深夜2時の宇宙遊泳

月見 夕

お兄ちゃんのコート

 ぼくのコートのポケットには、宇宙が広がっているんだ。

 嘘だと思うなら、月が隠れたくらい夜の、深夜2時に目を覚ましてごらん。

 眠い目をこすって、ぼくのいちばんのお気に入りのコートを引っ張り出すんだ。

 利き手のポケットを覗くと、そこには宇宙が広がって、星も海も全てがとけあっているから。


 そう教えてくれた6つ年上のお兄ちゃんは12歳で死んで、明日わたしは同じ年になる。


 早々に明かりを消されたリビングに、わたしはため息を一つ落として部屋に戻った。

 塾から帰ってきて、用意された夕飯をとったらいつもこう。小学生は9時までに寝ろという暗黙のルールなんだからしょうがない。

 どうせ夜ふかしをしたって、ひとり本の世界に行ってしまうパパとくらい顔でアルバムをめくるママと同じ空気を吸うことしかできないんだけど。

 それはもはやいつものことだ。6年前の、お兄ちゃんがいなくなった日からずっとそう。悲しいくらいにいつも通りの夜がきて、誰も一言も発さずに夜を終えて朝が来る。

 明日が何の日なのか、多分二人とも覚えてないんだろう。

 明日、わたしは12歳になるのに。


 潜り込んだ布団の中でほんの少し目頭が熱くなって、でも去年もこうだったじゃない、と何らかを期待していた自分を無理やり落ち着かせて、ぎゅっと眠りについた。


 ――――

 ――


 ぼくのコートのポケットには、宇宙が広がっているんだ。

 嘘だと思うなら、月が隠れたくらい夜の、深夜2時に目を覚ましてごらん。

 眠い目をこすって、ぼくのいちばんのお気に入りのコートを引っ張り出すんだ。

 利き手のポケットを覗くと、そこには――



 懐かしい声がきこえて目を覚ますと、あたりはくらくて、いつもの朝はまだやって来てはいなかった。部屋にはだれもいなかった。

 いつの日か、お兄ちゃんはあんなこと言ってたな。

 小さかったわたしはその言葉を信じて素直に布団を被って夜中になるのを待ってたんだけど、一度だって2時まで起きていられたことはなかった。きっといつまでも寝ないわたしを寝かしつけるための方便だったんだろうと気付いたのは最近のことだ。

 ポケットの中には宇宙なんて広がっているわけがないし、ただ捨て損ねたガムの包み紙しか入ってなかった。

「……お兄ちゃんの噓つき」

 真っ暗な部屋でそう呟いて、布団の中から壁時計を仰いだ。

 午前1時58分。奇しくももうすぐお兄ちゃんの言ってた時間だ。


 布団の中でもぞもぞと迷い、でも今更寝付けず、大きな溜息をついて起き上がる。

 仕方ないから、眠れない今日はお兄ちゃんのことを思い出してあげる。

 ベッドから降り立って真夜中の床をそっと踏み、部屋の隅のウォークインクローゼットの扉をそろりと開いた。服だらけの常闇の空間は、明るい時間とは違いわたしをのみ込んでしまうようにくらくて、ほんの少しだけ足がすくんでしまう。

 いつもはすぐに閉めてしまうけれど、けれど意を決して進む。そしていちばん奥のハンガーにかかっている紺色のコートに辿り着いた。

 少し毛羽立ったコートはわたしのものより少し小さい。

 それはお兄ちゃんのコートだった。お兄ちゃんが最期に着ていた、思い出のコート。

 普段はクローゼットから取り出されもせず、ただ静かに宙に吊られているそれの、右手の大きなポケットを覗き込んだ。


 ――そこには宇宙が広がって、

「……え」

 ――星も海も全てがとけあっているから。


 ただの布の壁であるはずのその空間には――ぽっかりと深い穴が黒々と空いていた。驚いて目を見開くと、無数の小さく白い光が瞬いているのも見える。

 恐る恐る、手を差し入れてみる。手のひらがぴったり納まるはずのポケットは、わたしの手首、そして肘を悠々とのみ込んだ。かきまぜた指先は何もつかめず、ただあたたかい水の中のような浮遊感だけがそこにあった。

 怖くなって腕を引っこめ、もう一度覗き見る。やはり深い闇が、小さな星屑を湛えていた。

 午前2時の宇宙だ。

 そう口の中で呟いて、傍に転がっていた冬のブーツの右足をねじ込んでみる。入口で窮屈そうにしていたブーツは、引っかかっていた踵を押し込んでやるとすぽんとポケットに吸い込まれていった。

 慌てて覗き込むと、茶色のブーツが小さくなって暗い星の海の向こうにゆっくりと回転していくのが見えた。いけない、取り戻さなくちゃ。

 わたしは急いでもう片足のブーツをはいて、今度は肩までポケットに突っ込んで宇宙に落としたブーツを追いかける。不思議と吸い寄せられるその中身に抗わずにいると、ポケットはするりとわたしの全身をのみ込んだ。



 深く黒い水の中に飛び込んだみたいに、宇宙はわたしを受け入れた。

 身をかがめ、しばらくくるくると回っていたわたしは、赤い彗星と土星の狭間に飛んでいくブーツを見つけてそちらへ泳いでいくことにした。

 薄もやのように触れそうで触れない空間を手でかいて進み、辺りを見回す。揺蕩う身体はブーツを追いかけて、ゆっくりと進み出した。

 上下も左右もない空間で、金銀の星屑が無数に瞬いている。それら一粒一粒が光を放ち、或いはぶつかり合ってひとつになり、瞬いては消えていく。わたし達が眠っている間にも、空の星はこうして生まれて死んでいくんだ、となぜか納得して広大な宇宙の行く先を想った。

