黒南風
「キミーって、呼んでよ」
日本人離れした色素の薄い茶色い瞳。
ヨーロッパ被れを自慢するキミーは、しがないカメラマンだった。
長梅雨の影響でどんよりと黒ずんだ渋谷の街を歩いている時に、声をかけられた。
「被写体になって欲しいんだけど」
「ヌード? ヤダ」
その頃、あたしは常に苛々していた。
失恋や湿気や難航していた就活なんかの影響だったと思うが、今となっては思い出せない。とにかく、指先がちょっと乾燥してささくれただけでも、腹が立っているくらい、猛烈に怒りっぽかった。なので、彼に声をかけられた時も、ぶっきらぼうな返事を投げつけただけだった。
「違う違う。普通の」彼はカラカラと笑った。
その妙ちきりんな笑い声で、あたしはやっと彼を振り返った。
在り来りの白いTシャツとジーンズ姿に、斜めがけバッグのラフな恰好なのに、どこかモード系を思わせるのは、いずれもなにがしかのブランドなのだろうと想像できた。おまけに足元はサボだ。ワンレングスの肩までの髪は、男らしさからはおよそかけ離れている。カメラを首から下げているわけでもない、よくわからない外見に気を許したのかもしれない。
「普通って、なに?」
「ポートレート。ちょっと来て、見せるから」そう言って、すぐ横のカフェを指す。
そうして、コーヒーとカフェオレを前にして、彼が出してきた分厚いファイルには幻想的な風景や人物写真が詰まっていた。
あたしは一瞬で魅了された。
プリクラ以外は写真写りがすこぶる悪いので有名なあたしが、こんな風に素敵に撮ってもらえるならと、二文字で即答。けれど、実はもう一つ理由があって、それぞれの撮影方法について熱く語っている彼の目が、片思い後に失恋した男に瓜二つだったのだ。曖昧な二重に、くるんと巻いた睫毛。それに鋭い眼光。愛しい男とそっくりな色違いの瞳に痺れた。
一週間後、待ち合わせをした恵比寿駅に、キミーはポルシェで迎えに来た。
銀色に輝くスポーツカーは文句なしにカッコよく、アクセルを踏むキミーの木目調のサボにすらときめく。これが、スタイリッシュな都会の男なのだと、窓の外を流れていく麻布の街やレインボーブリッジを眺めて、一時の優越感に浸った。厳ついジェラルミンケースを出して撮影の準備をしている姿を、まるで芸能人気分でうっとりと待つ。
ついこの間まで、じくじくと膿んでいた失恋の傷をなんて鮮やかに塞いでくれるのだろうと、キミーを見つめるあたしの視線は既に恋の色にべっとりと塗れていた。
無名なシンガーのあたしは、渋谷にあるロックバーでウエイトレスとして働いている。
友達曰く、あたしは金銭感覚がちょっとおかしいらしく、月に二十万届かない給料なのに、聖蹟桜ヶ丘にある家賃十万の賃貸マンションに寝起きしていた。
どうして、渋谷で働いているのに聖蹟桜ヶ丘なのか。
理由は単純。好きだった男がいたからだ。見事に失恋してしまったが。失恋しはしても、お金がないので引っ越しもできない。全然余裕がないけれど、現状意思するしかない状態だった。そんなあたしを、神様が可哀相だと思ってこんな素敵な人と巡り会わせてくださったんだわ。
あたしは、数回の撮影ごときで、完全に浮かれ上がっていた。と、いうのも、二回目の撮影が終わって帰路に着こうという時、寝た振りをしてキミーを誘った計画が成功したからだ。キミーもまんざらではなかったようで、翌日には、あたしの部屋で朝を迎えていた。
ただ、ガッカリしたのは、ポルシェは、有名カメラマンだというキミーの親父さんの車で、キミー自身は実家住まいの無職であるということ。蘊蓄を垂れるのと同じくらいに、不平不満が多く、紹介されたアシスタントの仕事も途中で投げ出す癖があって、神経が細かいらしく不眠症ちっくであるということ。更には、体臭がどうしようもなくキツいことである。それを除けば、悪くない彼氏ではあるのだが、あたしの部屋に入り浸って連日やることもなくブラブラしているキミーは、よく言えばただのヒモ、悪く言えばニートのクズ男だった。
「撮影した写真、見せてよ」と、再び苛々し始めたあたしが、切り出したことがある。
キミーは「今、現像中だから」と言うばかり。
あの撮影会ですら、本当だったのか怪しくなってきた。
わざわざスタジオを借り切って撮影したこともあるし、浴衣を着たことだってあったのに。自分がどんな風に撮られているのか、見たかったし、気に入ったものがあれば、自己PR画像に使いたかった。
最近、知り合いのライブにゲストとして呼ばれることが、ぼちぼち増えてきていたのだ。ラジオの仕事も入りそうだった。知名度を上げるにはもってこいだ。なので、どんなに惚れた男の目を持っているとしてもカメラマンもどきのヒモ男に構っている暇はない。
うっとおしい梅雨が続いていた。
ジメジメしている顔色の悪いキミーと、彼の体臭が充満する自分の部屋が、うっとおしかった。
夜になってもキミーは眠らない。
小動物のようにぷるぷる震えながら、なにをするともなしに、ソファーに踞っている。時々ウトウトしては、叫び声を上げて目を覚まし、上擦った声で悪夢の内容を話す。
この人・・戦地にでも行ってたの?
