あの船に乗って

古川智教

あの船に乗って

さいあいのひとへ


 不動の船。海面に浮かんでいても波に揺さぶられていない船。動きが知覚できないほど遠くに見えるわけでもなく、錨を下ろされ、港の岸壁に繋留され、見せ物にされていて、それでもなお微動だにせず、強い海風で小刻みに打ち寄せる波を受けても、好奇の眼差しや通り過ぎざまの一瞥、あるいはこの場に住う亡霊たちの視線を浴びても、動じないでいられる船。大型の南極観測船。入場料を払って船内を隈なく見学したとしても、陸地にいるのと変わらないだろう。真新しく黒とオレンジのペンキを喫水線で塗り分けられた舷側を間近で眺めても、海面の上と下との面積の比率は変わらないだろう。たとえ嵐と地震、霰のように降り落ちてくる焼夷弾の爆風を受けたとしても。何も。何も変わらない。ただ昼日中の光だけが艶かしく細い糸のような波線となって、船の至るところ、海面の至るとこでその身を左右に振っている。踊っているようでも、身悶えしているようでもあり、瞬時に場所を変えて消失と出現を繰り返しているようでもある。その船はもはや二度と出航することはないのだが、不動の舳先は紛うことなく終焉に向けられているのだ。きっと船内に入ってみれば、揺れが感じられないことと相俟ってそのことはより明確になるだろう。暗く翳った階段とひんやりとした操舵室から明るすぎる甲板に出てみれば、自ずと眩しさによる視野狭窄を通じて耳元でその秘密を打ち明けられるはずだ。だが、二人は入らなかった。目を閉じ、耳を塞いで、横付けされた船の前に広がる公園の柔らかい陽光の下、並んで直立したまま身じろぎひとつしていない。二人は背後に立つ枝打ちされた冬の木々と何ら変わるところがなかった。船が不動であるところを見てはいなかったのだ。もちろん微かな音の変化による、物が動き出しそうな気配さえも聞き取ろうとはしていなかった。二人の瞼が今もし開かれたとしたら、視線の先にあるのは不動の船ではなく、小さな白い箱のような博物館であり、南極の写真や資料、船や観測基地の縮尺模型の数々が展示され、永遠に動きを奪われているのだが、そこにも二人は入らなかった。しばらく沈黙の支配する公園で佇んでいなければならない理由がどこにあるのか当の二人にも分かってはいない。通り過ぎていく人が二人を見たとしたら、怯えているようにも、心を落ち着けているようにも見えたことだろうが、人っ子ひとり見当たらないので、二人の間で曖昧に揺れ動く境界線を誰も感じ取ることができないのは明らかだ。それなのに二人はいつまで経っても二人のままでいようと心に決めている。心がぐらつくのも時間の問題だということも知っている。諦めの溜め息ともつかない白い息とともに二人は、潤った目を開き、両手を離して赧らんだ耳を露わにした。凍てついた大気に曝すことで、乾きとさらなる紅潮を促しているように見えなくもない。不動の船からの潮風が彼女の髪を舞い上げた。彼は身を硬くする。手が震え出しそうになるのを抑えきれず、そうっと彼女のぶらりと垂れ下がった手に己の手を近づけていく。拒絶を恐れているのではない。拒絶を求めてしまう手の意志を恐れているのだ。

「聞こえたでしょ?見えたでしょ?低い汽笛の音が。白い曳き波が」 

 彼の手は彼女の手に触れる直前だった。指先が熱を感じるところまで接近していた。彼女の手の甲もそれを感じていたはずだ。そして、彼女の手のひらにまで指先が回り込んでいくところを彼は想像していた。だが、彼女の声が冷たくそれを押しとどめた。拒絶ではなかった。

「それと波の音が聞こえなくて、船が見えなかったら、正解ね。あなたは私と同じ。聞こうとはしていなかったものだけを、見ようとはしていなかったものだけを、聞いてしまい、見てしまうタイプ。中心だけがぽっかりと穴の空いた土星の環のようなイメージ。土星はどこかに行ってしまった。でも、ひょっとするとそれは触れることに近いのかもしれない」