 遥か上に空いている小さな穴は、多分わたしが落ちてきたポケットの入口だ。もうすぐ名も無き星の陰に紛れて見えなくなるけれど。

 遠くで銀色の尾を引いて進む流れ星をぼんやりと眺めていると、その傍で小さな誰かが手を振っているのが見えた。土星の輪を通り越した、その向こう。

 それが誰だか、顔が見えなくてもわたしには分かる。

「……やっぱりここにいたんだね、お兄ちゃん」

 あたたかい星の海を泳いで近付くと、懐かしい微笑みがそこにあった。

「片足落としただろ、美雨」

 落としたブーツを掲げて笑っていたのは、紛れもないわたしのお兄ちゃんだった。

 お気に入りの紺色のコートを羽織るお兄ちゃんは、ブーツを渡して目を細める。

「久しぶり、大きくなったね」

 わたしより少し背が低いお兄ちゃんは、わたしを見上げてそう言った。あの頃見上げていたお兄ちゃんを見下ろして、わたしは何だか不思議な気持ちで渡されたブーツをはいた。

「びっくりした?」

「嘘じゃなかった。午前2時の宇宙」

「ぼくは嘘つかないよ」

「ずっとここにいたの?」

「まあね。ぼく約束は守るから」

 その「約束」が何なのかわたしには分からなかったけれど、得意げなお兄ちゃんの顔を見ていたらどうでもよくなって、何だかわたしはほっとした。そうだった、お兄ちゃんはこうやって笑うんだった。

「思い出してくれてよかったよ。もう忘れたと思ってたから」

「ずっと忘れてたよ、なぜか今日思い出して――」

 そこまで言って、わたしは驚いた。お兄ちゃんの身体が、指先からさらさらと砂のように崩れていた。

 わたしは取り縋ろうとしたけれど、あたたかい暗闇と同じように指の隙間を零れて掴めなかった。

「そろそろ時間みたいだ」

「お兄ちゃん」

「会えてよかったよ、美雨」

「やっと会えたのに、もう行っちゃうの」

 悲しくなって伸ばした手の先で、お兄ちゃんは寂しそうに笑っていた。

 惑星の向こうで太陽が顔を出して、わたし達はやわらかい光に包まれた。白く瞬く視界に目を瞑る。

 コーヒーにミルクを注ぎ込んだように宇宙に溶けていくお兄ちゃんの声が、耳元でした。


「朝が来たら、もう一度だけポケットを覗いてごらん。――今度こそさようなら。美雨」


 ――――

 ――


 朝起きて、私は自然とあれが夢だったんだとすんなりと受け入れた。

 星の海を泳いだ浮遊感も、揺蕩う暗闇もそこにはなく、ベッドから抜け出した両足はきちんとわたしの部屋の床を踏んで降り立った。

 自然と足はウォークインクローゼットに向き、昨夜のようにお兄ちゃんのコートの前に立つ。窓辺から漏れる朝日に照らされて、コートは昨日より少し小さく見えた。

 右手のポケットを覗き込んだけれど、そこには宇宙は広がっていなかった。もう二度とあのあたたかい暗闇を泳ぐことはないだろうなと、なぜかわたしは確信していた。

 代わりに入っていた砂粒とダンゴムシの死骸に一瞬驚いて、笑ってしまった。

「もしかしてこれが心残りだったのかな……」

 苦笑いしてポケットの中身をひっくり返していると、死骸の他に何かが飛び出してきた。からからに乾いた干物のようなそれをしばらく見つめる。

 そしてようやく何なのかが分かった。

 それはシロツメクサでできた指輪だった。すっかり枯れて今にも崩れそうだけれど、それは確かに一輪の花を丁寧に編み込んだ花の指輪だ。

 ああそうか。唐突に記憶が蘇る。


 お兄ちゃんは手先が器用だった。折り紙なんかも上手で、よく折り紙でいろんな動物を折ってくれた。

 そしてシロツメクサが咲く春になったら、道端で摘んで指輪を作ってくれると約束してくれたんだ。

 けれど春のあの日、お兄ちゃんは友達にせがまれて、作った指輪をあげてしまった。約束を守ってくれなかったお兄ちゃんに、わたしは泣いて怒ったんだった。

「また今度作ってあげるから」

 困ったお兄ちゃんはそう言ったけれど、まだ小さかったわたしは今度がいつなのかなんて分からなくて、駄々を捏ねた。

 やさしいお兄ちゃんは「仕方ないなあ」って笑って、親の目を盗んで土砂降りの夜に飛び出して、シロツメクサを摘みに行った。そしてその帰りに、トラックに撥ねられて――

「ごめん」

 ぜんぶ思い出した。そうだ。あの日、わたしがわがままを言ったから。

「ごめんね」

 言葉は涙の粒と一緒にいくつも床に落ちていった。


 ――誕生日おめでとう、美雨。


 宇宙の彼方からお兄ちゃんの声が聞こえた気がして、わたしははっとした。

 はらりと流れた涙が、くすんだ花弁に落ちる。それはカーテンの隙間から差す朝日に照らされて、世界でいちばんきれいに輝いていた。

「ありがとう、お兄ちゃん――」

 枯れた指輪の左手をそっと胸に寄せて、わたしは滲む瞳をそっと閉じた。

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深夜2時の宇宙遊泳 月見 夕 @tsukimi0518

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