そよ風
蜘蛛が糸を紡ぐように、ほとんど目には見えないなにかを、紡いでいく
慎重に慎重に、少しずつ、毎日なるべく欠かさずに
その糸は少しずつ形作られていき、どんな風にも飛ばされない美しい模様を、描く
光に透かすと、輝きながらその姿を表す
雨の雫に飾られて、増々美しくなる
まるで宝石のように
私達はそんななにかを、静かに、密かに、紡いでいく
今日も、明日も、あさっても
飽きる事なく、いつまでも
私は、この平和が、永続すればいいのにと願った。この幸せは、変わらないものだと信じていた。
それなのに、
コンクリートで揺れる木洩れ陽の透し模様。
上着不要の初夏の陽気は、こんなにも爽やかなのに、鉛のように沈み込んでいくこの気分は、どうしたことか。
小鳥の囀り、そよ風に弄ばれるお気に入りのシフォンスカートの襞、日曜日の昼下がり。
この上ない条件が揃った穏やかな時間で、これからいったいなにが繰り広げられようというのか。
それは、目の前で俯き加減に煙草を吸っている彼を見れば一目瞭然だ。
煙草の臭いが苦手な私に気を使って、いつも離れたところで遠慮がちに喫煙していた彼。彼の中で既に決定してしまった意思の表示は、あくまでも明確なのだ。
嘘をつけない人、そこがよかったし、好きだった。
だからって、最後くらい、少しは気を使ったら? 別れる恋人は、他人よりも下の扱いなのか。
共に過ごした四年間分の時間は、なんの意味もなかったのだと、あからさまに主張しなくてもいいじゃないか。
煙草の煙に咽せながら、彼の非情な態度に、腹が立った。こんな失礼な人だったなんて。私も大概、彼のなにを見ていたのかしら? と、己の浅はかさに嫌気がさしてくる。
「一緒にいれば、どうにかなる」は、危険な麻薬だった。
離れてしまえば禁断症状が出てくる厄介なものだった。
彼との関係が不安定になればなるほど、離れていると不安で胸が圧し潰されそうになる。安心できるはずの彼の言葉に首を絞められ始める。
たまに会ったときの、彼の一挙一動に敏感になって、僅かにでも温度が違うものを血眼で探し始める。会えたことへの嬉しさや愛情は忘失し、満足できないのは、もうお腹いっぱいの慣れなのか。疲れて、違う味を求めているのか。それとも、もう気持ちがないことに対しての恐怖からなのか。確かめることも怖くて、現状維持をしてしまう意気地なしの自分。
会っているときは、苛々を押さえ、不安を忘れようと頑張って忍んでいる自分。
付き合い出して浮かれていた数年は、彼との間に、いつかこんな日が来ようなどとは想像できもしなかった。
底知れない疲労を感じるようになってからだろうか。彼への対応が雑になり、現実逃避が多くなった。
どうして・・どうして、こんなふうになってしまったのか。
私はもう彼を、愛していない?
