君の笑顔はあの日のまま…

白下 義影

 

「となり、いいですか?」

 

 

えっ?

突然、声をかけられ、思わず顔をあげてしまう。

秋が深まるどころかもう冬の入り口に達し、木の葉を落とし裸同然となった木々が並ぶ公園で、一人虚しくベンチで男が座っているのだ。

そんな人物に、彼女は声をかけるどころか隣に座りたいと言ってきた!

他にも空いているベンチは多々あると言うのに、何故?

と、僕は疑問を抱きつつも相手の顔を拝む。

彼女も少し真剣な眼差しで自分の顔を見つめてくるので、少し居心地が悪い。

「やっぱり! 本原君だ!」

急に自分の名前を呼び始めた彼女は、満面の笑みをこぼした。

その笑顔に、急に懐かしい気持ちが溢れ出してくる。

「南…、さん?」

記憶の中にあった彼女の顔と目の前の彼女の顔を重ね合わせながら、自信なく名を呼ぶ。

すると、目の前の彼女は記憶の彼女と全く同じ笑顔を見せてくれる。

「そうだよ~。久しぶりだね。中学以来、かな?」

「そうだね。十年ぶり。いや、それ以上か。」

「もうそんなになるんだね~。でも、そっか。本原君、あのころとはだいぶ、雰囲気とか変わったもん。」

「あぁ、まぁ。」

と、なんとなく言葉を濁す。

確かにあの頃とは変わった。

それこそ、社会に打ちのめされ、明日に希望無く、一人寂しく生きるようになる程度には。

だが、それを口にするほど、野暮なことはしない。

彼女に合わせ、話を続ける。

「そう言う君も、変わったね。すごく、綺麗になった。」

「ん~? 口説いてる~?」

彼女はにんまりと笑いながら、遠慮なく隣に座る。

そして、妖精のように綺麗な左手を僕に見せてくる。

「でも、残念。私、もう人妻だから。」

薬指には控えめにもしっかりと輝く結婚指輪。

それを誇るでもなく、見せつけるでもなく、純粋に嬉しそうに紹介してくれた。

それは、昔見た笑顔と変わらない笑顔が証明してくれる。

「へぇ。結婚したんだ。」

「うん。3年前に。だから、今の私は、南葉月じゃなくて、丹羽葉月、だよ。」

「あれまぁ。それなら、丹羽さんって、呼ばないとだめか。」

「べつに、はづきって呼んでもいいよ?」

「人様の奥さんを、今から名前で呼ぶのは気が引けるなぁ。」

「え~。それなら、本原君の奥さんになったら、呼んでくれる?」

「!?」

隠しようのない驚きをさらけ出すと、彼女は勝ち誇ったように口角をあげる。

からかわれたのだと分かって、思わず苦笑いをしてしまう。

だが、このまま何もしないのも癪なので、からかい返そうと考える。

「ところで、君は愛しの旦那さんがいるのに、こうして他の男と油を売ってて良いのかい?」

「いいんだよ~。せっかくのデートなのに、トイレに行ったきり戻ってこないんだから。」

唇を尖らせている彼女は本気で怒っているようではないが、不満はたまってそうだ。

だが、それは一瞬の出来事で、彼女はいつも通りの笑顔を向けてくる。

「それに、クラスメートに久しぶりに会ったんだもん。たった2、3言だけ話してバイバイは、寂しいよ?」

少し首を傾けながら切なそうにする彼女は、今までとは違う魅力があった。

その何気ないしぐさに、胸が高鳴るのを感じる。

そして、この感覚は昔もたくさん味わった。

それこそ、彼女から。



あれは、中学3年のことだった。

人生何度目かのクラス替えがあって、彼女とは、南葉月とはクラスメートになった。

お互い入学当初から同じ中学に通っていたはずだが、面識はまるでなかった。

だが、僕が彼女の名前と顔を覚えるのには、それほど時間がかからなかった。

一目惚れ、何て運命的なものではない。

ただ、出席番号が近いという影響で、4月の頃は席が近く。

移動教室なんかでは同じ机を囲むグループに振り分けられていた。

そのため、理科室での実験や技術室での課題制作では毎回顔を突き合わせていた。

