第九十五話 将棋が嫌い・後編

 守りが崩壊する──。


 堅固に作り上げられた雁木がんぎ囲いは、隆明の過激な攻撃によって吹き飛ばされるように剥がれていく。


「ほらほら、どうしたのさ。そんな受けじゃ僕の右四間みぎしけんは受け止められないよ?」


 隆明は嘲るように口元を緩ませて駒の損得を無視した過剰な攻めを繋いでくる。


 居飛車最強の攻撃戦法、右四間飛車。そのあまりの攻撃性に、一時は急戦策の嵌め手だと揶揄やゆされたり、分かり切っている攻め筋がアマチュア向きだと言われていたこともあった。


 しかし、現代の右四間飛車はプロでも採用される一級品の戦法であり、対雁木を崩すメイン戦法としても効力を発揮する優秀な形である。


 まさに鬼に金棒。アマチュアの得意とする攻めの形と、プロにも通用する攻めの戦法は完璧な掛け合わせだ。


 アタシは上部が破壊された自身の雁木と、未だ攻め筋の残っている隆明の右四間飛車を見比べて深い溜め息をつく。


「……分からない」

「なんだって? 聞こえないなぁ?」


 苦虫を噛み潰したような、面白くない顔を浮かべるアタシに、隆明は優勢を悟ったような表情を向ける。


 分からない。


 同じなのに、あの時と全く同じなのに、アタシは勝てなかった。どんな手を使ってでも勝ちにいったはずなのに、アタシはあっさりと負けてしまった。


 沢山の対策を積んで、沢山の勝ち筋を得て、そうして絶対に負けない自信と共に挑んだはずなのに、アタシは彼に勝てなかった。


 分からない。何度考えても負けた原因が分からない。もしかしたら、アタシと彼とではどんなに努力しても届かない決定的な差があるのだろうか。


 だって、彼もアタシ以上に努力しているから──。


「──アンタにはこんな簡単に勝てるのに、どうして真才くんには勝てないのか、それが分からないって言ったの」

「……は?」


 茫然自失と言わんばかりのマヌケな声を上げた隆明に、アタシは駒台から桂馬を掴んでまるで作業でもするかのように盤上に打ち込む。


 敢えて手前にある駒の上からスライドさせて鳴らす重低音は、確かな威圧となって隆明の耳を震わせた。


「……君が。君程度の人間が、この僕に対して簡単に勝てるだと……?」


 アタシの言葉が逆鱗に触れたのか、隆明は肩をプルプルと震わせながら激昂の予兆を感じさせる。


 そして、アタシに聞こえるかどうかの小さな声量で怒りの籠った感情を吐き出した。


「──舐めるのも大概にしろよ……!」


 隆明はアタシの放った桂馬を自身の角で奪い取り、なんとしてでも先手を取るという考えが明瞭になるほど単純な攻勢に出る。


 雁木は常に受けの姿勢。間合いを誤ると一瞬で詰まされる。


 アタシの脳裏に広がった景色は、その詰まされた幾多ものパターンである。


 細い攻めを手繰り寄せるように繋いで、一瞬で間合いを詰めてくる。どんな切り返しもかいくぐって王様を詰ましにくるあの指し手は、アタシが感じた中で最も強かった右四間飛車だ。


 ──そんな真才くんの将棋に比べたら、浅沼隆明の攻めはあまりにもつたない。


「僕に一度も勝ったことないくせに、随分な大口叩いたじゃないか。反撃する暇もないかい?」

「ええ」


 隆明は自陣に設置された飛車を砲台として、手番が回ってくるごとに重い砲弾を放つ。


 アタシはその度に持ち駒を使って受けに回っており、防戦一方の将棋が続いていた。


 右四間飛車にとっては定跡通りの攻め筋。考える必要もない一方的な攻撃。しかも隆明は見えづらい手を水面下に忍ばせて後の布石を張る。


 十数手後に起爆するであろう手を当然のように用意する手腕は、さすが凱旋道場のトップ層と言ったところだろう。


 しかし、見えてしまっては効力を発揮しない。


 隆明が意味深に突いた端歩を見たアタシは、事前に王様を端から遠ざけ敢えて守りを弱める。


「なっ……どうして分かったんだ?」

「逆に知らないと思ったの? まぁ、この手筋が使われたのは古い時代の定跡だものね。AIに頼った現代将棋じゃ見逃す子も多いでしょう。──でも、アタシは見逃さない」

「……どうやら少しはやるようだね。でも無意味だ」


 そうして隆明は一手、また一手と攻めを繋げる。


 手数を重ねる度にアタシの雁木囲いは崩壊していき、同時に隆明の持ち駒も減っていく。


 将棋における攻めは基本的にタダでは成立しない。駒の損得が足し引きで行われるように、無理攻めを成立させるにはその分の駒を消費していかなければならない。


 城壁に傷がつけられ、土ぼこりを上げて破片が崩れ落ちていく。隆明の攻めは単調に見えて強力、アタシの守りは薄くなる一方だ。


 小駒の交換が繰り返し行われ、その度に隆明の攻め駒が消えていき、アタシの守り駒も消えていく。


「単なる布石のひとつを見破ったところで大局は変わらない」


 山札だけが増えていく一方で、手番は未だに渡らない。ボロボロになったアタシの雁木に比べて、隆明の美濃囲いは傷ひとつ無く残っている。


 アタシは本来攻め駒であるはずの飛車すら受けに使って、ひたすら隆明の攻撃を防いでいた。


「そうやって受けるだけの将棋じゃあ僕には勝てないって、どうして分からないのかなぁ?」


 駒の交換が激しく行われ、隆明は勝ち筋を見つけたかのように指し手のスピードが速くなった。


 ──定跡を正しく学ぶと、何故か受ける将棋になってしまう。


 防戦一方の辛い立ち回り、こちらはひとつでもミスをしてしまうと一瞬で負けるリスクを背負っているのに、攻める側はミスをしても大したリスクは伴わない。


 受けるだけの将棋じゃ勝てない。そんなことはアタシも嫌というほど自覚していた。


 ──だから、今日まで練習してきたのだ。


『受けるだけの将棋で何が悪い? 攻めるのはアマチュア、受けるのはプロ。これは将棋の歴史において未だに変わっていない事実だ。──相手との間合いを見切れずして何が達人か』


 真才くんの言葉が脳裏を過ぎる。


 あれだけ悩んでいたことをたった一言で一蹴できてしまうのは、既にその悩みを自身の中で葛藤し解決した後だからなのだろう。


「そろそろ決めに行かせてもらうよ」


 砲弾が城を直撃する。隆明の飛車が龍へと成って、アタシの自陣を荒らしまわる。


 既にアタシの玉形ぎょくけいはボロボロに崩れており、守り駒はほとんど剥がされた状態となっていた。


 これが受け将棋の宿命。気持ちよさそうに攻めている隆明と違って、防戦を強いられているアタシはいつもボロボロになりながら戦う。


 どうしてこんな大変な思いをして戦わなければならないのか。どうしてアタシはこんなにも自分を苦しめた戦い方を得意としてしまったのか。


 これが将棋の最善を突き詰めた戦い方だと言うのだから、やっぱりアタシは将棋が嫌いだ。


 ガラッ──。


 アタシの溢れ出した駒台から、小駒が崩れるように落ちていく。


 対して攻め駒が無くなった隆明は、駒を補充するために端の香車を取りに行った。


 ──あぁ、やっとだ。やっと手番が回ってきた。


「はぁ」


 アタシは疲労困憊した表情で目元にそっと手を添えると、余力を解き放つように駒台から銀を取って王手を仕掛ける。


「……?」


 空中から放り投げられた突然の王手に隆明は怪訝な表情を浮かべるが、取るしかないため手順に駒を取って応じていく。


 そこでアタシはすかさず、もう一枚の銀を放り込んで再び王手をした。


「……なん、だ……?」


 隆明は僅かに硬直した後、その銀も同玉と王様で取った。


 アタシは駒台から溢れんばかりに残っている桂馬を放って再び王手を仕掛ける。


 隆明は何かを感じ取ろうとしつつも、逃げるしかない現状を受け入れて手順に王様を逃がす。


 そこへ、アタシはノータイムで桂馬を放つ。これも王手だ。


「はっ……?」


 隆明が逃げると同時に香車を放って王手。


 逃げたら金を放ち王手。


 金駒かなごまを全てバラして連続で王手。


 遠見から角を放って王手。


 防いだら挟撃するように横から飛車を打って王手。


 上から歩を叩いて王手。


 香車を成り捨てて王手。


 銀を捨てて王手。


 桂馬を打って王手。


 飛車を成って王手。


 王手、王手、王手、王手──。


「あ、ああぁっ……!?」


 何かを察したのか、隆明の表情が段々と青ざめていく。


 それを無視するように、アタシは金銀財宝溢れ出す持ち駒を湯水のように使って王手を繰り返す。


「バカな、そんなバカな……っ!?」


 隆明が現状を理解する頃にはもう遅い、完全な手遅れだ。


 何故なら、これ以上隆明に攻めの手番は渡ってこないから。


 勝負は、もうついている──。


『敵の攻めを一から十まで全部相手するんだ。最初から最後まで、全部だ。東城さんは間違えないからね。そのうち相手の方が弾切れになって、攻め駒を補充しようと隙を見せるはずだ。そこに一撃必殺の反撃を叩き込む』


 どこか楽しそうに策士の顔をする真才くん。


 その目は自分の理想を誰かに体現して欲しいと願う目だ。アタシにしかできない将棋の理想を、アタシの手で実現して欲しいと願う目。


 だから、少しだけ自信が持てたのかもしれない。


『本当に強い受け将棋って言うのは、相手に敗勢の自覚を持たせないまま一気に絞め殺すものだよ』


 アタシは、プロの棋風に最も近しい思考を持っているらしい。


 だから、あくまでも自滅流は見せ球にして、受け将棋を切り札に戦っていくのが最善だと真才くんは言ってくれた。


 ──まさに、完璧な読みだった。


「う、嘘だ……ありえない、この僕が、頓死とんしなんて──」


 形勢判断を見誤った隆明は、焦燥しながら息を乱す。


 ここからはもう巻き返せない。何故なら詰んでしまっているから。将棋で詰みは終了を合図する言葉と同義、逆転のチャンスはとうの昔に消えている。


 アタシは隆明にその自覚を持たせないまま攻めさせた。悪手を誘導するように、自分本意な攻めが通るように、気持ちよく攻勢を許した。


 駒台に持ち駒が増えれば増えるほど読みは難解になっていく。


 しかし、大して考えずとも攻めが通る局面であれば、難しいことは自然と考えから排除するようになってしまう。


 だから、頓死に気づかなかった。


「き、君のような将棋が嫌いな人間に負けるなんて納得がいかない! 僕は誰よりも将棋を好いているのに……!」


 ここに来て子供のような癇癪を起こす隆明に、アタシは鼻で笑って告げた。


「いや、アンタは将棋が好きなんじゃなくて、将棋で相手を叩きのめすのが好きなだけでしょ」

「……っ!」

「その気持ちは分かるわ。アタシも、アンタみたいなのを叩きのめすのが好きだから」


 そう言いながら隆明の王様を三手詰みの局面まで追いやる。


 ここまで来れば、何がどう転んでも間違えない。


 互いの持ち駒はさっきとはまるで正反対。あれだけ溢れていたアタシの駒台はすっからかんになっていて、隆明の駒台には小駒が溢れている。


 将棋ではよく見る光景だ。


「それで、投了の言葉が聞こえないんだけど?」


 これまで煽られた分を返すかのように、アタシは勝ち誇った顔で隆明に告げた。


 こういう顔は、ちゃんと勝ちが決まってからするものだと言うことも真才くんから教えてもらったわね。


「くっ……! ま、負けました……ッ」

「ありがとうございました」


 隆明は拳を握りしめながら、これ以上ないほど悔しそうな顔で投了を口にする。


 そうして、アタシはこの県大会での全ての試合を終わらせたのだった。


「……さて、後は──」






 ──────────────────────

 ありがたいことにまた伸びてる……

 しかし、私はクールに続きを書こう

 

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