 彼はどきりとする。手の感触の予感を言い当てられたと思ったのだ。海までが彼にとっては凍りついてしまった。

「あなたはあの船に乗ってやってきた。港に着いてすぐ大人数で押し込められていた船倉から外に出されたものの、僅かな時間でも解放感に浸らせてはもらえず、一列に並ばされ、軍需工場、あの明暗の線が何度も何度も同じところに引き直される場所へと強制労働に向かわされた。すべてが終わったあと……そう、なにもかも、すべて、ありとあらゆるものが終わって、何も終わっていないに等しい時期になってから、故国へ帰っていくあなたを私は見送った。違う?合ってる?」

「僕はあの船に乗ってやってきた……確かにそうかもしれない。いや、そうじゃないかもしれない。僕はあの船に乗せられて、連れ去られた……のかもしれない。分からない。分かろうとしない。殴られたのか、眠らされたのか、騙されたのか、信じたのか……」

 彼の手はだらりと下ろされて、指のかたちが彼女の透明な手を優しく握っている状態で固まっている。指先に細い糸のような光がまとわりつく。熱は感じない。

「あなたは拉致された。私はあなたを見捨てた。許しがたい犯罪を見て見ぬ振りをして、何度もあなたが連れ去られる光景を目撃した。繰り返し繰り返し、あなたは舞い戻ってきて、執拗に私に対してあなたの哀れを催す様を見せつける。私の罪。そう言いたいのね。確かに私はそう言わなければいけない。断言して終わらさなければいけない。でも、ひょっとするとそれは触れることに近いのかもしれない」

 かじかんできた手を彼は見下ろした。漂白されたものとしてそれはそこにあった。その過程で一体何を洗い流してしまったのだろうと彼は考える。対して彼女の手の仄かな赭らみは冬の大気に抵抗しているようで、彼にある疑惑を抱かせる。彼女の火照りは恥じらいのためか、嫌悪のためか、彼に抗ってのことなのか、歴史に抗ってのことなのかと。彼は目を上げた。彼女の顔には憂いと微笑みが同居していて、彼ではなく、あの不動の船を見つめている。それが当然であるかのごとく。それから小さな博物館へと視線を移していく。彼女の思い浮かべる南極はどんなところだろうかと彼は想像を巡らせる。ありきたりの流氷や広大な平原、なだらかな丘、切り立った山脈、あるいはペンギンやアザラシ……彼は途端に立っていることに困難を覚えた。彼女の南極は冷たくなかったからだ。気温が欠落している。無を見つめるためのきっかけのような始まりの予感だけが漂っている。当然、彼はそこにはいない。

 彼は首を動かして辺りを見回し、自分が何を探しているのかを、探している当のものを目に入れながら見失っている。細長い四阿の下のベンチよりもむしろ垂れ下がって絡みついている蔦の緑や、雲間に現れて一斉に降り注ぐ陽光が生み出す物たちの影、空の彼方の最も色の薄い部分の方に探していたものをやっと見つけたという安堵を覚えた。土星のない環。太陽のない日暈。

「座らない?」

 彼女は首を横に振る。それどころか彼女は振り返ってベンチを見ることさえしない。

「疲れたんだ。もう。帰ってきたばっかりだっていうのに。ずっと船倉で立ちっぱなしだったんだ。身動きしようにも、痒いところに手を伸ばそうにも、その隙間もないほどに直立する人、人、人……いや、人じゃない……それどこか別の山に植林されるための苗木みたいな扱いさ。自然のためになるんだから光栄に思えって、見えないところから耳にこびりつく呪いのような声を浴びせかけられ続けるんだ……休みたい……」

「木に休みなんてない……木に祈りなんてない……木に慈悲なんてない」

「確かに……そうかもしれない……でも、僕は木の慈悲を感じたことがある。風も吹かず、日も射さず、恵みの雨なんて以前に降ったのがいつのことだったのか分からないぐらいなのに、溢れんばかりの慈悲を。枯れた木の傍で眠っていたんだ。黄土色をした荒地で、壊れた人形のように木の根元に座って、背中を今にも折れてしまいかねない柔で中身がすかすかになっていそうな幹に預けて、眠る気力も残っていない疲れきった身体を必死に眠らせようとしていた。木たちは優しかった。風もないのに子守唄代わりにかさかさと枝同士が触れ合う音を鳴らしてくれていた。優しさを分かち合うしか僕たちに残されたものは何もなかったから。そうやってしてあっちの土地でも、こっちの土地でもなんとかやってこれたんだ。それなのに君は……」

 彼は座りたいという欲求を失っていた。眠りたいという欲求さえ過去に遡って失ってしまったかのように。記憶の混濁はない。しかし、記憶が記憶となった大本の現実はあやふやであり、置き去りにしてきた遥か後方に目を凝らすと、すっぱりと断ち切られた崖のように向こう側が欠落している。もちろん、記憶が記憶である時点で既に現実ではないのだから当然と言えば当然だと納得してしまえばいいのだが、記憶が記憶だけで空高く旋回して一向に地上に舞い降りてこようとしないのを見上げているのは、彼にとって甚だ苦痛だった。彼女はどうか?聞いても無駄だろうか?やはり彼女は前を向いたままで彼の方を見ようともせず、不動の船と博物館との間、岸壁の柵の向こうの海を見るとはなしに見ている。彼も彼女の顔に辿り着くまでには迂回に迂回を重ねていかねばならないだろうから、これは彼女の準備作業なのだと彼は受け取った。

「そう……でも、あなたはあの船には乗っていなかった。別の船に乗っていた。別の小さな船で大洋に漕ぎ出して、今もなお漂流し続けているの。あなたはまだ船の上。沈没の時を待っている」

「それは君の方じゃないのか?君こそ別の船……いや、違うな。君はあの船に乗って、日本列島からかなり遠く離れた南の海上にいて、突如、音のない閃光を西の夜空に目撃した。それから地響きがして、周囲を圧迫していく音に襲いかかられた。波が立って、船が大きく揺れる。音は音以外のものを通じて、君の前にその姿を現そうとしていたんだ。君が望むままの姿に生まれ変わってみせることも可能だと言わんばかりに。それでも君は今と同じ目をして、甲板にひとり立ち尽くしていた。無関心でいて、すべてを見通そうとするあの冷めた目で。夜明けにはまだもう少し間があるというのに辺りは黄色い光に包まれ始めた。一面、敷き詰められた花粉のように黄色く濁って、汚染された池の中に潜っている感じだ。君の目にも入り込もうとしていたのかもしれないが、君の目の奥に秘められた威嚇の輝きだけは汚れた黄色を受け付けなかった。船には他に誰も乗っていない。君は一体ここに何をしに来たのか、事のはじめから分かっていなかったが、ただ被曝するためだけに来たという祈りに似た心境に至ろうとしていたんじゃないか。きっとそうに違いない。僕は祈りを無関心と紙一重の、威嚇と紙一重の、消滅への意志と捉えている。おそらく君も……船は引き返し始めた。誰も舵を切る者はいないというのに太平洋上を大きく弧を描いて、日本の中心へ向かっていった。するとそのうち粉雪のような、それでいて肌に触れても溶けることのない白い異物、べたつき、ざらつき、払い落とせない、引き剥がせない、真っ白な灰が降ってくる。降り頻る。空を見上げると、疾うに夜は明けている時間のはずなのに薄暗い。ところどころ黒い。墨が滲んで広がっていくかのように曇天を侵していく。沖合からの帰還はおおよそ二週間かかる。君の皮膚は火傷の痕が生々しく、水疱ができ始め、次第に黒ずんでいったのかもしれない。乱れた髪を掻き上げたときに大量に抜け落ちていったダークブラウンの束を握り締めていたのかもしれない。苦しそうに咳き込んで、口のなかで溜まっていた血を甲板と船首の近くにまで飛び散らせていたのかもしれない。そして、目に涙を浮かべて、膝をついたのかもしれない。ひょっとするとそれは触れることに近いのかもしれない」

 彼は息を吸えなくなった。一拍おいて小刻みに息を吐いていくばかりで、じきに底を突くという切迫した事実に焦りを見せて、自身の胸倉を掴んでいた。抗いがたい恐怖。かたちを成さない恐怖。彼の手は恐怖に抗い、それにかたちを与えようとしていたのかもしれない。そうすれば恐怖の手に負えなさは幾分かは和らげられると踏んで。ふと気づくと、彼女は彼を見ていた。彼の息は止まった。おそらく息は彼女の目に射竦められて、彼女の心房に囚われてしまったのだろう。彼は死に、彼女の生の活力に奉仕する。悪くないと彼は思った。その方がいいと。だが、すぐに彼女の目は彼の息を離した。目を伏せて視線を彷徨わせ、彼の顔から不動の船への道中にまだ見る心構えができていない何かがあるとでもいうように、地面の芝生と砂利の境目に揺蕩って行きつ戻りつする陽光を追っていき、不動の船に視線を固定させた。息が息をするためには忘却を必要としている、不動の船への悲しげな眼差しから推測して、彼女はそう言いたげだった。彼も目を落とした。そして、彼女の視線と同じ経路を辿り、ただし顔は上げずに彼女の脚の間を擦り抜けて、静止している海の波の方を見遣った。岸壁をよじ登り、柵の隙間を抜けて、くすんだ赤色をした小さな蟹がこちらに向かって来ている。ちょうど芝生と砂利の境目を陽光の動きに合わせてジグザグに、けれどもすぐに合わせきれなくなってずれを孕みながら、横歩きで近づいてくる。彼に見つけられるとぴたりと動きを止めた。開ききった鋏を空に向けて、威嚇とも恐怖とも受け取れる曖昧な態度を崩すことなく、それでいて硬直の奥深くには生物の徹底的な無関心が潜んでいて、彼の視線など本当は意に介していないのではないかと思われるほどだった。彼のうちにも冷ややかな無関心が流れ込んできていて、最深部において氷結を外側に向けて広げていこうとしているのではないか。それが彼の硬い外殻となって、無関心を奪いにくる天敵、あの太陽を背にして羽搏き、虎視淡々と捕食の絶好の機会を狙っている、思い出したくもない記憶を想起させに来る鳥から身を守ろうとしているのではないか。もしくは危険に即座に反応するためには冷ややかな無関心と程よい弛緩が必要なのかもしれない。しかし、それとは別の理由がもしあったとしたら、冷ややかな無関心は一瞬のうちに溶け出し、適度な弛緩は極度の緊張に変わって、溺れている最中に放り出されるのでは、と彼は思った。そのとき、さあっと小雨が通り過ぎていった。狐の嫁入りだった。風に流されて、さっきよりも雲と雲の間隔は広がり、空の青みが水中から見上げているみたいに濃く深くなっていたのに。彼と彼女の頭上に漂うのは、僅かばかりの羽毛のような雲しかなかったのに。蟹の甲羅が濡れて光っていた。彼は見た。彼女の唇の潤い。彼女のしっとりとして波打っているダークブラウンの髪。雨滴の通った跡が仮象の涙を描き出し、耳朶から落下する水滴が地上に達するより前に、降り止もうとする天気雨の一粒と合わさっていく。彼女の目が乾いていき、冷たい風が二人の間を吹き抜けていった。彼の目はまだ乾かない。彼は聞いた。雨は止んだのに水の音がするのを。継続的に噴き上がり、流れ落ちる音がいくつも重なり合っているところから、噴水の存在を認めないわけにはいかない。けれども彼は彼女の顔から目を離さない。彼女もきっとそれを聞いているはずだが、彼女はじっと彼の胸元辺りを見つめている。彼は息を止めていたのを忘れていた。彼は息を大きく吸った。

「ねぇ、私、子どもができたかもしれない。どこで身籠もったのか、あの船の上でだったのか、それは分からないけれど、流産するに決まってる。でないと、私の子どもは……明日、一緒に病院に行ってくれる?」

「いいけど、君はまだあの船の上にいるじゃないか。僕は降りて難を逃れたけど、君はあの船に乗って、舳先で堤防を突き破り、田畑の上を船底で削りながら滑っていって、もしかしたら逃げ惑う人や動物を轢き殺して下敷きにしているかもしれない状態で、遂には街中まで到達して、二階建て旅館の屋根の上に乗り上げて停止した後も平然と甲板に突っ立ったままだったじゃないか。轢かれたなかには子どもだっていただろうから、君の子どもは君のお腹のなかに帰って来ただけなのかもしれないよ。子どもを産んで育ててみれば、あのときのことを憶えているかもしれない。大丈夫。安心して。憶えているとしても、あの船のことじゃなくて、その前にその子を飲み込んだ大津波のことだろうから。衝撃で意識を失い、溺死したのであって、あの船が、あのときの君が殺したわけじゃない……君はあの船の上で辺り一帯を見回した。幸いにも人の姿は目につく範囲にはなかった。倒壊した家屋の下敷きになっていたか、津波が一気に引いていくときに一緒に海へと流されていったかのどちらかだ。それに君は見たくなかっただろう。君が見下ろしたのは破局というに相応しい光景であり、夥しい折れた木材の山と砕けたコンクリートの残骸、ぶっちがいになって宗教的なオブジェのように見えなくもない鉄骨の柱だった。そして、目を背けるために振り返ると、波打ち際がずっと遠くにあって、地平線とほぼ一致するところまで後退しているのを見ざるを得なかった。君にとってそれは恐怖というよりは静かに底の方に沈んでいくが、決して消えない怒りのようなものであり、遣り場のないために灰色の広大な干潟の、寂寞とした焦点の合わなさに包まれている他なかった。だから君はあの船から降り立った。右舷から飛び降りて、脚の骨を折った。泥濘んでいる地面に身体を歪なかたちで二つ折りにして、君は両手を泥のなかに入れてまさぐった。何かが埋まっている。尖った破片?もしくは骨?それは君の手のひらに刺さる。ひょっとするとそれは触れることに近いのかもしれない」

