拳銃

拳銃

 台無しの人生を再確認するのに最も適しているのは、散歩をすることだ。昼に電車に乗って、少し都会の方の地域ですると、一層いい。皆脂汗をかいて、蟻みたいにみっともない顔で動き回っている。赤信号をすまし顔で通り抜け、ぶつかった相手に申し訳程度の会釈。ほら、あちらにもこちらにも、たくさん似たような人間がいる。俺はそれを見ながら、することもなく金もないので、ただふらふらとうろついている。忙しなく動き続けている社会から弾き飛ばされた自らの存在を再確認すると、冷や汗の流れる背中で、帰りの駅のホームに入る。待ち時間にも、何かそわそわしている人間たちが並び立ち、目を泳がせている。汗をハンカチで拭う手からまたあふれる汗でシャツの袖が黄ばむ。電車で家に向かいながら、その日も、焦燥感が食道を抜ける感じで胸が痛んだ。

 そのようにして、今、自分は生きているのだということを感じるのが、俺が死なずに生きるための滋養になっている。それは決して明るい意味ではない。また、開き直り根性でもない。ただ単に、自分は「省かれた存在」として存在しているという事実を確認するに過ぎないことだった。つまり俺は、一人では自分が生きていることすら認識できないので、度々ある種の手段によってそれを確認しなければならないほどに弱っていた。

 朝起きると稀に、そんな気は一切ないのに首を吊ろうとしてしまう。それはある種のカリギュラ現象のようなもので、こんな紐一本で自分が死んでしまうということについての確信がなかったために、それへの好奇心より湧き出た衝動だった。俺は全く自分がこの台無しの生を生きている自覚がなかった。曖昧なままに日々が過ぎていく俺の外で、社会や世界はどんどん先へ進んでいき、街は寂れ、人は暗くなっていった。俺は見えるものが全て腐っていく日常の中で、自分がまるで水たまりみたいに蒸発していくだけなのを、見過ごして、その現状に危機感を覚えるごとに散歩に出た。自分でも気づかないうちに死んでしまうことが、怖いのかもしれない。

 それは冬の寒い日だった。朝早くから、危うく椅子をけり、首を絞めそうになっていた。ここまであからさまに死にかけたのは初めてのことだったので、焦りは強く、もはや自分は地縛霊なのではないかという妄想すら抱き始めていた。

 切符を買う余裕はなかったので、近所を歩くことにした。黒ずんだ電柱にカラスが群れている。路傍で酒を飲んで、赤っつらでぶっ倒れるじじいや、路地裏で何かをきめているヒッピー崩れみたいな動物たちがいる。その周りには俺と似たようなろくでなしが闊歩していて、しかもいかにも自分はまともだというような顔をしているから不思議だ。生活保護などでようやく繋がる生の割に、態度はでかく、気は短い。いや、そこは順接なのかもしれない、とふと思った。生活保護などでようやく繋がる生だからこそ、態度はでかく、気は短い。そうした感覚は、俺にもやはり繋がるところがある。例えば代表的には、生に対する感覚がそうだ。俺が生という概念に対する自覚がないというのはつまり、俺が根本的にはそこから逃れようとしているわけで、言い換えれば、生命に対する傲慢な考えの現れでもある。夢の国に住んでいるような心持ちでいるというわけだ。だからこそ死という危険を自覚できず、危うく死に至りかける。そうと分かっても、この屑特有の甘えた思考回路について、何らかしらの改善が見込まれるということはない。なので、定期的にその事実を目撃しなければ、俺は危ういのだ。

 公園で一休みしようと思い、ベンチに腰掛ける。すると、その内側に入れ込んだスニーカーに何かが当たり、カチ、と音が鳴った。空き缶やペットボトルとの衝突とは本質的に異なり、また、玩具のシャベルやモデルガンなどとのそれよりは少し重い音だった。不思議な感触は俺に夢の国的な感情を催し、それはやがて強い好奇心へと変わった。ベンチの下に手を伸ばし、掴んでみると、思った通り重い。更に言えば金属の、冬に強調された冷たさがある。妙な、これまで触ったことのない重厚感にわくわくしつつ持ち上げる。すぐには気づかず、次にただ理解して、最後に驚愕した。

