第百三十六話 ターニングポイント
真才先輩とのデートは夕方まで続いた。
交流戦の大会が終わった後も、私達は一緒にご飯を食べて、一緒に買い物をして、一緒に遊んだ。
将棋以外で心の底から楽しいという感情が湧き出たのはいつぶりだろう。
予定には無かったけど、近場のゲームセンターにも立ち寄ったりした。
周りのゲーム筐体を差し置いて、将棋のオンライン対戦ができる席へと座ったときは、真才先輩にまた将棋をする気なのかと驚かれた。
でも、なんだかんだで真才先輩も溜まっていたのだろう。先の交流戦で感化されたのか、真才先輩も隣に座ってプレイし始めた。
そして、対戦相手が可哀想なくらいに無双していた。
それから一緒にクレーンゲームをやったり、隣のカフェでゆっくりと将棋以外の趣味について語り合ったりもした。
真才先輩は将棋以外に趣味は無かったけれど、私の話を楽しそうに聞いてくれた。
まるで、本当に恋人みたいな、そんな時間を過ごした気がする。
──楽しかった。
──本当に、楽しかった。
憧れの人と一緒にいる。それだけで私は幸福な時間をもらえた気がする。
「もういいの?」
「はい、そろそろ時間ですから」
日が沈み始めるころ、私は近くのベンチに真才先輩と座って帰りの電車が来るのを待っていた。
「今日はありがとうございました。本当に楽しかったです」
「俺も楽しかった」
「本当ですか?」
「この顔見てよ。にやけた顔して、恥ずかしいくらいに楽しんでる」
真才先輩は自分の顔を指さしてそう言った。
「ふふっ、それならよかったです」
私も釣られるようにしてやけてしまう。
私だけじゃなくて、真才先輩も楽しんでくれた。それだけで嬉しくなった。
「これから全国ですね」
「そうだね」
「あの、真才先輩はどうして全国に……この将棋部に入ったんですか?」
私がそう尋ねると、真才先輩はピクっと眉を反応させて俯いた。
「今は内緒かな」
「そうですか……」
何か事情がありそうなのはすぐに分かった。でも、それ以上踏み込むことがこのときの私にはできなかった。
だって、私は彼の本心を何も理解できていないから。
このデートで、私は真才先輩に何度もアタックを仕掛けた。普段はしたこともないボディタッチもしたし、慣れない言動を取ってみたりもした。
その度に真才先輩は嬉しそうにしたり、ドキッとしてくれたのが分かる。
でも、そこに恋心は無かった。
いや、厳密にはあったのだろう。異性として見てくれるような感情自体はあったと思いたい。
でも、真才先輩はその感情を常に投げ捨てている。感情を抱くことはあっても、享受することはない。
彼が本気の熱線を向けるのは『将棋』だけ。常に『将棋』だけを愛している。
だから、それ以外は全部要らない。それ以外を受け取る必要がない。
そんな気がした。
「あのっ、真才先輩!」
「?」
そこまで言って、続く言葉を伝えようとしたが、勝手に口元が
「いっ、いえ。なんでも、ありません……」
それを言う自信も無ければ、成功する確信もなかった。
私が彼の何を知っているというのか。
何も知らない。何も分からない。ただ尊敬し続けて、その背中を追って、そうして一瞬だけ隣に立つことができただけだ。
先日の勝利も、運が味方しただけに過ぎない。
今の私が彼の隣にずっと居続けるなんて、分不相応にもほどがある。
それに、葵や東城先輩だっているんだ。
「来崎」
「はい?」
真才先輩は視線を下げた後、しれっと吐露する形でその言葉を漏らした。
「俺は、君が思っているような出来た人間じゃない」
「……どういうことですか?」
それが本音であることは百も承知だったが、私は知らないふりをして聞き返した。
「……なんだろうね。口にすると難しいや」
「歯切れが悪いですね……」
夕暮れの日差しが頬を照らしつける。
僅かな熱気と眩しさが邪魔で思わず立ち上がった私は、複雑な表情をしている真才先輩の前に立った。
勇気はなかった。流れだった。
だから、自然の抑圧には耐えきれなかった。
「真才先輩がどう思ってるかは分からないですが、私は──」
午後の鐘が鳴る。
ガタンゴトンと電車が走ってくる音が聞こえ、駅には人が集まり始めた。
「──時間ですね」
「……そっか」
「今日は楽しかったです、また一緒に遊びましょう」
「うん。楽しみにしてるよ」
会話が途中で途切れてしまったのにもかかわらず、真才先輩は気にしなかった。
きっと、その先を聞いても揺らがないと思ってしまっているからだろう。
──伝えたいことは、確かにあった。
でも、それは今じゃなくてもいい。
明日でも、明後日でも、彼に言葉を伝える日はいつだってある。
私達は同じ学校に通って、同じ部活に所属しているのだから。
全国大会までまだ時間もある。だから焦らなくてもいい。
そう思った私は、未だベンチに座ったまま手を振っている真才先輩に笑顔で手を振り返した。
──後日。私は将棋部が廃部の危機に瀕しているという問題を知ることになる。
しかし、そのときに真才先輩の姿は、どこにもなかった──。
※
来崎が帰っていくのを見届けながら、俺は静かにベンチから立ち上がる。
なんだかんだで今日は楽しかった。
大会の時とは違う心地良い疲労を感じながら、俺は人通りの少ない帰り道を歩き始めた。
今日の夕焼けは妙に赤い。この調子なら明日もきっと赤くなるだろう。
そんなどうでもいい感想を心で呟く。
「どうして全国に、か……」
来崎の問いに答えられなかったさきほどの自分を思い出して、思わずため息が零れる。
思えばそれは一直線で、何も顧みることも無くて、不透明な未来に希望を寄せていた傲慢な考えでしかない。
ただ、その"約束"は結ばれると思って──。
「随分と楽しそうだな」
──刹那、心臓が飛び跳ねた。
聞き覚えるのある声のトーン。いや、聞いたことのない声色なのに、なぜか彼を思い出してしまうような音とリズムが耳を劈く。
背後から声を掛けられた。
……誰に?
知らない声。知らない発言。知らない存在。
その声の性別が女の子であると気づくまで、数秒の時間が掛かった。
俺は思わず振り返る。
「……は?」
そこにいたのは、少女だった。
可憐な容姿に色白の肌、アイドル顔負けの整った顔立ち。どこからどう見ても美少女と呼べるその小さき存在に、俺は思わず瞠目する。
そんな完璧なまでに可愛らしい存在に、俺の警戒心は一気に高まる。
少女にはひとつだけ強烈な違和感があった。
それは──『眼』だ。
その少女の『眼』には、俺の知っている者とよく似た深い水底が映っている。
「……誰なんだ、君は?」
「誰だとは随分なご挨拶だな、久々の再会なのに」
「質問に答えろ……」
相手はただの小さな女の子なのに。俺は無意識に語彙が強くなってしまう。
──既視感が止まらない。
この子とは初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい"気配"がした。
それに、その少女はどこか大人びた雰囲気を醸し出している。
いや、それは雰囲気などという抽象的なものではない。
彼女は──まるでそれを経験しているかのような所作だ。
「ふふ、そうか。──では、改めて」
そんな睨みつけるように警戒している俺に対して、少女は片足を後ろに下げてスカートをつまむと、カーテシーのように綺麗に膝を曲げた。
「初めまして、渡辺真才さん。私の名前は
その少女は、あまりにも違和感のある丁寧語でそう告げた。
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一応補足ですが、前作の知識は必要ありませんのでご安心を。
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