ひみつつき
青原凛
【疾風の傷跡】ひとつ
戻ることなく進みゆく時の流れの中を、繰り返し、繰り返し、息をして泳いでいく。
存在を、心を、嘘を隠した仮面の下に何があるかなど知ることもなく。
*****
喧騒の止まない大通り、紫煙にくゆる都を疾風のように影が駆ける。
吹き抜ける小さな竜巻のような風にひらりと舞い上がったスカートを押さえて黄色い悲鳴があがる。風の正体を見定めるよりも前に、それは遠くへ流れてしまって掴むことは叶わずに女は何だったのかと兎の面を傾けることしかできない。
たっぷり五つも呼吸を数える頃には何事もなかったかのように人波はまた流れを戻す。疑念を抱いたはずの女でさえ、これから友人とお茶を嗜むうちに、そんなことは露と忘れてしまうだろう。
「えっ」
駆け抜けた風の行方を見定めて、その後を追いかけたのは、たった一人だけであったのだから。
大通りを曲がり細い路地をいくつか折れて人の気配が遠のいていく。お店ばかりだった道はいつしか所狭しと肩を並べる家屋がひしめく景色へ変わる。
「待て、俺の根付ー!」
追いかけっこを続けていた逃げる風はぴたりとその足を止めた。想定外に立ち止まった目の前のものに、急に止まれない男が勢いを殺しきれずに突っ込む。
「あっわっごめーん!」
せめて相手が地面にぶつからないよう抱きとめて身を返して転ぼうと瞬時に広げられた紳士なその腕をすり抜けるように立ち止まったその人はひょいと横に避ける。
「だらっしゃあ!」
空を切る両手とバランスを保てない体はそのままほとんど背中から地面に突っ込むが、せめてもの抗いとでも言うばかりに掛け声と共に受け身のつもりの地面を手が叩く音が高く鳴る。
背中も思い切り叩きつけた腕も痛いが、家家に囲まれ道と同じようにまっすぐ広がる空は、大通りで見るよりも綺麗な気がした。
「大丈夫……?」
ひょい、と視界を遮ったのは白い狐の面。瞳の部分にはめ込まれた檸檬色の光が星のようにきらめく。
「大丈夫ではない……」
地面で大の字になった顔の上を半分を隠す鳥の面の淡い水色の瞳が泣きそうに歪んでいるような錯覚を覚えさせるが、ガラス玉のそれが涙を流すはずもない。存外しっかりした声でそう言いながら首を振る鳥面は言葉に反して大の字で転がっている以外には問題なさそうだった。
起き上がらない鳥面を覗き込んでしゃがんでいる狐面が、起き上がれないのかと問えば、ひょこりと体を起こす。
「あ、怪我してなさそうじゃない!?俺天才!?痛いけど!」
自分の手を煎餅を焼くが如くひっくり返しながら見ている鳥面を黄色い瞳がじっと見つめる。
「あ、ごめん、なんか結構大丈夫そう!痛すぎて取れたかと思っちゃった!」
手を結んで開いてを繰り返しながら鳥面が笑う。言葉は出さず一つ頷いた狐面はその手が開いた瞬間にそっと小さなカラスのついた根付を置いた。ちり、と根付についていた小さな鈴が音を鳴らす。
「俺の根付!」
「ごめんなさい、引っ掛けてたの気が付かなくて」
「なんだ盗まれたのかと思っちゃったよ、ていうか鈴めっちゃ鳴ってたのに気づかなかったの?」
「あなたが鈴を持っているのかと」
追いかけられていたのには気がついていたらしい狐面の言葉にそっかぁと鳥面が笑う。
「じゃあ」
立ち上がった狐面がふわりと袖を揺らして背を向ける。人々は色々な面を身に着け様々な服を身に纏っている街ではあるが、その衣は鳥面の目に新鮮な古さを訴える。
勤勉ではなかったものの学び舎で扱う書物に描かれていた、曖昧な記憶の片隅に残るその名前はたしか狩衣と言うのではなかっただろうか。
「待って!なあそれ、めっちゃ昔の服じゃん!すっご、はじめて見た!」
飛び起きた鳥面の目はやはりガラス玉なのにそれは本物の瞳のような輝きをたたえて狐面の服を見ていた。
先程まで弱音を吐いていたとはおもえない勢いで飛び起きた鳥面があまりにも俊敏に跳ね回るものだから逃げ道を失った狐面はただ立ち尽くすことしかできない。話しかけているというよりもすごいすごいと一人はしゃいでいるだけなので黙って落ち着くのを待っていれば、はたと何かに気がついたように鳥面は突然その動きを止めた。
「ごめん、珍しくってつい!」
鳥面がその口元にからりと笑みを浮かべたのをしばし見つめた狐面は、ふ、と体を小さく沈めた刹那、鳥面から逃げ出すようにくるりと背を向け走り出した。
「えっ」
曲がり角に消えた影を慌てて追っても時は既に遅く、そこにもう人影はない。
「はしゃぎすぎた……?」
あちゃあ、と頭をかいて鳥面は寝転んだ時についた汚れた服の汚れを払う。黒い洋装のパンツに土埃はかなり目立つが、何度か叩けば目立たなくなった。手に乗せた根付を指にかけ目線の高さで揺らせば、薄青の空にゆらゆらとカラスが揺れ、小さく鈴の音が鳴る。
不思議な人だった。古い着物、けれどもボロボロになっているわけでもないそれを身に纏って、更に珍しいことには顔の全てを覆う面をしていた。神社の神事やお国の行事やらでしか見かけない全顔の面、何か格式張った行事でもあったのだろうか。そうすればあの服装にも納得がいく、そういえば近所の神社であのような雰囲気の服装を見たことがある気がする、こんな街中にいるから不自然だっただけでそう考えれば途端に謎が解けた心持ちになった。
「
遠くから聞こえる声にはっと振り向いて、朝暉は駆けだした際に置き去りにした友人の存在を思い出す。
声のする方へと再び走り出した朝暉の辿る道に、ちりちりと小さな鈴の音が残っては消えた。
古来より続くその地の文化と海を渡った外つ国の文化が混ざり合い存在する混沌溢れる都。
此度語られるは、人は皆その顔を面で覆いそれが常なる国で出逢った、狐と鳥の物語。
*****
「最近、不審者がでるんですって。あんたも気をつけなよォ」
からん、と溶けた氷が半透明な黒い水面を揺らして涼やかな音を立てる。
「え、俺?何それ、どんなやつなの?」
落ち着いた紺色の着物に白いレースのエプロンを着けた狼面の女給が呆れたように溜息を零しながらコースターの上に珈琲のグラスを置く。
「有名じゃないの、今日の朝刊にも載ってたわよォ。”切り裂き屋、都に現る!正体はカマイタチか!?それとも……!”ッてね」
芝居がかった一段低い声でそう言った彼女を呼ぶ声がカウンターの奥から聞こえて、詳細を聞く前にそのまま厨房の方へと消えてしまう。
「いやカマイタチって……不審者じゃなくなぁい……?」
そんなわけないしまぁ不審者か、と誰に言うでもなく呟きながら添えられているミルクとシロップを全て入れれば澄んだ黒に白と透明なうねりが広がった。そういえばいつも元気な新聞売りが今朝も何事か明るい声で叫びながら新聞を売りさばいていた気がする。そしていつもより人が集まっていたような気がするようなしないような、と朝暉は朧気な記憶を辿りながら冷たく汗をかいたグラスを傾けた。
「今朝の記事ご覧になった?」
「ええ、また昨夜も出たんですってね。今回は殿方が被害に遭われたそうよ」
「まぁ、殿方も!恐ろしいわね」
「やはり人の仕業じゃないんじゃあないかしら、通り名通りカマイタチの仕業でなくって?」
窓際に座る貴婦人達が咲かせる声は秘めやかさというものを忘れてしまっているようで店の奥側に位置するカウンター席まで届く。店員の彼女が言っていたように都の今一番の話題らしく朝刊の内容とやらはそれまでのいきさつやらどこから仕入れたのかわからない噂話、ついでに貴婦人達の考察付きで店内を流れて行く。
どうも腰より下の衣服と肌が切り裂かれるという事件らしい。立てなくなるほど深い傷というわけではないらしいが、気がついたら切れていると言うのだから不気味だ。しかも現場は人通りの少ない通りのこともあれば人の多い大通りのこともあり場所を選ばないときている。それなのに犯人の目撃情報がないというのだから、更に不可思議である。
「女学生さんでしょ、ご婦人に、それで今回は屈強な青年ですって」
「毎回夜なのよね?」
「そうなの、決まって夜の時間だから視界も悪いし何より早すぎて見えないらしいわ」
「屈強な青年でもやられてしまうのなら私達はひとたまりもないわね」
「本当にね、暫くお気に入りの服は着るのをやめようかしら」
「でもそれじゃあお出かけの楽しみが減っちゃうわァ」
そうねそうね、と笑った後はお互いの今日の服がどうだとか身につけている装飾品をどこそこで買っただとかあとはもうたわいない話が続いて行く。
苦さの中に柔らかく仄かな甘みを揺蕩わせる珈琲が氷で薄まる前に飲み干した朝暉はカウンターの向こうで湯を沸かす店主に勘定をして席を立つ。カラカラと少し重い扉の鐘の音を後に、建物の隙間から顔を覗かせるお天道様に目を細める。
「カマイタチ、ねぇ」
風に乗って人を切りつけその血を啜るという妖怪。そんなものが果たして本当にいるものだろうか。そもそも誰の目にも見えないで切り裂いていくなんてそんな所業が人にできるものかと言われれば是と言い切れないものの、果たして果たして。
「あ。そういえばあの子、すごい足速かったなぁ」
ふと記憶によぎるのは鈴の音と黄色い瞳の狐面。だがしかしそれでも目にも留まらぬ程ではなかった、と考えたところで友人との会話を思い出す。
『突然走り出すから何かと思ったよ』
『なんか走ってた子に俺の根付が引っかかっちゃったらしくてさ、慌てて追いかけちゃったんだよ。置いてってごめん』
『は?走ってた子……?』
『え?』
『いや、誰か走ってった子なんていたっけか?ってまぁ人多かったし見えなかっただけかね』
『いたいた、そっかそれじゃあ更に驚かせちゃったな、今度は手と手を取り合って一緒に追いかけような!』
『やめてくれ、追いつく前に僕の足か腕が先にとれちまうから』
「……うーん、まぁ、ただ人混みで見えなかっただけか!」
ひとり言には元気な声を零しながら今日も変わらず活気を帯びた喧噪の中へとその身を滑らせた。
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