第10話 どうも東京でデートのようです 1

 もうこの画像を何度眺めたことだろう。


 日色は2人と1匹の画像をスマホで眺めてはスマホをスリープにする。ロック画面の壁紙にしたいが、そんなことをしたら誰に見られるかわからないので我慢する。


 自宅のテーブルで楽譜ノートに向かうが、音符を置いていく作業はぜんぜん進まない。もともと作曲も初めてだから、音符の意味などを間違えないよう、音楽記号一覧を印刷して手もとに置いてある。せっかく小中と授業でやったんだからまじめに覚えておけば良かったと少し悔やみもしたが、一歩一歩進んでいくのが実感できて楽しくもあった。


 それなのに楽譜が手につかないのは悠里の笑顔のせいだ。


 あんなに近くにくっついて写真を撮られて意識しない方がおかしい。なのに彼女の方は変わった様子がない。悠里は男子との距離感がバグっているような女子ではない。どうしてこんなことになっているんだろうと何度見ても頭を抱えたくなる。


 だが、この画像は日色の宝物だ。


 また眺めていると悠里から連絡が入った。


〔文化の日って予定あるかな?〕


〔文芸マーケットに行きたいんだけど一緒に行かない?〕


 そしてWebのアドレスが貼り付けられていた。


 日色は大きく深呼吸した。アドレスをタップすると文芸マーケットの概要が出てくる。全国各地で行われているコミケの文芸版のようなイベントで、東京では年2回、秋の開催が来週の文化の日ということらしい。会場は東京・浅草だ。日色は震える指で返事を入力し、送信した。


〔予定はないけれど――音声通話していい?〕


 日色はもう我慢できなかった。悠里からの返事はなく、その代わり悠里のアイコンが出てきた。


『桜宮くん?』


「うん。そっちからくれるなんて思わなかった」


『迷惑じゃなかった?』


「大丈夫だよ。楽譜ノートに向かっていたんだけどぜんぜん進まなかったから」


 日色はリビングを後にして自分の部屋に向かう。母親には聞かれていただろう。秘密にするようなことではないが、小っ恥ずかしいのは間違いない。


『ううん。そっちじゃなくて、東京のイベントに誘って』


「めちゃくちゃ嬉しいよ」


 つい声が大きくなり、日色は慌てて部屋の扉を閉める。


『交通費だけでも結構かかるし』


「無駄遣いしていないからぜんぜん大丈夫」


『1日がかりになるよ』


「電車の中だって歌集や詩集が読めるし、移動時間も有効利用できるよ」


『――私に誘われて』


「心外だ。もしかして詩の勉強会もいやいやお付き合いしているかとか考えてた?」


『ちょっと』


「今の僕は、何か突然のトラブルでこの話が空中分解しないか心配している」


『気が早い』


 悠里の笑い声が聞こえた。自分は冗談を言ったつもりはないのだが、結果オーライというものだと日色は心の中でガッツポーズをとる。


「体調を崩すかもしれないし、荒天で電車がとまるかもしれないし、サイフを落とすかもしれないし、寝坊をするかもしれないし」


『反復技法だ』


「ホントだ。でも寝坊は絶対にしない」


 するはずがないと日色は思う。眠れなかったら徹夜する。


『私も体調管理はしっかりするね』


 目の前に彼女がいるはずもないのに日色は頷いた。


「正直、興味があるかと聞かれると漠然としているけど行けばなにかしら得るものはあると思うしね」


『1人で行くの、ハードルが高いから桜宮くんが来てくれたら嬉しいなって』


 日色は胸を押さえる。萌え死にしそうだ。


『あとね、浅草だったら行きたいところがあって、そっちもいいかな。樋口一葉の記念館が近くにあって』


「5千円札?」


『5千円札。明治を代表する女性小説家で、彼女が書く小説は暗い話ばっかりだけど、和歌も書いていて、興味があるんだ。文芸マーケットが始まるのが12時からだから、午前中に回れるといいかなって』


 1日中、悠里と一緒だなんてこれはデートだ。胸の鼓動の高鳴りを抑えられない。彼女は分かっているのだろうか。分かっているに違いないが、強引に押してくることがない自分に安心しているのも確かだろう。


「スケジュールは任せるから、僕は身一つでいくよ」


『しっかり予習しておくけど私、方向音痴だから』


「ナビ使わなくても僕は地図を読めるよ」 


『心強いね』


 日色はそんな言葉を悠里から貰えて嬉しい。


「楽しみにする」


『うん』


 スマホ越しの彼女の声が近くて嬉しい。なんの相づちなのか分からないが、それは些細なことだと思いたい。


「じゃあ、また明日」


『切るね』


 通話が終わり、日色はどっと疲れを感じた。緊張した。


 明日、教室でどんな顔をして会えばいいのか分からない。いつも通り、ただのクラスメイト――今だってただのクラスメイトだが――でいないとならない。


 顔が緩まない自信がなくて、今から、表情を引き締める練習をしてしまう日色だった。




「よし! 誘えた」


 文芸マーケットには以前から行きたかったのだが、東京で1人というのは田舎の女子高生にはハードルが高い。誰か一緒に来てくれないかと思っていたのだが、考えてみれば日色を誘えばいいことに気づき、今回、思い切って誘ってみた。


 穂波にも上泉にも相談していない。完全に自分の意思だった。


 ミコトがテクテクとやってきていたのだが、通話が終わるとどこかにいってしまった。日色の声を聞きつけたのだろう。犬の聴覚は人間より遙かに優れているというから日色がきたと思ったのかもしれない。


 これがデートであることは紛れもない事実だ。詩の勉強会を始めてもうすぐ2ヶ月。一緒に遊びにいってもおかしくはないくらい話をしていると思う。恋愛ごとを意識するなとは思うが、生まれて初めてのデートだ。意識しない方が難しい。


 文芸マーケットは文化の日。10月最後の週末がまだあるので準備の時間はある。髪を切りに行って、ちょっと洋服も新しくしてみたい。気分が高揚しているのがわかる。嫌われているはずがない。そうでなかったらあんなに喜んでくれるはずがない。しっかりかわいくなって、彼にもかわいいとまた言わせてみせる。


 そんな気概が生まれ、悠里は今からどうしようか考える。プランは任せられた。無理のない計画にしよう。初心者の自分はそうでないと破綻するに違いない。落ち着け、自分。悠里はそう己に言い聞かせる。


 席替えで日色の近くにならなかったらこんな気持ちになることはなく、彼はクラスメイトの1人のままだっただろう。単純だと思うが、この気持ちが膨らんでいくのを止める理由は見つからない。楽しみにするという彼の言葉を悠里は頭の中で繰り返した。




 翌朝、日色といつものように教室で会う。しかし周りに関係性を悟られたくなくて多くを話すことはない。


「元気? いい感じ?」


 穂波が近くまできて、2人に声をかける。悠里は聞き返す。


「いい感じって?」


「見えるよ~」


「からかわないでよ」


 幸せオーラが見えているらしい。めざといことだ。


「自分の方こそ、どうなの?」


「ぼちぼちですな」


 穂波は頬を掻いた。中学から進展がないのだからそうそう進むこともないだろう。それを顧みると今がスタートダッシュの時期なのかもしれない。


 日色は無反応だ。本当に無反応なのか装っているのかは振り返ることもできない悠里にはわからない。


「がんばってね」


 穂波は逆襲に遭って席に戻っていく。


 頑張るのは誰なんだろ。


 悠里は独りごち、予鈴が鳴るのを聞いた。

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