 なんと視界一杯に、拳銃が広がっていたのだ。手のひらの上に、重みのある冷たい拳銃が、冬の薄い光に照らされて、きらきらと光っている。驚愕したあと、俺はこの事実を通報しようと思いつつも、しかしなんとなく右ポケットに突っ込んだ。少し遠くの交番に持っていこうと思い、立ち上がる。熱を帯びた太ももに、ズボン越しに伝わる冷たさが未だ俺の中に輝きを保ち続けていて、むしろ増し始めているのを知りながらも、明らかなトラブルを避けるためにはやむを得ないという考えがあった。

 ゆっくりと歩いていく。街は、改めて見ても荒れていた。ヒッピーもどきが路地裏で盛っていた。じじいは頭がやられたみたいで、項垂れて車道と歩道の段差に腰掛けている。俺はそういった奴らを見て交番に向かう途中、ふと立ち止まってしまった。というのも、俺にとって、その優越感というのが果てしなく大きなものに感じられたからだった。あの夢みがちの馬鹿どもを横目に、交番に拳銃を届けるという明確な正義を行っている自分の存在についてもそうだったが、何より、無力な弱者の中、俺一人が拳銃という力を潜めているその状況が気持ちのいいものだった。だからこそ立ち止まったのだ。この瞬間、俺は警察に拳銃を届ける気を全く失った。むしろ、拳銃は俺に与えられた力だと思った。こんなに気持ちのいいことは初めてだった。その瞬間に俺は生を実感した。あるいはそれは、夢の国に模倣された生の概念だったのかもしれなかったが、しかし拳銃という力は俺の中の夢の国に一定の説得力を持たせた。夢の中にいても、生きることのできる手段を見つけたと思った。取り残された自分という存在が、初めてそこで自立した一つの物として成立したと感じた。無形の自我が、拳銃という暴力性によって固められ、俺はそこに必要性を得た。俺は、散歩などではなく、これを必要としていたのだという確信が、その瞬間に生まれた。

 引き返すと、狭く寒い家の中で、何より早く拳銃を取り出した。洗練された機能美のフォルムが俺を刺激する。嬉しくなって、窓や壁や、いろんなところに拳銃を構えてみた。

「ばん、ばん、ばん、ばん……」

 生きていることを改めて知った。それは、自分が他に干渉する方法を手に入れたからであり、明確な死のメタファーを手に入れたからであった。疎外することができない自分というのを感じてみて、俺は感動的なほど気持ちがよくなった。

 その夜は満足で、朝には死のうとしていたということも忘れて、安らかな気分で眠りに落ちた。寒さすら心地よく、奮い立つ体が自然にそれを忘れさせもした。

 しかし次の朝起きてみれば、自分は弱者のままであることを悟った。拳銃という力はあるものの、それはいわば一度きりのものだからだ。マズローの欲求段階説のようにして、俺は継続的な干渉の形を求め始めていた。そしてふと思いついたのは、交流だった。俺は拳銃という力によって、社会に一度だけ干渉できる方法を手に入れたので、次には友好的な社会への干渉方法を手に入れるべきなのである。そうでなければ、継続的な干渉は達成されない。なぜなら、俺には多くの人を支配するだけの力はないからだ。

