぎ空には煌めく星が瞬き始める宵の入りの時刻。浅い夜くらいでは眠らないはずの街はいつもよりも人通りがまばらだ。理由は疑う余地もなく巷を騒がせる”カマイタチ”のせいだろう。
怖い物知らずか、或いは噂自体を知らないか、はたまたそれを承知の上で某かの予定やら都合やらがあるのか、そんな夜の通りを行く人々の間を朝暉は歩いて行く。ふらりふらりと件の夜の都を歩く鳥面は、怖い物知らずなわけでもなく、予定があるわけでも噂を知らない訳でもないが、ただ、興味深いことを好いていた。故に今この場所を歩く理由は好奇心である。
春の夜は微かに水の香りを纏っているが深く吸い込もうとすれば酒の香りが混ざってしまってどうもいけない、とつらつら考えながら歩いていれば、どこからか高く絹を裂くような悲鳴があがり、先程までとは異なるざわめきが辺りに広がった。
「ちょ、すみません、すみません」
まばらではあっても異変に気がつき動きの読めなくなった人の波を避けながら悲鳴の元へと向かう。路地を幾つか曲がって近づくにつれ多くなっていく人人の間を器用に縫いながら、そう遠くはなかった悲鳴の主の元へと辿り着く。
「大丈夫ですか!?」
「カマイタチだ」
「足の手当を……!」
動揺する者、冷静に指示をしていく者、ただ見ている者、それぞれの反応の中心で座り込んだ
座り込んでいた鼬面を何人かが支え、彼らはそのまま近くの劇場の中へと入っていく。彼らの後を追えないようにか、紳士服の者達が扉の前に立ち塞がってもうその先は見えなかった。
思い思いに話す声が重なってざわめく人波からふらりゆらりと朝暉は逃れる。もうこれ以上ここにいても特に進展はなさそうだしもしかしたら犯人、否、犯妖怪がいるかもしれない。ざわめきの中にいる間耳を傾けている限りでは今回も事件が起きた瞬間を見た者はいないようだったことから、いよいよ本当に人ならざる者の仕業ではないだろうか。そんな存在を実際には見たことも聞いたこともないものの、未知への興味は充分に持ち合わせている。
人が傷ついているというのに不謹慎だとは思うが、疼く心を抑えきれずに
ふと、蠢いている人波から外れていく影が視界の端に映った。ただ帰ろうとした人かもしれないが、何だかほんの少しの違和感があった気がして目線を向ける。その影は既に近くの細い路地へと入っていった後で、もう見つけることはできない。
追いかけるには人が多く集まりすぎていて、上手くすり抜けられたとしても辿り着く頃にはもう無駄足になりそうだ、そんな結論に至った朝暉は一番近くの路地に飛び込んだ。
あの道を行くならここから入って、酒屋の角を曲がり更に三つめの角を曲がってすぐの神社を突っ切れば追いつけるかもしれない。幸い大通りの事件に人がとられているのだろう、路地にはがらんと空虚な闇だけが横たわっている。
駆け出せば、夜の風が冷たく頬を打つ。春はまだ、冷たさを孕んでいる。
人と出くわすこともなく駆け抜けた、神社の鳥居のその先で、黄色の瞳と視線が重なった。
「あの時の」
朝暉の口の端から零れた言葉の意味を見定めようとするように、狐面は足を止めてじっと彼を見つめる。ゆっくりと、続きの言葉が紡がれる。
「君が、カマイタチ?」
「……否、と言って信じる?」
問い。答え、問い。
「わかった、信じる」
答え。
暗い路地には遠くの喧噪が小さく意味をなさない音で這っていく。言葉は伝わるものになれなければ只の音でしかない。
ここにある言葉は、互いが発したものだけだった。
*****
「そんな簡単に信じて……」
「いーの、俺は疑うよりも信じたいの!」
朝暉が目の前に置かれた水を一息に飲み干す。
夜に見た時には闇に溶けるような暗い黒だった衣は昼間のカフェーで見ると不思議なことに柔らかな緑色に見えた。初めて追いかけた日も漠然と緑だとは思ったが、ゆっくりと目の前で見るその色は記憶よりも少し明るい翡翠のような色だった。
その服と顔の全てを覆う面は物珍しさ故にちらりちらりと人の視線を攫っている。
視線に気づいているのかいないのか、意に介した様子もなく手元の品書きを手遊びのように繰る狐面に、そんなのさ、と朝暉が返しながら視線を送れば、狐面もこちらを向いた。
