第8話 『反復技法』 1

 9月末のテストが終わり、10月に入ると今年の房総の長い夏がようやく終わった。


 朝夕が涼しくなり、冷房をしなくても窓を開ければ爽やかな風が入ってくるようになった。秋色の風が心地よく、頬に髪がまとわりついても気にならない。悠里の窓際の席が特等席になる季節だ。


 定期テストの返却があり、成績はまあまあだった。少し早く勉強を始めたのが良かったのだろう。結果オーライとはいえ穂波に感謝だ。


「どうだった?」


 後ろの席を振り返り、小さな声で日色に聞く。


「平均点以上はとれたよ。勉強会で意識付けできたからかな。浜元さんは?」


 日色は穏やかに笑う。彼も秋風に吹かれている。秋風が似合う男の子だな、と悠里は思う。少し格好いいのだ。髪が少し伸び、ワックスなどもしてあり、手入れをしっかりしている様子が見受けられる。以前、臭うかどうか彼が聞いてきたことがあった。あれから気にしているのかもしれないと悠里は思うのだが、手入れをしてあると見栄えが違うだけでなく、自信もつくのだろう。先月より眩しく見えた。


「……あ、うん。いつもより、ちょっとよかった」


「クラス上位キープだね」


「普段から勉強した方が楽だよ」


「反省します」


 日色の笑顔に悠里は少し照れる。


「勉強の方も、たまに一緒にしようね」


「嬉しいです」


 悠里はその言葉を聞いて爆発しそうになり、前を向いた。会話が終わるタイミングだったから、不自然に思われていないと思いたかった。


 今日はカウンター当番だ。授業が終わり、図書室に赴いたが、上泉の姿はなかった。きっと待ち望んだ放課後デートなのだろう。少し羨ましく思う。10位以内の成績順位は貼り出されるので彼女が首位をキープしたことは分かっている。すごいなあと素直に感心する。


 カウンターで返却図書の整理をして、記号通りに棚に戻す。そして順番に並んでいない棚を見つけ、順番に直す。意外とこの作業が楽しい。いろいろな本が見つかるし、単純作業なのも頭の整理にいい。冷房なしでこの作業ができるのもありがたい。


 成績が良かっただけに気楽でいられるのも大きい。いろいろ考える。黒峰くんは勉強した甲斐があったのか気になるがその辺りは穂波に任せるしかない。


 スマホの通知がなった。穂波からだった。


〔ありがとう。割とよかった〕


〔それはなにより〕


〔そして、よかったみたい〕


 黒峰のことだろう。安心した。


 これで日色との詩の勉強会を再開すれば、通常運転になる。ふむ、通常運転か、と思わないでもないが、詩の勉強会を楽しみにしている自分が間違いなくいた。人のことを考えて詩を選ぶのは自分の好みで詩を選ぶことと間違いなく違う。それが楽しかった。


 だいたい仕事が終わったのでカウンターに戻り、スマホを手にして青空文庫を見る。青空文庫なら日色もストレスフリーで歴史的な詩にアクセスできるからだ。いろいろ教えてあげたかった。


 そういえば、今ごろ彼は何をしているのだろう。


 気になってメッセージを入れてみた。軽い気持ちだったが、比較的すぐに返事があって悠里は驚いた。


〔今、北条海岸の無料休憩所〕


 北条海岸は館山湾、別名鏡ヶ浦に整備された観光用の海岸公園だ。夏は海水浴で賑わう。今はもう海の家もきれいになくなっている。


〔何しているの?〕


〔ギター持ってきてる〕


〔そうなんだ。はかどってる?〕


〔まあまあかな。勉強していたから指がコードを忘れていないか確認しているんだ〕


〔それくらいなら学校でもいいのに?〕


〔気分転換です〕


 それはいいことだ。


〔今日はカウンター当番なんだ〕


〔頑張ってね〕


 それで日色とのやりとりは終わった。


 夏が過ぎ去った海岸線を眺めながら、夕日を待ちつつ、ギターを奏でる。


 どれだけ自分に酔っているんだとツッコミを入れたくなるシチュエーションだが、日色にとっては通常運転なのかもしれない。


 北条海岸か。ミコトを連れていってやろうかな。


 ミコトというのは浜元家で飼っている雑種犬の名前である。シェパードらしき血が入っていてなかなか精悍な顔つきをしている5歳の女の子で、譲渡会で家族に迎え入れた経緯がある。自分が館山にいる間は散歩に欠かさず連れて行ってあげるつもりだ。