そもそも、ちゃんと愛していたのだろうか。こんなにずっと一緒にいたのに、今となっては、それすら、もうよく思い出せない。
二十代の時に、人工中絶をした。
私は結婚する気で中出しさせていたのに、相手は違ったのだ。ただの遊びで、実は妻帯者だった。相手が悪いが、なにも知ろうとせずに結果不倫してしまった私の責任は重かった。
『おまえは妊娠しないと思ってた』
そんな、なんの根拠もない理由を述べる既婚男。でも、私は俄然産む気でいて、だから、相手に責任を取ってもらうつもりでいた。だのに、相手は嫌だと言うのだ。
『おまえのことはセフレとしか見てなかった。人間的に好きじゃない』から、堕胎しろ、と。
房事の際も電話でもメールでも常套句のように『愛してる』『おまえしかいない』と連発していた最低な既婚男の正体が明らかになった瞬間だった。
そうして、嫌がって泣く私を産婦人科に連れて行った。
子宮の様子を調べた医者が開口一番言ったのは『あなたの子宮だと、中絶したら、もう二度と妊娠できない可能性があります』だ。
私は泣いて、産みたいですと訴えたが、相手の男は了承しなかった。
無理矢理、中絶承諾書にサインさせられて、中絶手術を受けてしまった。その後から、子宮の調子がガクンと悪くなり、今でも生理予定日の前後は地獄の苦しみを味わう。
彼と付き合いだしてから、比較的早い段階で結婚の話や子どもの話がちらつき始めていたので、隠しているのもよくないと思ったので、二年前くらいに打ち明けたのだ。
「私・・もしかしたら、妊娠できないかもしれないの」
彼は、動揺を隠せないでいたが、でも確定ではないんだろう? と微かな希望に縋りつこうとした。
彼は、自分の子どもを欲しがっていた。自分の遺伝子を受け継いだ子どもを欲しがっていたのだ。私は苦々しい気持ちで、わからないと答えた。
どちらからも『検査しに行こう』という言葉は、終ぞ出てこなかった。
思えば、その時から、私たちの間には隔たりができていたのかもしれない。
彼は、「君に無理はさせたくない」「オレは君といられれば、それでいい」と口では言うが、忙しいという理由で結婚に関する話を誤摩化すようになり、子どもや家庭の話をしなくなった。それが原因なのかわからないが、彼は徐々に何事に対しても冷めた態度を示すようになってきた。
以前は、あんなにも一緒に共感していた映画や音楽や本などの話題に興味が失せ、食べ物とゲームに絞られていったのだ。
せっかくの天気のいい休日に外出することもせず、仕事が疲れたという理由で引き蘢って食っちゃ寝のゲーム三昧のぶくぶくと肥えていく彼に、私は切れて何度も喧嘩をした。けれど、彼の無気力な瞳は一向に以前のような光を取り戻すことはないばかりか、私の存在を煩わしいと感じ、険悪な雰囲気を漂わせるようになっていた。
私には、理解できなかった。
お互いに愛し合っていれば、そんなこと関係ないでしょ。妊娠できなければ、養子をもらえばいいじゃない。妊娠できないから結婚しない、だから、頑張らず大切にしないなんて、私はなんなんだ。
彼は口で言う程、私自身を好きではないのかもしれない・・
だけど、それは私も同じで。
彼のことを好きではあった。楽でもあった。ときめいた。
だのに、愛していたのか、わからない。
不倫相手と言い合っていた『愛している』は、お互いに愛があるから罪に手を染めている共犯者なのだと、まるで致し方ない言い訳を確認する合い言葉みたいだった。だからだろうか。彼とはそんなこと言い合ったことはない。
彼は年下だし、照れもあって余計に高校生の恋愛みたいな言葉しか口にしていなかったし、それで満足だった。彼と穏やかに話しているだけで、充分だった。
『愛してる』なんて大袈裟な言葉なんていらなかった。
その延長で結婚しようとしていた私達。
子どもの口約束みたいに、ふざけて未来を話したりした。どこまでが本気かなんて、わからないように誤摩化して。そうなれたらきっと楽しいだろうねってぼやけさせて。無責任だったのかもしれない。そんなことをしているうちに彼の気持ちを見失ったのだ。
いくら問い掛けても訴えても無視をする彼の態度に感化されて蘇った以前の相手との忌々しいトラウマに支配された私は、独り善がりの自問自答を繰り返した。
彼は、結婚しようとする相手とは人生を共にする責任を持てるけれど、恋愛相手に対してはただ楽しさを共有するだけの無責任な遊びだと分類している?
恋愛は、癒しとか楽しさとか刺激とか性的快楽が主原料だけど、彼にとっては、それらはあくまでも結婚を前提としたオプションみたいなもので、相手が結婚の条件を満たした場合にのみ継続されるのかもしれない。非該当者に対しては、まるで、ジェットコースターみたいに急激に気持ちが冷めていって、相手を憎しみだしたりするのかもしれない。ジェットコースターって、激し過ぎて、楽し過ぎて、帰ってくるころにはへとへとに疲れているものだしね。それで、ああしてなにもせずに怠惰にゴロゴロしているってこと?
