第七話 過信する努力の差と、その男の見えない努力
東城美香の人生は苦難と挫折の連続だった。
才覚ある母親と父親に挟まれながら、毎日のように自分の才能の無さを自覚させられる。
テストで高い点を取っても、スポーツで代表に抜擢されても、男子たちからモテても、それが心の空白を埋めることはなかった。
世界は理不尽で、不条理で、誰かの都合よく回っているわけではない。
傾向と対策。努力と結果。いつだって実力を裏切るのは正体不明の『運』という弊害。
アタシは小さい頃から『運』が嫌いだった。
どれだけ努力しても、結果が実るかどうかは『運』。
どれだけ自分に磨きをかけても、それに気づいてもらえるかどうかは『運』。
どれだけ完璧に仕上げてきても、結局それが成功するかどうかは『運』。
人生、あらゆる物事において人の運勢は付きまとう。
アタシはそれが嫌いだった。
俗にいう『運がいい』という状況は、全てを完璧にこなそうとするアタシには縁のないものだった。
最初から100%に仕上げてきているのだから、どれだけ運が良くてもそれが120%になることはない。でも運が悪いと80%、70%まで落ちてしまう。
だから、いつだって『運』はアタシの大敵だ。
"今回"もそうだった。
昨日、突然将棋部に見学してきた渡辺真才という男。
ボサボサした髪にやる気のなさそうな目、脱力した肩、才能の籠ってない負のオーラ。クラスでは陰キャキャラで確立してるモテない男の代表例のようなやつだった。
どうせ今までろくな努力もしてこなかったのだろうなと、アタシはそいつのことを鼻で笑った。
でも、いざ対局を始めたら──そいつはものの数分でアタシを倒した。
全力で叩きつぶしてやろうと構えたアタシの本気の戦法を、そいつは何食わぬ顔で崩壊させた。
将棋には『
本当は読み切れていないのに、運よく正解の一手、つまり最善手を指せた場合に使われる言葉だ。
アタシはそいつが『指運』でアタシに勝ったのだと、マグレで運よく勝てたのだと、そう思った。
また『運』に見放された。裏切られた。いつだって実力の上には『運』がいる。勝てない理由は『運』のせいだ。
だってアタシは、誰よりも努力しているのだから──。
※
放課後、俺はいつも通り帰宅してしまう体にハッとして、部室へと足を戻す。
もう自分は将棋部の一員だということを忘れていた。今日入部届もだして受理されたのに、放課後になると思わず家に帰りたい衝動に駆られてしまう。
しかし俺とてもう立派な高校生、部活には入ってしかるべき歳。
まだ知らない人と関わるのは若干の緊張が伴うが、将棋部ということで他の部活と比べればまだマシな方。
それに俺は人と話すのが苦手なわけではない。ただ自分から話しかけにいかないから結果的に陰キャまっしぐらになってしまっただけなのだ。
虚しくもそんな風に自分を擁護していると、気づけば部室の扉の前まできていた。
よし、ここは武林先輩を見習って大声で挨拶して新入部員としてのやる気を見せるとしますか!
「お、おつかれさまでーす……」
クソザコナメクジみたいな挨拶をして部室の扉を開ける。
しかし中には誰もいない。シーン……、と静まり返って人の気配が全くない。ただ将棋盤がぽつんと置かれているだけだった。
どうやら早く着きすぎてしまったらしい。
そういえば今日は俺のクラスだけ繰り上げで早めに授業終わるんだった。じゃあ先輩たちが来るのはまだ先ってことか。
……あれ? でもよく考えたら部室の鍵は開いてるし電気もついてる。それに将棋盤が置かれてるってことは誰かが用意したってことだから、もしかして俺より早く来てるやつがいるのか?
「来たわね」
なんてちょっと疑問に思っていると、急に部室の中から東城の声が聞こえてきた。
ふと目を向けると、部室の奥のパソコンが置かれた椅子に座る東城の姿が見えた。
「あ、いたんだ東城さん。えっと、お疲れさまです」
「いいから、座って」
「え?」
東城は俺を見るなり立ち上がると、挨拶をしようとした俺の言葉をさえぎって将棋盤の置かれた長机を指さした。
「朝の続きをやるわよ」
「……」
朝の続き、というのは今朝HRが始まるまでに戦った将棋の続きを望んでいるのだろう。
だが、俺は懐疑的な表情を浮かべながら沈黙を返す。
朝の時も思ったけど、なんで東城が俺を相手にこんなムキになっているのか分からない。
相手は陰キャで、底辺で、何の取り柄もないクラスメイトだぞ。関わるだけ損じゃないのか?
「……やるのはいいけど、なんでそんなに俺と戦いたいのか聞いてもいい?」
昨日と同じく長机を挟んで座ると、そんな問いかけを東城にした。
「……認められないからよ」
そんな東城の口から出てきたのは、昨日も聞いたセリフだった。
「アタシはずっと努力してきた、何年も研鑽を積んできた。別に将棋に限った話じゃないわ。勉強もスポーツも、自分にできる範囲のことはすべてやってきたつもりよ。でもね、将棋はその中でも特に時間を費やしてきたの。誰よりも努力してきたのよ」
面と向かい合ってそこまで言い切った東城は、触れた両手を机に叩きつけて立ち上がり、俺を見下ろして激昂した。
「そんなアタシがぽっと出の新人に、こんな才能も無さそうな男に、努力もして無さそうな男に負けるだなんて……認められるわけないでしょう!?」
今までに経験したことのない感情。それが目の前の相手に対する苛立ちなのか、それとも羞恥心なのかは分からない。だが確かに抑えきれない気持ちが東城の中で爆発し、行き場を失った感情は俺に全てぶつけられた。
そんな感情を吐露された俺は無言で東城から視線を逸らす。
「そうやって他人と目も合わせられないような人間が、どうしてアタシを負かせることができるのよ……!!」
前髪をぐしゃりと握りしめながら、東城はその感情をどうしていいか分からないといった様子で語気を強める。
いつもなら動揺で慌てふためいていた俺だが、あまりの散々な言われように逆に冷静になってきた。
別にバカにされることは気にしちゃいない。実際バカだし、こうして罵倒されるほどの醜さを晒してきた自覚もある。
だけど俺は、どうしても反論したいことがひとつだけあった。
「確かに俺には才能がない。成績もさほど良くないし、スポーツだってからっきしだ。髪はボサボサで姿勢も悪い、顔も良くないし背だって低い。努力をしてこなかったからな。周りから冷めた眼で見られるのも、クラスの端でびくびく震えて陰キャやってるのも、全部努力をしてこなかった結果だ」
感情には無感情をぶつけるように、俺は自分の恥じるべき黒歴史を淡々と東城に言い放った。
すると東城は同意した様子で引きつった笑顔を見せる。
「そ、そうよ! だからアンタは──」
「じゃあ、なんで『これ』は認めないんだ?」
そう言って俺は将棋盤を指さした。
東城の表情が固まった──。
「俺はろくに努力をしてこなかった人間だが、こと『将棋』に関しては誰よりも努力してきた自負がある。それでも俺より強い人は巨万といるだろうし、俺の努力が絶対に実ってるなんて自信を持って言えるわけじゃない。──でも、俺は確かに努力してきたつもりだ」
「アタシよりしてたっていいたいの……?」
「違う。東城は過去の自分の努力が今の自分の実力に繋がっていることを知っているのに、どうして他人の実力の背後にある努力の結晶は認めないのかと言っているんだ。君は将棋がただの運ゲーだとでも思っているのか?」
「そ、それは……っ!」
押し黙る東城を見て、俺は言葉を続ける。
「俺のことが嫌いなら嫌いでもかまわない。バカにしたいならすればいい」
「ば、バカにしてるわけじゃ……!」
「だけど、俺の将棋人生を否定することだけは許さない。そこは絶対に譲れない。これは俺の唯一の取り柄なんだ」
あれだけ自分の醜さを吐露してきた俺だ。反論なんていくらでもできるし、思いつく。しかしそんなプライドを捨ててでも俺は譲れない一線があった。
これだけは、『将棋』だけは──絶対に譲れない。
「……はぁ、ごくつぶしの分際で偉そうに言ってごめん。今のはただの独り言だから気にしないで。じゃ、対局始めよっか」
口を開けながら狼狽する東城を外目に、俺は駒箱から駒を取り出して並べ始めた。
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