第百三十七話 約束・前編
父に、プロになった自分の背中を見せるのが夢だった。
父の歩んできた将棋が正しかったと、父から受け継いだ将棋が正しかったと証明するために、俺はプロ棋士を目指した。
父が死んでしまう前にテレビに出て、俺が父の前で誰よりも強くあることで、父が教えてくれた将棋を証明したかった。
──訃報は、突然やってきた。
学校の帰りに父の容体が急変したと知らされた俺は、背負っていたランドセルを投げ捨てて一目散に病院へと向かった。
せめて別れの挨拶くらいはと、そう願った。
しかし、病院に着いた頃には、もう父の目は閉じたままだった。
訃報だ。死亡の知らせだ。俺が病院に行くころにはもう、父は死んでいたのだ。
──大切な人が死んで、俺の夢は夢ではなくなった。
何をやるにも体が動かず、このまま朽ち果てて死にたいと思うほどに、俺の心は廃人となっていた。
「よっ」
そんな時に現れたのが
彼の経歴は、一言でいうと"ヤバい"に尽きる。
アマチュアの棋戦を独占、最高峰の七段にして七冠王と呼ばれた至上の覇者。玖水棋士竜人の弟子であることも相まって、多くの者は彼のことを『英雄の再来』と呼んでいた。
そんな賢人と出会ったのは、偶然にも病院の中だった。
彼もまた、俺と同じく誰かの見舞いに来ていたのだろう。
父が死亡して廃人同然となっていた俺に、賢人は何度も声を掛けてくれた。
しかも、数日や数週間という短い時間ではない。数ヶ月、数年にも渡って、彼は俺を元気づけてくれた。
「なんでお前に構うかって? そりゃねぇぜ。親友だろ? 俺ら」
何事にも委縮して挑戦する気概すら失っていた俺に、賢人は気さくな態度で肩に腕をまわして励ます。
無償の友情だ。俺は彼に何も返せていないのに、彼は俺に全てを与えてくれた。
俺の人生で本物の友達ができたのだとすれば、それは賢人のことだろう。
それくらい、俺は彼に救われていた。
「なぁ、真才。プロ棋士を目指すつもりはないか?」
ある日、賢人はそんなことを俺に言ってきた。
「どうだ?」
「……」
だが、俺はその言葉に沈黙を返した。
「お前がどういう想いを抱いてプロを目指そうとしていたのかは知っている。でもさ、そろそろ過去の自分と決別する勇気も必要だ。そうだろ?」
「……」
「別に将棋じゃなくたっていい。人の才能は千差万別、取り柄なんてものは全てを試して初めて分かることだ。真才、お前には将棋の才能がない。だが、才能がない奴がプロになれない道理もない。……俺は、お前が強くなると確信しているんだよ」
嘘はついていない。
真剣な表情が、それを物語っているから。
「……俺が、俺なんかがプロになれるわけがない」
「なれるさ、お前自身が自分の力の本領ってものを理解していないからそう言えるだけだ」
「そもそも! 今の俺にはプロを目指す理由がない。……父は死んだんだから」
「……お前はいつもそればっかだなぁ」
賢人はため息を零すと、隣の席から立ち上がって俺の前に立った。
「なら、俺を目標にすればいいだろ」
「え……?」
呆然とする俺に、賢人は続ける。
「将棋が好きなんだろ? 強い相手と戦いたいって感情は今も残ってるんだろ?」
「それは……」
「以前にも言ったが、俺はもうすぐこの県を離れる。自分の道場を持つことになったからな。でも、そうしたらお前はまた一人だ」
「……そしたらまた、一人寂しくネット将棋でもやってるよ。そうすれば賢人と当たることもあるだろうし」
「バカ言え、俺は大会で忙しいんだよ。……それに、お前がこっちの世界に来れば問題ないだろ?」
「それって……」
こっちの世界。それが何を意味しているかは、言うまでもなかった。
「俺を目標にしろ、真才。そしてプロ棋士になれ。そしたら俺も一緒にプロになってやるから」
「賢人……」
「俺は芸術が好きなんだ。プロもアマも型にハマった戦法ばかり取っているが、お前は違う。俺は、お前と創り上げる芸術的な将棋が楽しいんだよ」
その感性は、父と似ていた。……否、父とそっくりだった。
誰かから影響を受けた輝きへと身を落とすかのように、父の話すテンションと、賢人の話すテンションは同じものだった。
きっと、二人とも同じ人物から影響を受けたのだろう。
「だからさ、真才。いつか、お前が本気でプロを目指そうと思ったなら、俺に会いに来い。それで、もしも俺に勝つことができたなら、お前をプロに推薦してやる」
アマチュアなのに『プロに推薦』という単語を堂々と言い放つ賢人。
しかし、その眼に俺は──希望を貰った。
「これは"約束"な」
「……分かったよ。いつか、ね」
「ああ、いつかでいい。個人戦でも団体戦でもいいぞ? なんせ俺は全部のタイトルの頂点にいるからな」
「バケモノだよ、お前は」
「うはははっ、お前だって人のこと言えねーぞ?」
こうして、俺は香坂賢人と守るべき"約束"を結んだのだった。
※
ポツポツと小雨が降り始める。
傘を持っていない両者の間合いで落ちゆく雫に、緊迫した空気のようなものが流れた。
「香坂……賢乃……?」
聞いたことのない名前に、俺は焦燥して目の前の少女を凝視する。
「そう、賢乃。わたしは、香坂賢人の妹だ」
「妹……!?」
そんなはずはない。賢人に妹がいたなんて一度も聞いたことがない。
いや、仮にいたとして、だ。仮に賢人に妹がいたとして、俺はそれ以上に感じる違和感に苛まれている。
幻覚なのか、本当に気のせいなのか。それでも自分の目を疑うほどに、俺は既視感を感じ続けていた。
妹なら、親族なら、多少は似ている部分があってもいいだろう。
だが、俺から見てこの賢乃という少女はまるで別人だ。外見は見たこともない美少女で、賢人とは一切似ていない。喋り方もそうだ。賢人はこんな堅苦しい喋り方はしない。
──なのに、俺はこの少女から『香坂賢人』という存在を確かに感じている。
この矛盾はなんだ? 何が起こっている?
まさか、性転換とかか? そんな漫画やアニメでしか見ないような現象が起こっていたりするのか?
「お前は……」
そこまで言いかけて、寸でのところで首を振る。
「……君は、賢人じゃないのか?」
俺は目の前の少女に、率直にそう尋ねた。
何をバカなことを言っているんだと思われたならそれでいい。それなら俺が間違っていただけのことだ。
でも、そうじゃないのなら──。
「……やはり、そういう答えにたどり着くのか」
「……!」
少女は虚空に手のひらを向けて、降りかかる雨粒を感じ取ると、真剣な目を俺の方へ向けた。
「ここで偽るのは簡単だが、お前は兄の……兄さんの最期の親友だ。だから本当のことを話してやる」
「本当のこと……? 何言ってるんだ……?」
不穏なワードが耳に入ってきたのを、俺は見逃さなかった。
「──兄は、2年前に死んでいる」
「…………は……?」
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