第九十四話 将棋が嫌い・前編

 黄龍戦県大会、1日目の夜。


 温泉から上がったアタシは、一人で外の夜景を楽しんでいた。


「……」


 明日はいよいよ決戦の日。


 南地区との戦い、そして中央地区との戦いが待っている。両地区とも並みの相手ではない。気を抜いて挑めば一瞬でやられてしまうだろう。


「……なんでアタシ、未だにこんなところにいるんだろ」


 夜の風に当てられて、ふと我に返ってしまう自分に嫌気がさす。


 それは"人生"という大きな枠組みの中で放った言葉で、特に深い意味などありはしなかった。


 ただ、学生という分際でありながらこんなにも大舞台に乗り込んでる自分があまりにも不格好に見えて──。


「温泉、良かったね」


 ふと、背後から声が掛けられた。


「み、真才くん!? 来てたんだ?」

「うん」


 浴衣姿でアタシの隣に並び、手すりに両腕を乗せて夜景を楽しむ真才くん。


 普段は受け身の彼が、珍しく自分から話しかけてくることにアタシは多少の驚きを見せた。


 温泉から上がったばかりということもあって、どことなくいつもと違う雰囲気を漂わせる真才くんに、思わず心臓が高鳴っていることを自覚する。


 それを必死に隠すように、アタシは真才くんから視線を外して同じように夜景を見上げた。


「明日はいよいよ決戦ね。多少の緊張もあるけれど、お互い全力を出せるようにぶつかっていきましょう」


 押し寄せてきそうな沈黙を払拭するかのように、人並みの鼓舞をする。


 しかし、それが空虚な言葉の羅列だと見抜いたのか、彼は見境もなくアタシの方を見て告げた。


「──東城さん、本当は将棋が嫌いでしょ?」

「……え?」


 今度は悪い意味で、心臓が跳ねあがった。


「将棋が嫌いって……き、急になにいってんの?」


 アタシは乾いた笑いを見せながらそう返事をする。


「特に証拠があって言ってるわけじゃないんだけど、確信はあったからさ」

「な、なにを……」

「東城さん、葵と戦うの苦手だよね」

「……!」


 なぜそのことを分かったのか。アタシは思わず目を見開いた。


 いいや、そもそも彼は分かっていた。分かっていたからこそ、今この瞬間までそのことを告げなかったのだろう。


「今の葵の指し手は純粋な享楽から生まれる天性のもの。理屈や理論ではなく、感覚に全神経を費やしている。だから、東城さんのように最善手や悪手で手の価値を判断する将棋指しにとっては最悪の相手になるはずだ」


 彼の言っていることはまさにその通りだった。


 葵の指し回しは合理性の欠片もない、それこそ人間でいうところの情緒不安定な指し方だ。


 だけど、その不安定な指し方が一切捉えられない魔球と化している。そのうえ本人は楽しんで指しているのだから、こちらの嫌味を付ける反撃が全く通じない。


 アタシにとっての最大の敵が葵玲奈だと言うのは間違いないのだろう。


「でもそれだけじゃない。葵にとって最も苦手な相手もまた、東城さんだ」

「アタシが……?」


 自分もまた葵の天敵だという発言に、思わず怪訝そうな顔を見せてしまう。


 それを受けた真才くんは頷いてこう答えた。


「感覚の将棋はいわば蜃気楼しんきろうのようなもの。幻で作られた一見完璧に見える一手は、正確に紐解くと簡単に崩壊する。東城さんのように合理的に指し手の善悪を判断されると、葵の思惑は一瞬で霧散するんだ」


 言われてみれば、確かにその一連の流れは正鵠せいこくを得ていた。


 アタシが葵に勝つパターンは、彼女の縦横無尽に暴れまわる乱戦を全ていなしての勝利。いわば完封勝ちが多かった。


 ひとつでも対処を怠ると一瞬でやられるため、葵の攻めを全て受け切らなければならない。そして全て受け切ると葵はそれ以上の攻めを継続できなくなり、終盤に入る前に決着するというもの珍しくはなかった。


「二人の性質は対極でありながら、互いに弱点をつける奇特な存在だ。そんな二人が繰り返して戦えばすぐに己の欠点が浮き彫りになってくる。その弱点を修正しながら戦っていけばこれ以上の成長はない」

「……だから、アタシと葵をあんなにも多く戦わせていたのね」


 そこでアタシは初めて真才くんの真意を理解する。


 この大会を迎えるまでずっと続けてきた特訓期間。その中で彼は色々な対策を練ってきていた。


 特に葵の目まぐるしい成長を後押ししていた彼は、事あるごとに葵をアタシへとぶつけてきた。


 最初は良いように使われているだけかと思っていたけれど、こうして理由を説明されると全てに意味があるのだと感心してしまう。


 やはりアタシにとっても憧れの存在だ。来崎のことを強く言えないわね。


 ──そして、こうやって感心してしまうから、アタシはいつまで経っても彼を越えられないのだろう。


 ※


 中央地区との決勝戦。


 局面は互角のまま中盤戦へ。後手を引いたアタシは受け特化の雁木がんぎ囲いで応戦していた。


 流石は中央地区と言ったところ。自滅流の対策は万全なのか、相手がアタシでもさせる隙を与えてもらえない。


 対する先手──浅沼あさぬま隆明りゅうめいは左美濃に右四間飛車みぎしけんびしゃという攻撃特化の攻め形を完成させていた。


「君はちっとも成長しないね」


 煽り口調で呆れるようにそう告げる隆明に呼応して、アタシは自然と長考に追いやられる。


 この局面は、以前アタシが中学生だった頃に県大会で戦ったものと全く同じだった。


「……」


 アタシはコイツに過去一度も勝ったことがない。


 計算によって導き出される合理的な将棋を指していても、緩急の入った指し回しに翻弄されていつの間にか劣勢になっている。


 必死に考えた最善手も、当然のように読み切られて敗勢になってしまう。


 だから当時のアタシは、コイツの棋力が自分よりも遥かに上なのだと納得するしかなかった。


「──君、将棋が嫌いだろ?」

「……!」


 隆明から不意にそんな言葉が告げられる。


「将棋は自由であるべきなのに、君の手はいつも定跡、最善手ばかりだ。もちろん最初から最後まで最善手を指せるのなら最強の棋士の誕生なんだろうけど、現実はそう簡単にはいかないからね」

「……何が言いたいのよ?」

「考えていて嫌にならないのかい? 自分の意志に反して正しい手を指すなんて、それが勝利をもたらしてくれるとも限らないのにさ。君はいつまでもそんな夢物語の理想にこだわって指しているから僕に勝てないんだよ」


 諭すような優しい口調に心底不快な言葉を混ぜて語る隆明。


 それは自分を絶対的な強者だと自負しているから出てくる言葉なのだろう。


 説得力は言葉ではなく発言する者で決まるとはよく言ったもの。隆明はアタシを見下すような視線を向けて攻撃的な手を放ち続ける。


「僕は将棋が好きだ。誰よりもね。だから君みたいに最善手を追い求めてちぐはぐな指し手になったりしないし、勝負の流れを掴んで自分の勝利を確実なものとしている」

「今のアタシに勝てると?」

「君に勝てないようじゃ凱旋の席は貰えない。特に将棋が嫌いな君の指し手にはね」


 勝利は当然と言わんばかりに、隆明は常に攻めを繋げる確信をもって指していることが伝わってくる。


 その指し方は強者の指し手。しっかりと読みの入った一手に加えて、決して自分の読めないスペースには入らない。絶対に自分の得意な土俵で戦うのだという我流の棋風が現れていた。


 ──将棋が嫌い、か。


 昨日も聞いたその言葉。きっと隆明はアタシを否定するためにその言葉を用いたのだろう。


 アタシもあの時は否定された気分になった。そうじゃないと反論したかったのに、振り返ってみた時に言い逃れ出来ない感情を抱いていたことを思い出してしまったから。


 ──でも、彼はそれを否定しなかった。


 ※


「それで、結局どうしてアタシが将棋を嫌いだと思ったの?」


 話の根本に振り返って、アタシは真才くんに問いかけた。


「……こう言うのもなんだけど、将棋に合理性を求める人ほど将棋に嫌悪することが多い。……俺がそうだったからね」

「真才くんが……?ウソでしょ?」

「本当だよ。俺はずっと将棋が好きだったわけじゃない。嫌いだった時もあるさ」

「初めて知ったわ……」


 あれだけ葵に将棋の楽しさを教え込んでいた真才くんが、実は将棋が嫌いな時があったなんて意外だった。


「今の時代にこの言葉が通用するかは分からないけど、将棋が好きな人ほど最善手から遠のいていく傾向がある。葵みたいにね。逆に嫌いな人ほど定跡や最善手を突き詰める傾向にある」

「……言い得て妙ね」


 葵が純粋に将棋を楽しめているのは、定跡という固定観念にとらわれず己がままに将棋を指しているから。それは間違いなかった。


「確かにアタシは最善手や定跡を覚えるのに必死だったし、その間に感じたのは苦痛や苦悩で、好きとは程遠い感情だったわ。だって勝つために勉強しているのだから、好きでやっているわけ無いじゃない。……うん、そうね。真才くんの言う通り、きっとアタシは将棋が嫌い。だってこんなにもアタシを追い詰めてくるんだから、申し訳ないけど好きにはなれないわ」


 アタシはどこか諦めた顔で真才くんの言い分を認めてしまう。


「……でも、将棋を指すのは好きよ? それが嫌いならここまで将棋に全力を費やしていないもの」


 精一杯に出た反論は、たったそれだけだった。


「そうだね。俺も将棋を指すのはずっと好きだった。将棋に絶望して、将棋に心を折られることがあっても、今日までずっと指し続けてきた。だから俺は将棋が嫌いな人を尊敬するんだ」

「え……?」


 思わぬ言葉に、アタシは呆けて口を開けてしまう。


 将棋が嫌いな人を尊敬する。将棋が誰よりも好きな真才くんから、そんな言葉が出るとは思わなかった。


 どうして? と問い詰める前に、真才くんはアタシに期待を向けるような目で優しく微笑んだ。


「だって将棋が嫌いな人は、将棋が嫌いになるほど──将棋に努力を注いできた人だから」






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 ★5500早すぎて光の速度に達したかと思った


 

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