第11話 どうも東京でデートのようです 2

 11月になり、すぐに文化の日がやってきた。


 日色は悠里と待ち合わせ時間よりずっと前に、館山駅に着いてしまった。待ち合わせは6時半だったのに、まだ6時にもなっていない。早く来すぎたかなと思っていたら、正面に悠里の姿が見えて日色は足を止めた。


「桜宮くん!」


 先に声をかけられてしまった。


「早いね」


「お互い様だよ。この時間なら6時ちょっと前発の電車に間に合うから急ごう」


「そうなるんだ」


 悠里のファッションをゆっくり見ている暇はない。彼女は走り出し、駅の階段を上り、自動改札を通り抜け、ホームへの階段を駆け下りる。千倉駅を出た電車がホームに入ってきて、2人は階段すぐの乗車位置で待つ。2両編成のワンマン車両だ。電車が止まってボタンを押すと扉が開く。2人はガラガラの車内に入って一息つき、車内のボタンを押してドアを閉める。ロングシートとボックスシートが混在しているが、君津まで乗っていくことを考えて、日色はボックスシート脇の2人並びの席に座る。悠里は少々ためらいの様子を見せたが、すぐに日色の隣に座った。


「混んできたときのことを考えたらこの方が合理的だよね」


 悠里は自分に言い聞かすかのようにいった。


 ホームに流れる発車のメロディーが車内にもかすかに聞こえる。それは館山出身で、日色たちの学校の大先輩であるX-JAPANの曲『Forever Love』である。


 今日も彼女からは柑橘系の匂いがした。自分もシトラスの制汗剤を振りかけてきた。大丈夫だと思いたい。


 今日の彼女はセーラー服風のトップスにカーディガン、チェックのキュロットスカートにスニーカーという活動的なファッションだ。歩くことを想定しているのだろう。


「今日もセーラー服風、かわいいです。2度目の私服ありがとう」


「大げさだな」


 そうはいっても悠里は照れている様子だ。日色の心の底からでてきた台詞ではあったが、間違った台詞選択ではなかったようだ。


「桜宮くんの私服は初めてだね。ジャージはノーカンで」


 今日の日色は無難な格好である。上下ワークマンの緩い感じのジャケットとパンツにスニーカー。シャツはコットンの明るい青系のものを選んだ。


「ノーカンもありがとう」


「男子とお出かけするの初めてだからいろいろ考えちゃった」


 照れた悠里の笑顔がかわいい。


「じゃあ初心者同士でちょうどいいね」


「初心者同士か。いい台詞選びだね。しかも東京に友達だけで行くなんてなんて久しぶり」


 また悠里は笑う。車内には誰もいないも同然だから人目は気にならないし、迷惑にもならない。


「僕は初めてだな。人が多すぎで緊張してしまいそうだけどストリートビューで予習はしました」


「歩いても歩いてもずっと街だもんね」


 そんな場所は館山はもちろん南房総にはない。


 館山から東京、浅草橋までは乗り換えは2回だが、乗っている時間は2時間半もある。どうやって時間を潰そうかというところだが、身一つといっておきながら、日色はサイレントギターを持ってきている。イヤホンで音を聞くタイプだ。それを足で挟んでいる。


 しかし悠里は青空文庫のアプリをスマホに入れてくるよう、事前に指示してきてもいた。


「今日はね、私が詩を好きになったきっかけの詩集を読んで欲しくて。2時間以上あるし、もちろん、朝早かったから寝てもいいんだけどね」


 悠里の隣ではとても眠れそうにないのだが、日色は聞く。


「何を読めばいい?」


「ランボオ詩集。中原中也訳」


「中原中也の訳なんだ?」


 中原中也は『汚れつちまつた悲しみに……』で知られる昭和初期の詩人で結核系の病気で30歳で没している。これから記念館にいく予定の樋口一葉は明治の小説家だが、やはり結核で24歳で夭逝している。抗生物質のない当時、どれだけ結核が猛威を揮っていたのかよくわかる。


「私はランボオ詩集から中原中也を知ったの」 


 とりあえずダウンロードして読んでみる。一通り読んでも、全く分からない。目が泳いで、頭に入ってこない。一応、有名そうな詩を、中でも分かりそうなものを読み込んでみる。そしてそれでも全くダメで、日色は小さな声で読み上げる。


「飢餓の祭り


  俺の飢餓うえよ、アンヌ、アンヌ、

   驢馬に乗つて失せろ。


俺に食慾くひけがあるとしてもだ

土やいしに対してくらゐだ。

Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、

岩を、炭を、鉄を食はう。


飢餓うえよ、あつちけ。草をやれ、

  おんの牧場に!

昼顔の、愉快な毒でも

  吸ふがいい。


乞食が砕いたいしでもくらへ、

 教会堂の古びた石でも、

 洪水の子の磧の石でも、

 寒い谷間の麺麭パンでも啖へ!


