邂逅


「ニズ君って今いくつ?」


事務室から大量の書類を抱えて研究室に戻ってきたアスがいった。


音を立てて机に積まれたバインダーが重力に従おうと滑りだす。

慌てて支えたアスは、ビーカーを端に寄せ、バインダーを平置きにした。

「......んだこの馬鹿みてぇな量は」

「半分はエルちゃんのだから、おれたちはその半分をもう半分にできる......ニズ君何歳?」

適当にめくった書類から顔をあげ、再び問いかける。

「......35だ」

「それ信じる人は信じちゃうよ......事務の女の人たちが知りたがってた」

「調べりゃ出るだろ」

黒いバインダーを手にとって中を見た。少し前に回収した灰死体の現場調査報告と検査結果。特筆すべきこともない極普通の灰死体。いちいちこっちがとったデータと照合してあの陰鬱納棺師に回さなくてはならない。


「その権限はないんじゃないかな....室員の情報は機密なんでしょ」

声につられてバインダーを手際よくラックへと収納するアスを見た。

機密という言葉が脳内で反復される。

目の前のこいつも、先ほどから声を潜めて様子を伺う周りの奴らも、どこから来てどんな過去を送った、とか。お互い何も知らないし、知りたくもない。


黒い瞳をこちらへ向け、手を差し出すアスを見て思った。ここへ独り残され弱音も吐かず、むしろ嬉々とするようなこの神経はどこでねじ曲がったのだろう。

自分のことを話すなという決まりはない。聞けばべらべらと全て話すのだろうが、聞く気はないし同情もしたくない。

アスの横を抜け、バインダーをラックへと収納した。

「じゃあおれの歳も教えてあげる」

「うるせえ」

「29だよ」

「嘘じゃねえか」


 周囲の緊張もよそに、すでにアスは自分の引き出しを漁り始めている。

「君が14足してたから、おれも」

自分の顔が歪むのを感じた。こいつがきてから明らかに俺のたばこ消費量が倍になっている。そろそろ本気でお前の口座から落とすぞ。

小言の一つでも言ってやろうと口を開きかけたとき、入り口の扉が電子音を鳴らした。

ロック付きの扉は使われた部署の社員証ごとに音の高さが若干違う。

入室したのは灰死体管理部のジャケットを羽織った男性隊員だった。妙に焦燥しており、視線を定める先を決めかねている。

「失礼いたします....!リベルタ室員はどちらに____ 」

Lが聞こえた時点で目を逸らし、意味もなく白衣の袖をまくった。しかし、隣のアスは右腕を高く挙げ、左手で俺を指差している。

「お前今月のたばこ代出せよ」

「いいよ」

より顔を引きつらせた隊員がこちらへと歩み寄る。一刻も早く出て行きたいのに足だけが前に進んでしまうといったふうだ。

「なんの用だ」

「すみません......! 彩影管理長の指名だったもので......二階の病棟まで来てください、一分一秒が惜しいです」








白衣は脱いだ。

俺は医者じゃない。

そもそも医者のハルですら着ていないのだから、俺が着ていてはどっちが誰かわからない。

屋外での応急処置がある春にとって、あんなものはハンデ以外のなんでもない。着たがらないどころか所有すらしていないのもうなずける。

しかし、病室前のベンチへ腰を下ろしドアを見つめるその様は、もはや医者というより無謀な手術をただ待つ親族のようだった。


「もう死んだのか?」

「え......ああニーズ!早く中に、これは俺の仕事じゃない」

俺を見るなり立ち上がった春は、雑に、強引に俺を扉の中へ押し込んだ。

「触ん______な」

白一色の室内は異様な雰囲気だった。管理隊の何人かが器具を漁っているが、手元がおぼつかない。響く静かな声は彩影のものだけ。壁際の無線で誰かと会話している。そしてベッドには灰死体がひとつ。そう、思った。


灰死体の傍で膝をつき、その手を握る男が目に涙を浮かべている。

灰死体を見た人間をどうした、とか。そういう話は俺たちへは降りてこない。上の奴らが勝手に決めて、勝手に実行する。そういう意味では、俺は灰死体よりもこの男に情が向いていた。


入室した俺に気がついた彩影は、話していたのは自分だというのに、一瞬の躊躇いもなく無線機を切った。会話の相手に彩影は今絶命したと勘違いされてもおかしくはない。

本人は、険しい顔で俺に一枚のカルテを押し付けると、口を開いた。「読みながら聞け。ネラの12歳、女、持病は無い。灰死後1分以内に処置が間に合っている。現在1時間25分経過__ 」