夜明け前、青く染まった寝室で、夢うつつのあたしの裸体のあちこちに指で作った四角を、カメラマンらしく合わせていくキミー。
「ここに、花を飾って撮りたいな」
最終的に陰部に辿り着いて、じっくりと眺めた後でそんなことを呟いた。
興奮しているのか、むっと体臭が強くなる。
何日も満足に眠れていないあたしは、鼻に皺を寄せながら苛々と吐き捨てる。
「シャワー浴びてきて」
雨の静寂に、微かな泣き声が纏わり付いてくる。
耐えられない。こんなもの恋じゃない。
見てくれだけで決めたあたしが間違っていたんだ。そんなことは、わかってる。だけど、キミーも大概見栄っ張りの嘘つきだ。大きなことは口ばかり。偉そうなことを言っても所詮は無職。いつまで経っても、無職。夢ばかり語るけど、現実がついてこない。それでも、親の七光りで何者かになれると信じている。お気楽な思考だ。
やっと見せてくれたのは、光量の試し取りで撮った三枚のポラロイドで、だけど、普通の、そこらへんのインスタントカメラで撮っても同じくらいであろう、写真写りの悪いあたしが、曖昧な表情でぼんやりと写っていただけだ。
失望した。
あんなに大層な機材を用意して、仰々しく撮影したくせに、こんなかよ?
鏡で見ている自分や、写真にうつる曖昧な顔の自分とは全く違う自分が見つかるんじゃないかと思って密かに抱いていた期待は軽く裏切られ、なんのためにこの人と付き合っているのかわからなくなった。
あたしも到底、自分のためにキミーを利用しているんだ。でも、それはキミーだって同じ。いつでもカメラを向けられるお気に入りの被写体が側にいるのだ。無断でバシャバシャ撮ってもいい被写体、彼女であるあたしは、いったいどれだけキミーのカメラに撮られたのだろう。
最初こそ興奮したが、そのうち、撮影される度にあたしを包んで人間として見せていた常識や自制や穏便さや情や優しさが写し取られて薄くなっていくような感覚に陥った。早い話、苛々するようになったのだ。
その写真、なにに使うつもりだよ。ギャラも出せないくせに、肖像権って知ってる? と問いつめたくなる。つまり、付き合って一ヶ月で、あたしはキミーを嫌いになっていたのだ。
過去最速の冷めように、我ながら驚いてしまう。でも、仕方ない。
そもそも、無職の男は嫌いなのだ。
数日後、キミーは実家から機材の一式を運び込んできた。
「これからは、ここを自宅兼仕事場にするから」
勝手なことを言って、いそいそと機材の場所を作ろうとしている。
あたしの苛々は頂点に達した。
ふざけないで!第一声はそれだった。
恐怖に固まったキミーが、怒られた子どものような目をあたしに向けた。
「出ていって!」
「・・なんでだよぉ・・!」
弱々しく抵抗しながら、あたしを抱きしめようとするキミー。そんなことをして、うやむやにしようとしている。
結局、写真は見せてくれなかった。嘘つき。大嫌い。
開け放たれた窓から、生暖かい風が吹き込んでくる。
じんわりと汗を誘って憂鬱になる。湿気を帯びた南風だ。
あたしは、キミーの機材を引っ張ってきて玄関に投げつけた。
「なにするんだよ!壊れちゃうじゃないか!」
慌てて駆け寄るキミーに、ここはあんたのうちじゃない!と一喝する。
「もう、うんざり!」
風に嬲られる長髪の下、涙に濡れた目。色素の薄い、色違いのあたしを惑わした目。でも、違う。この目は、好きだった彼とは全く別物だ。あたしが恋した鋭い眼差しは、こんな病的な小動物みたいな目じゃない。
あたしの恋は、もうどこにもない。
「今すぐ、出ていって!」
「あ、頭、おかしいんじゃないか?!」どうかしてるよ!と悪態をつきながら、キミーは機材を持って出て行った。
あとには、風が吹き込む部屋に、あたしだけの平穏が残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます