第八話 正しい一手とそうじゃない一手の違い

 将棋には『定跡』と言うものが存在する。


 それは長い歴史の中で洗練され、磨き上げられていった無駄のない"正解の一手"のことだ。


 互いに定跡を指している限り形勢は絶対に悪くならない。もしくはどちらかが明確に勝利することが決まっている。

 いわば神から示された必勝の手順と言ってもいい。


 だが、正解の一手と言ってもそれが最善手というわけではない。

 神がその一手を作ったのなら間違いなく正しいのだが、定跡は我々人間が長い時間をかけて作り出していったものだ。


 ゆえに、定跡というのは時代を経てコロコロと変わっていったりもする。


「……っ」


 静まり返った部室の中で、俺と東城の指し手だけが木霊する。


 俺は自販機から買ってきたお茶を飲みながら将棋盤の隣に置かれた対局時計を眺めていた。


 対する東城は中盤過ぎ辺りから指し手が止まり、将棋盤を覗き込んでずっと考えに耽っている。


 アマチュアなら3分考えれば長考と言われているが、東城はもう10分以上考え込んでるな……。


 そして今、東城が思考の海に落ちている理由は単純明快。


 正しい手を、定跡を指しているはずなのになぜか思い通りにいかず悩んでいる。

 ……と言ったところか。


「……くっ」


 いつまで経っても答えが出せない東城は、将棋盤から目を離して対局時計を一瞥する。そして自分の時間が遥かに減っていることを知り表情を歪ませていた。


 俺はそんな東城を見ながら心の中でため息をつく。


(早く終わらないかなぁ……このまま部員のみんなが来たら変な目で見られそうだし、悪目立ちは避けたいんだけど……。いやでも将棋部で将棋してるんだから別に間違ってないよね……? いやでも、こわいなぁ……)


 俺は陰キャ特有の先のことに対する不安と過剰な被害妄想に見舞われていた。


 そもそも人は未知の出来事に対して恐怖するようにできている。俺はこんなクラスメイトのカーストトップで将棋部のエース張ってる子と戦うなんて想定していない、完全な未知だ。


 だから不安になるのもしょうがないんだ。


「……み、見つけた!」


 どれだけの時間を考えていただろうか。

 小声でそう呟いた東城は、調子を取り戻した表情で力強く次の一手を放った。


 刹那、俺はノータイムで指し返す。


「なっ……!?」


 東城は驚いた反応を見せる。

 そして僅かな間をおいた後、俺の方を強い眼差しで睨みつけた。


 東城の放った一手は別に悪くない、むしろ最善に近い一手だ。

 だからこそ──俺は東城の放ったその一手をとっくの昔に読み終えている。


 将棋は一手を当てるゲームじゃない。終局までの100手前後を読み切るゲームだ。

 だから目の前の一手ばかりに固執していると、その先の読みがおろそかになる。


「なんで、そんな早く読めるのよ……っ」


 対局時計を見ると残り時間の差は歴然としていた。


 ──2分──対──18分──


 残り時間が2分しかない東城に対して、俺の残り時間は18分も残っていた。

 対局開始時の互いの持ち時間は20分。中盤から始めたことを考えれば、東城の指し手はアマチュアの中でもかなり遅い方だった。


 きっと、性格が指し手にも反映されているのだろう。


 東城の指し手は常に堅実で堅牢。挑戦的な手を指さずに、間違っていない手を指す。そんな硬派な将棋を指すのが東城だった。


 だけど、そのせいで無駄が多くなっている。


 古き良き棋風。相矢倉。東城の将棋は昨日も今日も『矢倉囲い』という古い指し回しを採用していた。


 昔の将棋はとにかく定跡。決まりきった形を作ってから戦いを始める戦型が多い。

 矢倉もその一つで、長い手数をかけながら自身の王様を守る囲いを作り、その囲いができてから攻めると言ったもの。


 別にそれが悪いというわけじゃない。なんせ将棋には『居玉は避けよ』という格言がある。

 これは『王様を守らず戦うとすぐ死ぬぞ』というものだ。


 だから昔の将棋は王様を必ず守ってから、囲いを作ってから攻めるという鉄則があった。中にはそれを原則としている道場もあったらしく、破った者を厳しく叱るという風習もあったらしい。


 だが、現代将棋は『王様を囲わない』──。守らないんだよ、東城。


 ここ数年で将棋界のレベルは一気に上がり、『定跡を踏襲する時代』から『最善を求める時代』へと変わっていった。


 王様を囲う暇があったら攻めろ。王様を囲うための数手があればすぐに決着がつく。だって一手も無駄が無いんだから。

 ほら、簡単だろう?


 そんな現実を突きつけたのは『AI』という演算機の登場だ。


 AIには感情が無い。だからこそ王様を囲ったり攻めの準備を整えたりという『相手と呼吸を合わせながら戦う将棋』を完全に否定し、とにかく最速最短の一手で相手を叩きつぶす『最善の将棋』を生み出した。


 そんなAIから放たれるのは完全極まる最善手。本当の意味での正しい一手だ。


 その一手に多くの棋士が悩まされ、多くの将棋指しが否定と迎合を繰り返した。


 ──やがて令和の時代になると、定跡を指す者は段々と消えていき、AIの最善手を真似るような者達が増えた。


 そしてAIが生み出すその最善手こそが現代の新しい『定跡』なのだと評されるようになっていった。


 俺は昔から陰キャだったから、道場に通った期間もほんの数ヶ月だし、誰かから定跡の細かい部分まで教えてもらえたことはなかった。


 だけどその代わりに、自分の家のパソコンでAIとずっと研究を重ねてきた。そして俺と同じように研究を重ねてきたやつらとネットでずっと戦ってきたんだ。


(心の中だけどハッキリと言おう、東城美香。君の指し手はあまりにも──時代遅れ過ぎる)


 ──ピッ。


 対局時計から音が鳴り、東城の持ち時間が切れたことを知らせる。

 持ち時間が切れると『秒読み』というものに入る。これは"〇秒以内に指さなければ負け"というものだ。


 今回の秒読みは30秒に設定してある。

 つまり東城はこれから最後まで全ての手を30秒以内に指さなければいけなくなった。

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