「お互い様でしょ、君も来てくれたじゃん」
昨夜ほんの少しの言葉を交わした後、立ち去ろうとする狐面の背に慌てて場所と時間を告げたが、まさか本当に来てくれるとは。
特に言葉を返すことはなく閉じた品書きを無言で朝暉に渡す。
「決まった?俺のオススメはパーフェート!甘くて綺麗で冷たくて美味しいよ!」
「食べ物はいい」
「えっなんで?お腹減ってない?ご飯じゃなくて甘味だから結構スルッと行けると思うよ」
時刻は昼のご飯時よりも少しだけ早い、正午前。今日は陽光もぽかぽかと暖かく、冷えた甘味を食すにはいい気温である。
「これ」
す、と白い指が己の面を指す。口元も覆い隠す狐の面は、確かにそれをしたまま食事はできそうもない。
「あっ先に面を買いに行けば良かったかぁ!んじゃパーフェートは今度にして、んー飲み物は飲める?ストローあれば飲めそうな気がするよね」
さらりと弐回目があるようなことを言いながら、狐面の返事を待つことなく勝手に朝暉は話を進めていく。特にどれにも頷いてはいないものの、一人で問いと答えを繰り返す目の前の鳥の面を、静かに見つめながら話が落ち着くのを待っていればカウンターの向こう側から明るい声が響いた。
「アラ!珍しいお連れさんだこと!いらっしゃい!そンであんたは、一人でベラベラ暴走しすぎ」
「あっそっか!ごめんな!」
狼面の女給にたしなめられてやっと止まった朝暉が狐面と瞳のガラスを合わせる。
「とりあえず、もし気になるものがなかったら飲み物幾つか頼んでその中から好みのもの探せばいいと思うんですけど、どうですかね。あ、もちろん全部俺が出すから安心して!」
相変わらず楽しそうに笑う朝暉に、気になるものどころか名前を見てもいまいち想像のつかない狐面は初めて一つ頷いた。
目の前で食器を片していた狼面の女給を呼び止めいくつか呪文のように注文をした朝暉は、狐面に向き直る。
「自己紹介してなかった!」
何もかも唐突だが確かにここまでにそんな機会はなかった。ただ口約束で改めて再会しただけで何故か沢山の品を注文し隣に座っている相手と目を合わせる。
「俺は朝暉、よろしく」
「……
「朧!よろしくねー!」
口元しか分からなくとも仮面の下の表情が明るく輝いたのだろうと声色から伝わる。低すぎないものの男性とわかる声が花を飛ばすように跳ねて楽しげなものだから、一体今の会話のどこがそんなに楽しかったのか、と朧は内心首を捻る心持ちだった。
「はい、お待たせ!ミルクセーキとアイスコーヒー、アイスティーとクリイムソーダです」
先程注文を受けた狼面が手際よく飲み物を置いていく。それぞれ違う形のグラスに入った飲み物はどれも透き通る氷を転がし涼やかな音を立てている。ごゆっくり、とだけ告げて去っていく姿にありがとーと朝暉が手を振る。
「さて、一応飲みやすそうなやつにしてみたんだけど……」
朝暉が視線を朧へと向ければ、朧の視線は一点に向けられていた。
「……クリイムソーダ?」
「クリイムソーダ、ていうの、これ」
鮮やかな緑からパチパチと小さな泡がのぼってゆく。半月のような白いアイスクリイム、その上には瑞々しく艶やかな赤いサクランボが乗っている。
たしかにこの四種類の飲み物が並べられたら飛び抜けて目を惹く見た目をしてはいる、と思うがあまりにも熱心に黄色いガラスの瞳がそればかり見つめるものだから、自然と朝暉の頬が緩む。こんなに気に入ってもらえるのなら選んだ甲斐があるというものだ。
「うん、そう!飲んでみてよ、気に入ったら全部飲んで良いからさ。あ、俺も喉渇いちゃったから……んー、アイスコーヒー飲も!」
一番暗い色が揺蕩うグラスを手に取ってストローを咥えた朝暉を見た朧は見様見真似でクリイムソーダに刺さるストローを仮面の下へ忍ばせる。ほんの少し面の下部分を片手で浮かせた朧の咥えたストローを乳白越しに淡い緑が駆け上がった。
驚いたように、朧のストローが口から離れて炭酸の海をぷかりと浮かぶ。朧は数呼吸分じっと目の前のクリイムソーダを見つめた。じわじわとアイスクリイムが溶けて透明だった緑を少しずつ白く濁らせて行く。