 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、

   空鳴り渡る鐘の音。

 ――俺の袖引く胃の腑こそ、

   それこそ不幸といふものさ。


 土から葉つぱが現れた。

 熟れた果肉にありつかう。

 うねに俺が摘むものは

 野蒿苣のぢしゃに菫だ。


   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、

   驢馬に乗つて失せろ。」

(この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。) 



「さっぱり分からない。これの何が良かったの?」


「分からないのが良かったのかなあ。当時はすごい衝撃的で」


 とてもこれを女子中学生が読んで衝撃を受けるとは思えない。全スルーが普通だと日色は思う。


「まてまて。超訳してみると『人間の飢餓は際限がなくて、聖なるものも卑なるものも関係なくて、ただそこにある不幸なんだけど、生命の力の前には癒やされる』でいいのかな? 雰囲気だけで連ねている気もするけど」


「桜宮くんがそう捉えたのならそうなんじゃないかなあ?」


「奥歯にものが挟まったような言い方だね」


「シュールって言葉、知っているよね?」


「シュールだなあ、みたいな。現実離れした的な意味で使う」


「どうもランボーはその先駆的な存在で、元々は現実離れっていうか、それは結果としてそうなるんだけど、既存の権威とか常識や肉体の限界から離れたところから生まれるものを探求していた、みたいなことだったらしい」


「それで土や石に対して食い気を覚える、か。教会も皮肉っているし」


「どうやっても分からない、けれど意図がある。そんなものは初めてで、言葉がお互いを理解するためだけにあると思い込んでいたからかな。でも詩は自由だ。受け取り方も書き方も。そこが小説とは大きな違いだよね」


「小説も受け取り方は自由だけどその大部分は間違わないように導かないと、受け取るところまでたどり着かないところが違いかな」


「ランボーもこの詩では大地や生命の力は否定していない」


 それは面白いところだと思う。


「壊し続けるからこそ、壊せないもの、壊してはいけないものに気づくのかな」


「それは私と桜宮くんの読み方で、きっと他の人には他の読み方がある。それにね、ランボーが詩を書いていたのは十代後半で、私たちと同世代だったんだよ」


「天才だ」


「今も理解しなくていいと思ってます。ただたまに眺めるだけ。でも、桜宮くんには読んで欲しいと思ったんだ」


 悠里は日色を見る。


「どうして?」


「分からない気持ちを共有して欲しかったから。分からないことと知らないことを放置するような人だったら、きっと私と同じ時間を過ごす時間は短くて、上り列車と下り列車みたいにすれ違うだけだと思う。そうじゃないと思いたい」


 日色は考える。


「知らなかったことを教えて貰えるのは楽しいことだ。自分ができるかもしれないことを理解しないまま放置するのもイヤだな。その点のベクトルは近いんじゃないかな」


 悠里は再び正面を向いた。


「桜宮くんについてきて貰って良かった」


「帰りもそう言ってもらえるようにしたいね」


 日色は口の両端を引き締め、気持ちを確認する。


 ランボーの話をするだけで君津に到着した。時間が経つのは早かった。向かいのホームで待っていた始発の快速電車に乗り、錦糸町で総武線各駅に乗り換えて浅草橋に8時半に到着する。2時間半もかかったが、君津から先は樋口一葉の話をしていたのであっという間に時間が過ぎた。


 好きな人とならどんなところでもいいんだと日色は改めて思った。


 都営バスの一日券を買って、浅草方面を乗り継いで一葉記念館に、開館時間ちょっと過ぎたあたりで到着する。落ち着いた公園の前にある新しい建物で、中に入ると古い書物やパネル展示、文机や当時住んでいた頃の台東区の通りを再現したジオラマなどがあった。


 樋口一葉の小説は文語体なので現代人には読みづらい、というか読むのは困難だ。しかし現代語訳があるので、今度、読んでみようと思わせる刺激を受けた。特別展は明治の東京の様子をまとめたもので、興味深かった。


 1時間弱くらいで記念館を出て、前にある甘味処で時間を潰そうという話になる。

「女性が身体を売らなくてはならなかったり、ストーカー殺人、DVなんかがテーマというんだから女流作家の先駆けというのも分かる」


 あんみつを食べながら悠里は半ば呆れたようにいった。


「明治と比べれば女性の権利はだいぶ拡充されたと思うよ」


「想像を絶するけど――いい時代に生まれたんだなあとは思う」


 日色はお茶をすする。


 なにやら通常運転になってしまった。詩の勉強会の出張版でしかない。これならまだ犬の散歩に出くわしたときの方がよっぽどデートらしい。デートだと思っていたのはどうやら自分の方だけだったことに気づき、日色は小さく嘆息してしまうのだった。

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