俺は彩影の言葉の途中でカルテを置き、もたつく隊員の手から器具を奪った。

灰死後______厳密には体の色を二箇所取られた瞬間。から完全に灰死するまでにはラグがある。

頭痛を感じるほどの思考が始まり、耳鳴りも追ってきた。彩影が何を言わんとしているかすぐに分かった。

この子はまだ生きてる。生きていられる。

俺がこの3分をしくじらなければ。








アスが隣にいたことに気がついたのは、額の汗を拭われたときだった。

知らないうちに指示を出していたらしく、カテーテルをトレーに置いたアスを見て瞬きする。

「お前ここで何やってんだ?」

「ええ......ごめんね、ちょっとドン引きかも」

どこで覚えたそんな言葉。

エレノアだな。

緊張が解けたのか、余計な思考が始まった。

アスに背を向け、調合した薬剤を注射器ごと春へ押しつける。

「射て」

「あ、ああ」

俺は春にも何か頼んでいたのか?

春は脂汗を浮かばせながら受け取ったものの、手つきはやはりプロだ。

素早く処置し、空になった注射器をトレーへ置く。

彩影と、付き添いの男はすでに姿を消しており、気まずそうな隊員二人だけが部屋の隅で棒立ちになっていた。

「お前らこの子を五階に運べ。501だ」

「は、はい......!」

退室の口実を与えられた隊員は、先ほどの様子が嘘だったかのような手際でストレッチャーを組み立て始めた。

灰死体____ではなかったわけだから呼び方に困る。

再びカルテを手に取り、一番上から目を通した。朝霧紫陽花アサギリ シヨカと書かれたその文字は、他の数値や状態を記した走り書きに比べ、大層整った筆跡だった。

紫陽花はすでに呼吸をしておらず、灰色一色の体はいつ見ても現実離れしている。

状態を言い表すならば、コールドスリープが最も近しいだろう。

「アス、彩影のおっさんどこ行った」

「ん......わかんないけど、10分くらい前にお兄さんと一緒に出て行った」

俺の意識は10分という言葉を拾い、体を強張らせた。

一番危ない処置にこそ間に合ったらしいが、その後の作業にそんなにも時間を使っていたとは。

アスがいなければあるいは。

やめろ、終わったことだ。むしろこいつがいたせいでこんなにかかった可能性もある。

「そうか......あの人が彩影......」

ストレッチャーに乗せられ部屋を出る紫陽花を目で追いながら、アスが呟いた。

「知ってたのか」

「うん、一華イチカちゃんがよく話してた」

空になった布団をたたみ、シーツを伸ばすアスを見た。

発せられたその名前を無視することはできなかった。

「ちゃん、って......人妻だぞ......会ってたのか?」

「うん。ここに来て初めて会った人なんだ 」

何かを思い出すかのようにアスが瞬きする。

自分の思考の片隅で面倒な探究心が蠢いたのがわかった。

彩影一華が死んだのは三年前だ。

だがアスが研究室に来たのは去年。

......研究室に。

「お前今まで_____ 」

俺の言葉を遮るようにけたたましく鳴った無線機に春が応答する。


「何? 」

「.......5階、お前行け。繋ぐだけだ、できるだろ」

「え?だけとは何事か........ちゃんと確認しにきてね」

ぼやきながらも素早く小物をまとめ退室していくアスの背を春が感嘆の眼差しで見送る。

「すごいな......上はどこで見つけてきたんだ?他の室員は灰型生命維持装置なんか扱えないだろう」

「......知らねえよ」

ポケットに手を突っ込もうとして、白衣を置いてきたことを思い出した。

「持ってないか?」

「俺は医者だぞ......今更やめろとは言えないが、せめて量を減らせ」

呆れ顔の春はカルテを手に取り、おもむろに紙を一枚めくった。

どうやら二枚綴りだったらしい。

朝霧遊アサギリ ユウ19歳......兄貴だな......一緒にいたのが血縁者でよかった。彼の色なら使える......だろ?」

どこか期待の目を向けられて居心地が悪くなった。

俺はここから先を知らない。用意されていた模範解答はとっくに尽きている。

「楽観的だな。今すぐやめたほうが身のためだ」

「......見逃してくれよ。そうでもしなきゃここじゃやっていけない」










結局五階には行かなかった。

直接文句こそ言わなかったものの、レポートを手渡すアスの視線からその心境は察するに容易かった。

そんな顔をされたところで、俺が必要なかったという事実は変わらない。

頼んでもいない数値を計測し不満を持つ余裕さえある。

俺は正直、アスに多少の気味の悪さを覚えざるを得なかった。

培ったものではない。直感の、天性のものと断言できるセンスには、歳不相応の異質さがあった。



今は使われていない病室前のベンチへ座る二人の前で立ち止まった。

彩影は俺に気がつくと立ち上がり、すぐに背を向けようとした。

「逃げることないだろうが」

