第3話 淀《テン》の章


「な、何を馬鹿なことを考えてるんだよ俺は……、鹿か何かだろ……? 鬼女だなんだなんてそんなの迷信──」


 カサリ。


 カサカサ。


 先程よりも近くで聞こえるの蠢く音。さらに恐怖心から研ぎ澄まされた雪人の耳に、有り得ざる声が聞こえる。


 シィ……


(なんだ……? 何を言って……)


 ……ィィィィィィネェェェェェェェ……


「ひっ……」


 雪人の口から思わず短い悲鳴が漏れる。薮の向こうから確かに「死ね」という言葉が聞こえてきた。


(ヤバいヤバいヤバい……、何かいる何かいる何かいる……)


 物音を立てないように縮こまり、さらに耳を研ぎ澄ます。


 ドコ……ニ……カク……レ……


 あまりの恐怖に歯の根が合わずにガチガチと音を立てる。


 コッチ……カ……


(頼む……頼む頼む頼む……、どっか行ってくれどっか行ってくれどっか行ってくれ……)


 ガサ。


 ガサリ。


 薮の中を進む音が、まっすぐ雪人へと向かってくる。


 ミィ……


(どっか行──)


 ……ツケタァァァァァァァァァッ──


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 縮こまる雪人の前方──

 首のない地蔵が転がる薮の中からは現れた。


 血走った目はおよそ人のものには非ず──


 裂けたかのような口からはよだれが垂れ──


 ボロボロの布切れを纏った白髪の──


 鬼女。


 白髪の鬼女が髪を振り乱しながら、ゆっくりと雪人へ手を伸ばし──


「……うぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 捕まるすんでのところで、雪人が駆け出した。足はもつれ、まともに走れずに何度も転ぶ。転んだ拍子に打ち付けた鼻からは血が滴る。だが止まるわけにはいかない。に捕まるわけにはいかない。


 は人では無い。


 人であってはならない。


 捕まれば殺される。


 雪人の本能がそう叫んでいる。


 逃げなければ……、


 逃げなければ逃げなければ逃げなければ──


 雪人は無我夢中で走り、気付けば地蔵が二体鎮座したほこらの前に辿り着いていた。


「……ぜはっ……はぁ……はぁ……ここ……は……」


 雪人が辿り着いた場所、それは奥戸家の裏手にある切り立った断崖。


 奥戸家は二股に分かれた道を左に行き、急な坂道を登った先にある。対して奥森──地蔵山へ向かう獣道けものみちは、位置的に奥戸家よりも奥へ進むまで平坦な道が続き、そこから地蔵山へと向かう坂道へと変わる。つまり奥戸家は途中まで平坦な獣道けものみちよりもかなり高い位置にあり、家の裏手は獣道けものみちへと落ちるように崖になっている。


 その崖の下、壁面に埋め込まれるようにして建てられた祠の扉を開け、雪人が中へと転がり込む。転がり込むとは言ったが、祠はそれほど大きくはなく、人が一人やっと入れるくらいである。それもあって雪人は二体の地蔵にみっちりと挟まれる形となり、その状態で格子状の扉の隙間から外を伺う。


(なんなんだよ……、さっきのはいった──)


 ウフ……


「ひっ……」


 格子状の扉、はっきりとは見えない視界には姿を現す。思わず漏れ出た短い悲鳴を手で塞ぎ、震えながらの姿を目で追う。


 ウフフ……


(笑って……る……?)


 カク……レンボ……フフ……ドコ……ドコニ……

 

(……ヤバいヤバいヤバい……、こっちに来たこっちに来たこっちに来た……)


 幽鬼のごとくゆらゆらと、が祠の前まで来る。


 ギシ──


 ココ……カナァ……


 ギシギシ──


 が祠の扉を掴み、開けようとしている。雪人は直視出来ずに目を瞑り、必死に扉を抑え──


「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ! 違うんです違うんです違うんですぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ! 俺! 俺は美味しくない! 美味しくないからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 ギシ──


 ギシギシギシギシギシギシ──


 雪人が訳の分からない言葉を喚きながらも、扉を必死に抑えて抵抗する。


 アケ……テ……


 アケ……


 ……ロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!




---




 そうしてどれほどの時間が経過しただろうか、気付けば扉をこじ開けようとするの姿は無くなり。祠には静寂が訪れていた。


「……うぅ……ぐ……助かった……のか……?」


 恐る恐る目を開けた雪人だったが、祠の外には何もいない。木々の葉が風に吹かれ、さわさわと擦れる音が響くだけ。


「ふぅ……とにかく助かったんだよな……? もしかしてこの地蔵が助け──」


 ヌチャリ。


「なん……だ……?」


 信仰心などからではないが、地蔵の頭を擦った雪人の手に──


「嘘……だろ……? これ……は……」


 震える手に纏わり付く、酷く鉄臭い液状の──


「うぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 そこには薄暗い祠の中、血に塗れた二体の地蔵が、静かに佇んでいた。



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