「痛い……けど、甘い」
ぽそりと呟いてゆっくりともう一度ストローを咥える朧を楽しそうに朝暉が見つめる。クリイムソーダはそこまで手が出しやすいものではないにしても、ソーダ水自体は流通がある。そこまで手に入りづらいものでもないはずだが、まるでソーダ水自体がはじめてのような反応だ。服装と言い、全顔の面といい、不思議な人であることは確かである。
自分も手元のアイスコーヒーを飲みながら、目の前のクリイムソーダを真剣に味わっている様子の朧を見ていればふと黄色い瞳が朝暉を見た。特に口を開くことはなくこちらを見ている朧に首を傾ければ、その視線がふと手つかずの二つのグラスを捉える。
「あ!全部飲んでみて良いんだよ!?そんで好きだったやつ全部飲んで、飲めるなら三つとも飲んじゃって良いし!こっちがミルクセーキでこれがアイスティー、あ、先にアイスティー飲んだ方が良いかも、これのが甘くないからさ」
こくりと頷いた朧がアイスティーを引き寄せて一口、二口飲み、ミルクセーキにも口をつける。少しだけ考えたように目の前の三つのグラスを見つめて、クリイムソーダを一番近くに引き寄せてこくこくと飲んでいる朧を見ながら朝暉が微笑む。
お気に召したものがあったようで良かった、クリイムソーダが好きならきっとパーフェートも好きなのではないだろうか。やはり、面を変えた方が良いと思う。
「あのさ、なんで全顔面してるの?すごい珍しいよね、その面」
狐面自体はものすごく珍しい、という訳でもないが、形状が珍しい。店内の人人も道を行く人人も、上半分だけの面ばかりで朝暉が今日見た中で全顔の面をしているのは目の前の朧だけである。そもそも、ここ最近で全顔面を見た記憶も朧にしかない。
ちゅう、とソーダを吸い上げてから口を離した朧は、何てこともないように、これが一番落ち着くしこれ以外をつける気もないからだよ、と言ってまたストローを咥えなおした。
「でもさ、それだと外でご飯食べられないよ?ここのパーフェートだけじゃなくて、屋台とか飴細工とか……それ以外にもいっぱい!魅力的なものあるのに!耐えられるって言うの!?」
大げさに両手で己を抱きしめて、信じられないというように頭を振る朝暉をちらりと見やって朧は涼しい顔をしている。
「うん」
「そんな……信じられない……」
「……でもこの、口の中で跳ねる飲み物は美味しい」
「えっホント!?気に入ったなら良かった!」
両手で口を隠すようにしていた朝暉は、朧が小さく零した感想を聞きぱちりと軽やかな音で手を叩いて嬉しそうに笑う。
半分程なくなったクリイムソーダをくるりと一つストローで混ぜれば、氷が涼やかな音を立てて崩れ、小さくなっていた半円のアイスクリイムが翠緑へ落ちる。溶けて行く白が広がって、淡い緑がかった泡がふくふくと立った。
「それで、ここに呼んだ理由は?」
黄色い瞳が鳥を射貫く。美しく揺れる色のその奥の瞳は見えなくても、確かに目が合う。
「君は……違う、のに何故あそこにいたのか知りたくて。今巷を騒がせている事件の真相を探そうと思ってさ、聞き込み的なね」
「ふうん。探偵か何か?」
「いいや、探偵じゃなくて、探偵ごっこ。ただ興味と好奇心に駆られた道楽者の遊びだよ」
いつの間にか他の客はいなくなっている。平日のこんな時間帯に出歩くのはご婦人か、遊民か、あるいはただの暇人か。一休みを決めていた人も昼時になれば、多くは食事処へ移動してしまう。狼面が、人のいなくなった窓際の席を片付けている音と、奥からお湯を沸かすような音、それにラジオから流れる今日の天気予報。どれもが遠く小さく、細やかな音。
「そう」
周囲の音が小さくなったせいか、面越しなのにもかかわらず不思議と朧の言葉が明瞭に聞こえる。
「あそこにいた理由は、同じ事件の犯人を追いかけているから」
「ふーんなるほど、じゃあ一緒に探さない?こうしているのも何かの縁だし」
氷が溶ける。混ざらず薄くなっていくグラスの上層部の色が透明に近づいて行く。
ひみつつき 青原凛 @rin-o
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