「......用が済んだだけだ」

そう言って遊を一瞥し、俺が諦めるのを待とうとした。

これさえ受け取ってくれりゃ俺だってあんたに用はない。

レポートを突き出して息を吐いた。

「仕上げをやったのはアスだ。問題があればあいつに言え」

彩影は俺の言葉に顔をしかめ、ゆっくりとレポートを受け取った。

「君はOJTという言葉を知っているか」

「いいや、知らねーな」

返事はせずにレポートを二三枚めくると、再び遊を一瞥し踵を返す。俺も今度は止めなかった。


曲がり角へ消えていく彩影を見つめる遊の顔からは、相当な疲労が伺えた。

「家には連絡したのか」

静かな目をこちらに向けた遊は、わずかに首を振った。

「いえ、あの人が何もするなと」

だろうな。

そもそも連絡手段は全て預かっている可能性が高い。いつものことだ。

二つしか違わないはずだが、今の遊は酷く幼く見えた。短髪と同じく茶色い瞳が不安げに揺れ動く。

妹も同じ色だったのだろうか。

遊の視線は未だ俺で留まったままでいる。

「......ニーズだ」

「ニーズ......さん。ありがとう、って言っていいのかどうかも分からなくて。しぃは、紫陽花は......俺、どうしたらいいんですか」

ゆっくりと自らの足先へと視線を下げていく。

どうやらタイミングを間違えたらしい。こういうのは俺の役目じゃない。

とはいえアスみたいなガキに慰められたところで、より一層不安になるだけだ。

春は心理学もいけるのだろうか。

「お前が決めていい。さっきのやつから聞いたんだろ」

「死ぬか協力するかって話ですか?」

思わず肩で息を吸い込んだ。

気でも触れたのかあのおっさん。

一華さんを亡くし娘とほぼ絶縁状態になってからというもの、明らかに様子がおかしい。

「おっさんが言ったのか?じゃあ全部忘れろ」

再び顔をあげた遊と目が合う。

「ああいえ、でもそういうことかな......と」

若干の抑揚の乱し具合に、本来の、遊の素を感じとった。

「あのな......妹を起こすにはお前が必要だ。精神論じゃない、物理的にだ」

心理のことなど微塵もわからないが、遊の脈拍が上がったことは直感が知らせた。

「紫陽花をなおせるんですか......?」

食い気味に体を傾け声をうわずらせる。

余計な希望を持たせるべきか否か。俺には判断できないし先の言葉はもう取り消せない。

「物理って、輸血的な......?」

「......そうだ」

「放棄しないでください説明を」

状況に慣れてきたのか、遊の表情筋がほんの少し動き始めた。

「俺、協力は惜しみません。惜しむはずがない。だから妹を......紫陽花を......お願いします」

やはり余計なことを言ってしまった。妹のことは諦めろと、忘れてしまえと言ってやるべきだった。


来月の定例会議を想像し、虫の居所が悪くなった。俺の説得のおかげで貴重な当事者を生きたまま手元に置けるだの、研究室内の技術がどうだだの、ドーティス含め上の連中が考えそうなことは手に取るようにわかる。

違う......俺はそんなつもりで。

人ひとりの人生を拘束する後押しをしたことを自覚するのはまだ先でいい。

「ニーズさん?」

立ち上がっていた遊が控えめに俺の名前を呼ぶ。初対面の奴の心配ができるくらいには回復してきたらしい。

返事が出来ないまま悠久の時が経ったかのように思えた瞬間、背後から響く慌ただしい足音に緊張の糸が切れた。

「___ちょ、ちょっとニズくん!? だめだよ君こういうときトドメ刺すタイプなんだから」

勢いのまま俺を押し退けようとしたアスのかかとを蹴った。

アスは黒いズボンにTシャツというかっこうで、今日はもう研究室に戻る気はないのだろう。相当探し回ったらしく、払いのけようと触れた手が普段の何倍も熱い。

「いたっ、ほらもう、大丈夫? 殴られたりしてない? 」

「君......」

遊が呆気に取られたような顔でアスを見る。

「ああごめん、おれアス。この人が言ったことは全部忘れていいからね」

この貧弱な体を殴り飛ばすことはあまりにも容易だったが、こいつの場合本当にそれで死にかねない。

特に問題は無いが。

「いや......ニーズさんは何も......君もあの部屋にいたよね。ここの子なの?いくつ? 」

アスの表情が硬直した。

遊の不信感はもっともだ。今世紀最低の状態に陥った妹を、自分より年下であろう奴にいじり回されては気が気ではない。

「......29だよ」

「え......」

「___伝わらねぇんだよ」

アスの頭を真上から掴み力を込めた。アスが身をかがめ2歩ほど横へ逃げる。

「危ない」

頭を抑えながら遊へと向き直る。

「君がこれからどうするかはともかく、今日はもうネラ行きの便は無いし、空いてる部屋へ案内するよう言われてるんだ」

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