特別美人というわけではないが、優しい笑顔と可愛く動く身振り手振りにいつの間にか、心が惹かれていた。

我ながらチョロい、としか表現のしようがないが、中学生男子にとってはそれだけで十分なのだ。

頻繁に共に活動する女子に、しかも、険悪な空気が無く、優しくしてくれる子がいたら特別な感情が生まれるのは当然だろう。

それからは、なんとなく、彼女を目で追うようになっていた。

休み時間では友人同士で何気ない会話を広げ、無邪気な笑顔を見せる。

テストでは真剣に答案用紙に向かうも、ふと顔をあげ、答えを考える後ろ姿。

教室移動のときは、教科書や筆箱を抱きかかえるようにして歩く。

その一挙手一投足が僕にとって、大切なものに思えた。

でも、好きだという気持ちは彼女に伝える事はなかった。

あと数ヶ月したら卒業し、9割方違う高校に行く運命なのに、告白するという行為に何の意味があるのだろうか。

卒業式に玉砕覚悟で思いを伝える。

なんて、青春じみた、いや、まさに青春そのものを実現することも考えたが、その案は一瞬で消えた。

だって、困り果てるだろう、彼女は。

大衆の前で振らなければならない少女に、なぜ彼女を仕立て上げないといけないのか。

友人知人、クラスメート、同級生、先生に保護者…。

下級生もいただろうか、その辺は覚えていないが、何はともあれ、未来永劫語り継がれる一幕になるだろう。

なんて、彼女のことを思ってました、と考えながらも、自分が振られるのが怖かっただけかもしれない。

それならばいっそ、自分の胸の中に…。



何とも甘酸っぱくとも、大切な思いが胸いっぱいに広がる。

10数年ぶりに思い出した、いや、10数年間心の中でひたすら忘れようとしてもずっと残り続けた、南葉月が好きという気持ちが、今、強くあふれる。

でも、彼女にとって僕はただの級友。

思い出話に花を咲かせる相手、いや、それに十分見合う人物以下の存在。

ならば、明日になったら忘れてしまうようなひと時を過ごすことが、この場では一番最適な行動だろう。

あの頃の記憶を思い出しながら、既婚者となった彼女しばらくの間、昔を語り合った。

「あっ、そうだ。」

彼女は何か思い出したかのように、手を胸の前でパンッと合わせる。

かと思えば、頬を膨らましながら見つめてくる。

「私、クッキーの1枚食べたくらいで、太らないからね。」

唐突過ぎる小言に、言葉を失う。

だが、それは何のことか、すぐさま思い出す。

「調理実習のこと、根に持ってたのかい?」

「うん。本原君に会ったら、言っておきたかったんだよ。」

その顔には、怒りも恨みもなく、達成感が溢れていた。

はたから見れば、そんな小さなことを、と思うかもしれない。

だが、女の子にとって、体重は、体型は、それはそれは重要なことなのだろう。

その小さなプライドを今、守り通したという気持ちが、彼女にとっては大きな喜びなのかもしれない。

目の前にいる思い人の行動に心奪われつつも、彼女のことを一番鮮明に覚えているあの日を会話にする。

「懐かしいね、調理実習。手作りクッキーを焼くのが、あんなに難しいとは思わなかったよ。」

「う~ん。本原君、変なこと言ってたもんね。」

「あ~。材料混ぜる時の話?」

「うん。ほんとは全部、ボールに入れないといけないのに、小麦粉が入ってた袋に入れるなんて言うから、ビックリしちゃったよ。」

「あれはすまないね。本気で勘違いしていた。」

「それに、生地を人数分に分けた後、一人4枚作るはずなのに、なんで5枚になるの?」

「いや…、なんか分けていってたら、4枚目が大きくなりすぎたから、もう一つ作った。」

「そのせいで、均等に食べていっても、1枚残るもん。しかも、それを私に食べさせようとするし。」

「それは僕じゃなくて、前宮が言い出したことで…。」

「うん。ちゃんと覚えているよ。前宮君が最後の1枚、私にどうぞって言い出したら、本原君が『太るぞ』ってぼそって言ったの。もう一回言うよ。私、クッキー食べたくらいで太らないから。」

「分かった、分かった。今の君を見たら、太らないって分かるから。」

勝ち誇った顔をする彼女を、その全身をゆっくり見る。

冬の装いで体のラインがはっきりとは分からないが、決して太っている体型でないのは一目瞭然である。

10数年こんなことを気にしていたのかと思う反面、自分のことを覚えてもらっていたのは嬉しい。

しかも、クッキー作りのことを、彼女はかなり覚えているようだ。

それならば、あのことも。

僕が南葉月について、一番印象に残っているあのシーンも、彼女は覚えていてくれてるだろうか。

「あれは覚えてる? 小麦粉、振るの。」

確か、小麦粉がだまになっているのを崩すために、粉が入っている袋を振りましょうっていう作業。

特に役割分担をしているわけではなかったが、気が付いた時にはその作業を彼女はやっていた。

そしてその後の会話が、一番印象的だったのだが、彼女は考える素振りを見せた。

さすがに、覚えていないか…。

内心諦めかけた時、彼女は行動に移った。

「これ?」

首を傾けながらも彼女は懸命に、右手のこぶしを握り、軽く上下にシャカシャカと振っている。

思わず笑みがこぼれてしまうが、そんなこと気にしない。

「そう、それ!」

「これが、どうかしたの?」

と首を再びかしげる彼女。

だが、右腕は相変わらず上下にシャカシャカしている。

その姿はとても可愛らしく、あの時も、そして今も心をくすぐる。

「楽しそうだね。」

あの時と一言一句違わないセリフを、再び彼女に向ける。

すると、一瞬視線がずれるも、彼女はすぐさま僕を見つめる。

「やる?」

いまだに手を上下に動かしながらも、少し自分の方に突き出してくる。

そして、あの優しい笑顔で、あの時と一切違わないセリフと行動、そして表情で僕を虜にする。

これが忘れられなかった。

年齢もあの時の倍近くになったが、それでも忘れることができなかった。

そして、その後の意気地なしな自分も。

確か、あの時は照れ隠しで「いや、いいや。」と言いながら視線を外したっけ。

その後、彼女がどんな表情をしたのか、もはや知るすべもないが、今ならあの時をやり直せるだろうか。

意を決して、10数年、こう言いたかったセリフを口にする。


「君がやってるのを見ていたい。可愛いから。」


ボッ っと彼女が赤面したのは、寒さが理由だから、ではないだろう。

目も泳いでいるし、口元も正常を取り繕うと必死に震えている。

でも、相変わらず右手だけは、あの日のように動き続けている。

しかし、その腕もだんだん力が弱くなり、振る幅が小さくなったかと止まってしまう。

それと同時に、時も止まってしまった。

その中で、唯一、彼女の表情だけが動いている。

そして彼女が選んだ顔は、残念ながら彼女が下を向いてしまったので分からない。

だが、耳が赤いのを見ると、まだ、恥ずかしがっているのかもしれない。

「口説いてる?」

数分前に聞いた言葉と同じだが、今回は恥じらいと不安が現れていた。

だが、それを気にせず、僕はあの日をやり直す。

「うん。」

「え~と。それって、私が好き、ってこと?」

「うん。」

「いつから?」

「中学の時から。」

言った。

言い切った。

僕の胸の中にある思いを言い切った。

そうなればよかった。

だって、実際は言えてないのだから。

これは妄想。

彼女と話しながら、こんな会話ができればと抱いた幻影。

夢を描くもそれはあくまで夢。

現実の彼女は腕を突き出したまま、上下にシャカシャカといまだに振っている。

「…。いや、いいや。」

史実通りに、僕はセリフを呟いた。

そして、これまた史実通り、視線を彼女から外した。

これで、再び歴史は繰り返された。

そして、その歴史も終わった。

胸が締め付けられる思いを残しながら。

「え~、いいの~?」

思いがけない言葉が、耳に入る。

彼女を見ると少し寂しそうに笑っていた。

「だって、あの時と同じことをするんだもん。何かあるのかなって思っちゃうよ?」

どうやら彼女は勘づいていたようだ。

だが、この思いまでには至っていない。

それでいいのかもしれない。

「う~ん。本原君がそれでいいなら、いいけど。もう一回、チャレンジしてみる?」

再び手を振り出した。

その誘いはとても甘美な物であった。

だが、相手はもう結婚した女性。

僕の思いを伝えるチャンスだなんて、決してあってはならない。

それに、ほら。

君の居場所はここではないだろ?

「はづ~。」

遠くから目の前の少女を呼ぶ声が聞こえる。

ふと、彼女がそちらを向くと、あの日と変わらない笑顔が現れた。

「あっ、ごめん。旦那が来ちゃった。もう行かないと。」

彼女は立ち上がり、愛しの人のもとへ歩み出す。

その後ろ姿は幾度となく見てきたが、あの頃と全く同じ去り方だった。

少し、寂しい気持ちが込み上がってきたが、それはすぐに消えた。

くるりと振り向いた彼女が、自分の一番好きな表情で口を開く。

「またね。」

手を軽く振り、そして笑顔のまま、彼女は走り去った。

遠くで見える彼女は、あの日の笑顔と変わらないはずだが、少しだけ大人な表情を見せ、旦那の腕に自分の腕を絡ませる。

そして、二人仲良く歩み始める。

きっと、これからも、ずっと。

死が二人を分かつまで。


フゥ


思わずついてしまったため息が、行き場も無いまま消えていった。

そして静寂が響き渡り、また、寂しさが世界を支配する。

「よいしょっと」

それを振り払うように、僕は声をあげて立ち上がった。

だが、口元だけは何故か、強張っていた。

それが顔全体に広まるまで、そんなに時間がかからなかった。

目元に溜まった涙をこぼさないよう、目にありったけの力を入れる。

だが、それは目を閉じることとなり、結果、一筋の雫がこぼれ落ちる。

さらにもう一粒、とならないよう目を開けるも、情けなく口も開きかけ、息を吸う音が漏れてしまう。

それを押し殺そうと顔に力を入れるも、結果、また涙がこぼれてしまう。

もう、泣くのをとめるのは無理だと悟り、手で顔を覆うも、気休めにもならない。

ただただ、心の中の思いが、溢れ出すばかりだ。

そう、僕の青春は彼女と共にたった今、過ぎ去ったのだから…。





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