 まずは身近なところから始めなければならないと思った。弱者同士の交流の方が、関係としては自然であるからだ。

 ふとしたところで目があったのは、ヒッピーもどきのうちの一人で、ぱっとしない立ち位置の奴だった。

「君、ちょっといいかい」

 ヒッピーもどきにすらなりきれていない奴なので、変に突っ張ることもできず、なし崩し的に会話が始まる。

「なんですか」

「普段何してるの」

「急に、本当になんのようですか」

「いいから」

 少し考えたが、答えるに値しないと思ったのか、無言になった。これこそ、俺が社会の外にいる証明でもある。俺はそれにどうもむかついたので、早々に言った。

「拳銃って、見たことある」

 少し後退りしたが、俺にそんなはずがないと踏んだのか、取り直して

「ないですけど」と返す。

 俺はその像を見る。俺と同じぐらいの背丈で、頭の形が綺麗な子供だった。

「持ってんの。ほら」

 すると悲鳴を上げようとしたので、俺も驚いて、不意に引き金を引いてしまった。

「ばん」

 その綺麗な形の頭に綺麗な弾痕ができた。死に際、俺にもたれかかる態勢をとったので、ふと横によけると、顔から地面に衝突し、髪を持ち上げると鼻が曲がっていた。 俺は怖くなった。俺はただ、友好的なコミュニケーションがしたかっただけなのに。死体をそのままに、俺はその場から逃走した。

 走って家に駆け込んだタイミングで、拳銃を右手に持ったまま走っていたことが分かった。そして、誰かに見られていなかったかと思えば、あの老人、いつも路傍で飲んだくれているあいつだけだとなり、急いで家を飛び出した。

 その道路にいるのを見かけると、俺は真っ先に近づいて言った。

「見てた?」

 すると半目で髪を掻きながら、

「なにか、走ってたけど。なんか用でもあるのか」

 キッと睨みつけても、変わらぬ様子だった。

「何か持ってたの見た?」

「黒いの。落としたりしたか」

 おどけた感じで、馬鹿みたいにいうのが怪しい。

「惚けてるなよ。お前、死にたいのか」

「辞めてくれよ、俺は飲んでただけなんだから」

 そして拳銃を取り出して、その頭に突きつけた。

「おい、冗談か? こんな老人揶揄って楽しいか」

「ばん」

 撃ち殺した。こいつは俺を目撃していたに違いない。拳銃を右ポケットに隠して、ゆっくり歩いて帰った。

 家に着くと、動転して何もできなくなった。二人の人間を殺したことを自覚したのだ。明らかに、無実で人を殺した。ヒッピーもどきにしても、老人にしても、俺は何一つ殺意があったわけではなく、ただ、その場の感情や驚きで殺した。そういう意味で、俺は自分の中で、未だ生きていることを認識していたわけではなかった。説得力を持った夢の中の生は、いわゆる社会への干渉という加害的なものだったために、そもそも、友好的な交流など行えるはずがなかったのだった。そして何より、俺は友好的な交流を行う能力がまずなかった。加えて、友好的な相手に対しても友好的ではいられなかった。あくまで俺が抱いていた友好的というのはただ自分勝手な空想であり、それが夢の夢たる所以でもあったのだろう。俺は二人の人間を撃ち殺すという干渉を持って、自分を社会にめり込ませた。それがどう作用するかは自明であり、これこそが一度きりの干渉でもあったのであるから、俺はこの瞬間前のように戻ったばかりではなく、犯罪者としてのレッテルを抱えた人間として新たに疎外し直されたわけだ。俺はそのことが恐ろしくたまらないのと共に、自分という存在がそもそも、根本から生を分かり得ない存在なのだということが分かり、その虚無感に堪えず動けなくなっていた。

 しかし、次の日になっても、その次の日になっても、一ヶ月が経っても、事件が大事になることはなかった。俺はそれを見て、もっと悲しくなった。俺は拳銃という力を持ってしても社会になんら干渉することができず、また、俺が殺したような屑たちのためには、元々社会は動いてくれないのだというその証明が同時になされてしまったからだ。そうして、俺は同じように街を彷徨うようになった。

 ある時、朝起きて首紐をかけようとしていると、窓際に置かれた拳銃が目に入った。朝の光が黒く澄んでいる。そしてふと思いついたのは、それで死ねばいいじゃないかということだった。口にそれを咥えてみると、意外と居心地が良くて嬉しかった。そして、最後まで俺は死とか生とかが分からないうちに死んでいくのだなと思い、引き金を引いた。

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