 明日は休みだからちょうどいい。


 そう決めて下校時刻まで図書室で過ごし、悠里は下校した。




 悠里から連絡をもらい、日色は驚きを隠せなかった。驚きという言葉は自分を誤魔化しているとも思う。正確には『ときめき』だと思う。


 スマホの通知に悠里の名前が出てきたとき、甘い感覚が日色の上半身に巡った。まだ恋ではないが彼女を好ましく思っていることは否定できない。第一、とてもいい子だ。距離が近くなればそういう感情を抱いても自然だろう。


 日色は再びギターを手にしてローコードの復習をする。きれいに押さえるためには日常的に練習を続けなければならない。継続こそが力だ。


 西の空まで陽が降りてきて、そろそろ家に帰ろうと思う。


 桜宮の借家は高校から歩ける距離にある。父は海上自衛隊の職員で今は館山海上自衛隊基地に勤務している。生まれは館山だが全国を転々とし、中学のときに戻って来たばかりだ。ペットが飼えないのは転勤が理由だ。母はフリーの仕事を選び、ミニコミ誌の編集をして忙しい毎日を過ごしている。


 日色は一戸建ての借家に帰宅し、仕事で遅くなる両親の代わりに食事をつくる。メインと汁物とサラダだけだが、その程度なら30分もかからず作ることができる。作ったら自分1人で食べて、部屋でギターに没頭するのが普通だ。今はそれに詩が加わったのが、彼の生活の大きな変化だった。


 今日は面倒くさいのでカレーを作っている。日色はジャガイモを入れない。水はほとんど入れず、トマト缶を使ってニンニク多めが好みだ。もう煮込んでいる最中だから、洗い物を済ませたら時間ができる。


 ふとスマホを見る。


 自分から彼女に連絡していいのかな。


 そんなことを思い、日色は悩む。しかし何を話題にすればいいのだろう。いや、それはつまり、単に彼女に連絡したいだけなのだということか。そう自覚するととても連絡する気にならない。ただ、昼間は彼女の方から連絡してくれたのだから、他愛ないことでもいいというサインなのかもしれないと思う。


「カレーライス ジャガイモ抜きの トマト入り ニンニク多め 豚肉多め」


 無意識のうちに1首詠んでしまった。ベンチで放課後デートらしきものをして以来、何を見ても歌にならないかと考えているからだろう。


 鍋からトマトの匂いが漂ってくると、そろそろ火を落とす頃合いだ。灰汁をちょろっとすくって、火を消し、カレールーを細かく刻んで鍋にと投じて混ぜてとろみをつける。


 冷蔵庫から作り終えたサラダを取り出して、小さなガラスの器に自分の分を盛り、炊き上がった白米を大皿に盛り、カレーをかける。


「ライスカレーの方がいいかな」


 頭の中で推敲する。


 盛り付けたカレーの上にとろけるチーズをトッピングして完成だ。


 写真を撮り、悠里に送る。そして推敲した短歌も送る。


 十数秒後に返信があった。


〔チーズが歌に入っていない!〕


〔それは無理だ〕


〔乗せる前に写真を撮れば突っ込まれなかったのに〕


〔思いついたのがチーズを載せた後だったから〕


〔美味しそうだね。まさか自分で作ったカレー?〕


〔そうだよ。両親共に遅いからだいたい作るね。一番早く帰宅した人が作るのが暗黙のルール〕


〔冷蔵庫の中を見て作り始めるのなら、応用力あがるね〕


〔いっぱい作ったから明日のお弁当はカレー〕


〔カレー飽きない派?〕


〔飽きない派〕


〔今晩はなにかな。自分で作るなんてすごいね〕


〔慣れだよ〕


 悠里からの返事はなかった。


 やりとりが終わったかと思って食べ始めたら、少しして通知があった。


〔今日はからあげだった〕


 どうやらキッチンに移動していたらしい。


〔お母さん、揚げ物作るのか。すごいなあ〕


〔揚げ物作るのってすごいの?〕


〔買った方が絶対に安い。大量に作るからあの値段でできるんだ〕


 からあげに挑戦したことがある日色としては、それが素直な感想だ。


 また少し間が開いた。


〔からあげを 揚げてる母を 眺めつつ 娘は知らず 作る苦労を〕


〔返歌があったー!〕


 日色は思わず笑ってしまう。


〔初めて返歌を作ってみました〕


 こんなやりとりができたから、今日は大成功だと思う。


〔また短歌を作ったら連絡するかも〕


〔別にそれ以外でもなにかアイデアが浮かんだら、ね〕


 彼女がどんな顔でこの文章を入力しているのか見たくなる。


〔そうする〕


 一歩前進だ。何に対して一歩前進なのかは考えないことにする。


 向こうも夕食になったらしい。これで終わりなのが少し寂しいがいい頃合いだ。


 明日、何しよう。


 食べ終えて日色は考え始めた。

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