楽し過ぎてもよくなくて、燃え尽きてしまってもダメ。程々がいい。熱が冷めない程度の距離感と愛情。それを意識していた私と、結婚しか意識していなかった彼。
そもそも、目指すものが違っていたのだろう。
不安ばかりが増していく日々に圧し潰されそうになっても、目の前の現実は変わらない。
疲れと不安が澱のようにたまった私は、ある日、とうとう切れてしまった。
今までの中で最高に切れて、彼を睨みつけ、押しのけ、暴言を投げつけた。終わったと思ったが、もう、止められなかった。
きっと、それなりに、見過ごして誤摩化していれば幸せだったはずなのに、自ら壊してしまったのだ。
正体を現した彼から繰り出される言葉や行動が、辛くて。
私を見ていない彼が、悲しくて。
どんどん廃れていく自分が、殺したいほど嫌で。
優しくなれない自分が、情けなくて。
こうして壊してしまう自分が、呪わしくて。死にたくなってくる。
どれだけ被害妄想が強いのかと、あんなに自責し続けたのに。
会えない期間が長くても、勉強したり自分磨きに専念して気を紛らわせていたのに。
いつからか、彼といる景色が輝かなくなってしまった。
いつも、四季折々で変わらずいろいろあったはずなのに。ここ数年の記憶は色褪せている。
若葉の香りを含んだそよ風が、私の頬を優しく撫でていく。
優しく優しく、撫でていく。
けれど、彼はいくらそよ風に撫でられようとも、そよともしない。
短くなった煙草を片手に固まっている。まるで、等身大のパネルのようだ。
そんな彼から目を逸らさない私は、欲を、出してしまったのだろうか?
私を、見て欲しい。
無視しないで欲しい。
話し合いたい。
それで発生する寂しさに、気付いて欲しい。
けれど、気付いてしまった。どんなに訴えても、彼には届いていないことに。
いつも同じことで怒っている自分にも。
すれ違いまくって、彼の気持ちが冷めていくのを感じるのに、彼は『オレは変わらない気持ちだ』と口にする矛盾に。
私はもう、無理だった。
変わらない気持ちで、いられるわけなかった。ただ、彼がいてくれれば満足できていたのは嘘だった。私の不安は私で埋めるしか、ない。
彼は見ているだけ。いつもそう。
私は彼を利用していたのだろうか。寂しい穴埋めにしていただけなのだろうか。だから、今も面と向かって好きすら言えない。
呼吸が溜め息になっている。
憎しみ、無責任な欲望、逃避、彼への恨みで濁った泥水が私の中を埋めていく。吐き気がする。
彼と離れるときが来たってことなのか・・・
好きだったのに。
大好きだったのに。
お別れなのか。
人は、避けられない別れに向かって、付き合い、寄り添っているのかもしれない。
どんなに楽しくても、どんなに幸せでも、最後には必ず別離が待っている。
ずっと一緒にはいられない。
それを見て見ぬ振りしながら、気付かないようにして過ごしている。
だから、傲慢になることもあれば、相手がいるのが当たり前だと安心して傷つけたりする。なにをしても大丈夫だと思っているから。それで、別れた時にどんなに相手のことが大切だったのかを思い知る羽目になる。どんなに、掛け替えのない存在だったのかも。
きっと、私も思い知る。だけど、
私たちの乗ったジェットコースターは、終着に向かってスピードを落とさず突っ込んでいく。もうどうしようもない。
なにをどうしたらよかっただなんて、もう、わからない。
ただ、お互いに疲れ果てて、お互いを嫌いになっている。
降りたら、別々に帰るだけ。でも、ほっとしているのも、事実。
振られたくない意地汚いプライドから、私は別れの言葉を先に口にする。
「・・別れよう」
そよ風がスカートの裾を揺らす。
彼は微動だにしない。
私はただの弱虫だ。
ごめんね。
失恋風 御伽話ぬゑ @nogi-uyou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます