第八十六話 時代を変える人間の特徴

「玄水様」

「よい」


 南地区からの軽い遠出。車で30分の移動を終え、中央地区の中心地に存在する黄龍戦会場についた天王寺玄水。


 玄水は車からゆっくりと降りていくと、持っていた杖を地面に突き、付き人の日向ひなたに支えられながら会場の中へと入っていった。


 そこで玄水は、既に敗者用の休憩部屋に居座っている息子の姿を見つけた。


「負けたのか、魁人」

「親父……」


 魁人は顔を上げて力なく返事を返した。


 周りを見れば項垂れるように座っている南地区、天王寺道場の面々。柚木凪咲に至っては、泣いているのか両腕に顔を埋めて嗚咽を漏らしている。


「愚かもの。相手を侮ったな」

「……あぁ、言い訳はしない」


 魁人は素直にそう答える。


「自分を強いと思い込むのは決して悪いことではない。自信は強さのみなもとのひとつじゃからな。──じゃが、それで相手を侮っていい理由にはならぬ」


 真っ当な言葉の刃が玄水より振り下ろされる。


 事実、天王寺魁人は渡辺真才を侮っていたわけではなかった。警戒し、対策も考え、全力で挑んだのだ。


 しかしそれは、あくまでも魁人自身の基準であり、長年の経験を経てきた玄水から見れば侮ったも同然。それは試合の内容など見てなくとも、魁人の表情から簡単に読み取れるほどの顛末だった。


「……仮に侮っていなくとも、俺に勝てる相手じゃなかった」

「バカが。勝機はあったじゃろうて」

「……?」


 首を傾げる魁人に、玄水は告げる。


「相手は神ではない。お主と同じ人間じゃ。であれば不可能などなく、思考力の差を覆すだけの一手は常に指せたはずじゃ」

「……じゃあ教えてくれよ、どのくらいの確率で勝てたんだ?」

涅槃寂静ねはんじゃくじょうじゃ」

「は……?」


 玄水の言葉に魁人は唖然とした。


 それは不可能でないだけで、不可能と言っているようなものである。


 玄水は南地区と西地区の対局を記した棋譜を日向から渡され、それを見ながら魁人に告げた。


「今のお主では何千、何万回と戦っても1回勝てるかどうかの棋力差じゃな。こやつの指し手は完璧を超えている。最善手でどうにかなるような相手ではない」

「ならなおさら不可能じゃねぇか。何千、何万回と戦って1回勝てるかどうかなんだろう?」

「何を甘えたことを言っておる? その1回を可能にするのが勝負師というものじゃろう?」

「それは……その通りだ……」


 玄水の言葉に、魁人は瞠目して押し黙ってしまった。


 それが何よりも正論に聞こえたのだろう。


 玄水はその視線を魁人から外すと、棋譜を流し読みしながら未だ顔を埋めている凪咲に声を掛ける。


「柚木凪咲、お主もじゃ」

「っ……」

「お主はそもそも棋力で相手を上回っておる。本来ならば勝たなければいけない勝負じゃった。それを相手の術中に嵌って翻弄されたのじゃ。──いつも言っておったであろう? 葵玲奈と戦う時はワシを相手にしていると思え、と」


 凪咲から返ってくる言葉はない。ただ静かにコクコクと頷いていることだけは分かった。


 玄水は他の面々にも視線を向けるが、これ以上は野暮だと感じたのか、杖を突きながらゆっくりと背を向けた。


「まぁよい。これも経験というものじゃ。それにお主らはまだ若い。少しずつでも進歩し、たゆまぬ努力を続ければいつかはきっと実るじゃろう」


 そう言って玄水は持っていた棋譜を日向に返すと、静かな足取りで部屋を後にした。


「……さて」


 玄水は杖を突きながら会場の観戦席の方へ目を向けると、端から帽子を脱いで駆け寄ってくる老人に口角を上げた。


「久しいのう? 哲郎」

「これはこれは、お久しぶりです玄水さん」


 旧友の仲、久方の再会に二人は面と向かって挨拶を交わす。


 かつては『第一世代』の鬼才として幾度も戦い合ってきた二人は、その視線を西地区と中央地区、黄龍戦の決勝が行われている場所へと向けて同じ感想を漏らした。


「──時代が変わるな」

「ええ、ようやくですね」


 二人はそう言って感嘆のような表情を浮かべる。


「プロの輩出、支部会員の戦績、道場の格。そんな下らん思想にうつつを抜かし、多くの者が将棋の本質を忘れておる」

「『将棋とは勝負を付けるための道具ではない』。玖水棋士くなぎし先生の言葉は今でも覚えております」

「ワシもあやつの言葉を忘れたことはない。ありきたりな甘言かんげんじゃが、それでもあやつは結果でそれを証明した。あやつは芸術にその身を焼かれながらも、最期まで芸術を創っていった天才じゃ。──其処そこな道場の自称する天才とはワケが違う」


 玄水の言葉に哲郎は深く頷き、かつて伝説を築き上げた男の行く末を思い出しながら告げる。


「再来を悟ったんですね。──二人目を」

「ああ」

「留めておけばよかったでしょうに」

「ワシの手に負えるものか。それに、本人が我が道を歩むというのなら、自由に羽ばたかせてやるのが師範の使命じゃ」


 玄水はそう言って決勝戦が行われている対局者の一人に視線を向けた。


 凡人を窺わせる瞳の裏に、荒んだ修羅の色が輝いている。


 それは『あの日』から一切変わっていない。ただ一心に、そして楽しく、目の前の"魔物"と向き合っている。


『──お主がこの道場を辞める理由はなんじゃ?』

『……対局数が、足りないので……』


 1日7局も指しながらそう告げた少年に、玄水は腹を抱えて笑ったのを覚えている。


 最初はただの才気溢れる子供という印象だった。


 天賦の才、将棋に才能で挑むよくいる才覚者の一人。将棋を勝負の道具として使う一般的な思想の持主。


 しかし、その少年はある日を境に才能で指すことをやめた。自らの限界にすぐさま気づき、何のために将棋を指すのかをその幼さでありながら自問自答したのだ。


 あり得ることだろうか。それは単純に思えて絶対にたどり着かない考えである。子供が容易に導き出せる結論ではない。大人ですら割り切れないのだから。


 その考えをもとに将棋を指していると気づいたとき、玄水は思わず戦慄した。


 そう、その少年に初めて戦慄を抱いた人物は、ほかならぬ玄水だったのだ。


「目を逸らすなよ、哲郎」

「もちろんです」


 決勝が始まったと同時に静まり返る会場内で、玄水と哲郎は揃ってその試合に目を向ける。


 戦いが始まる。無敗への挑戦が始まる。


 相手は県の王者、絶対の勝利を掲げる者。誰が相手であろうと、凱旋の前では必敗を押し付けられる。


 だが、今回の相手は類を見ない存在。


 その場の勝敗を付けるのは実力だが、最後に笑うのはいつだって決まった人間である。


 ──『将棋とは勝負を付けるための道具ではない』。棋界の英雄、玖水棋士竜人たつとの言葉には、こう続く。


「──『将棋は楽しむもの』じゃ。それを最後まで貫き通した奴が勝つ」


 玄水がそう放った直後、真才は自らの王様を掴んで前に繰り出した。






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