 彼女はもう彼の方を見ていなかった。再び、視線は不動の船と小さな博物館の間の静止した海に向けられている。ただし、さっきよりも海の色に黒みが増している。それに対して博物館の壁面の白さは陽光の反射による輝きと、陰影が作り出す錯覚による凸凹とで、雪の巨岩のようにも見え、二人が今いるこの場所を氷点下の極寒の地に変えていく。彼はその美しさに身震いした。美しさを感じたことにぞっとしたのだ。

「いいえ。私が降り立ったのはこの氷河の上。あの船から乗り移った小型ボートに運ばれて、黒っぽい海と真っ白い氷の巨岩、氷のなかのところどころに見える透き通った水色の線、それらを横目に視界に収まらないほど広大な大陸を目指して進み、そして接岸した。ボートから降りたのは私だけじゃなかった。私以外に二人の若い女、女たちを挟んでライフルを手に持った数人の兵士たち。見るのも嫌だったから、人数までは憶えていない。足裏で氷の大地を踏みしめたときの雪と氷が軋んで弾けるような音。新しく生み落とされていくようにその音は立て続けに鳴っては消え、鳴っては消えるから、まるで生まれた瞬間に死ぬときの音を聞いているかのようだった。そこからさらに私たちは歩かされた。滑って転ばないよう細心の注意を払ってゆっくりと一歩ずつ。遠くに見えてきたのはいくつものテント、かまくら、イグルー。雪と氷の世界で建てられる家々のすべて。そのひとつひとつに薄汚れ、やつれ果てた兵士たちが一列に並んで順番待ちをしている。入るために長い時間待っている兵士は欲望に滾る暗い顔で。出て来た兵士もまた憔悴した暗い顔で。私たちは私たちを連れてきた無言の兵士たちにライフルの先でそれぞれ入るべきところを割り振られた。入るのを躊躇していると、背中をライフルの先で突かれる。引き金に指を押し付ける音までが凍てつく風の音に混じって聞こえる。そして私たちは朝から真夜中過ぎまで犯され続けた。彼らの疲労からはとても想像もつかない、灰になるのも恐れない激しさで。それはそうね。彼らにとってはこれが最後かもしれないもの。むしろここで私たちと一緒に死に果てたいと願っていたでしょうね。でも、なんで私たちがその道連れにされなきゃならないの?拷問としての労役を終えると、私は裸同然の薄着のまま外に出て、オーロラを見上げた。憎しみの胚芽は取っておいて大事に育てないといけない。事を終えた兵士たちは翌朝すぐに出発させられるの。またも一様に暗い顔を浮かべて。その暗さには死ぬことへの希望が滲み出ているように見えた。極寒の奥地では戦争が続いている。悪化の一途を辿って収拾のつかない状態になって、あちこちで氷には大きな穴が空き、青い海水が溢れ出し、氷の台地が傾いて、永久凍土が剥き出しになり、雪と氷の山が崩れて、兵士たちがその下敷きになっている。ちょうど私たちが兵士たちに覆い被さられていたときの格好そのままで。そのうちきっと核のボタンが押されてしまうに違いない。ただそうなる前に事は起こった。凍結した兵士たちの数多の死体の傍で軋る音、私たちが寝かされていた粗末な簡易ベッドの軋みを壮大にしたような音が、ひとつまたひとつと湧き起こって、弾ける泡沫のような大合唱を響かせ、至るところで走る氷の亀裂がその先端をひとつに合わせていく。大津波と大洪水に世界は飲み込まれる。ひょっとするとそれは触れることに近いのかもしれない」

「そしたら、ここは?君が言った通りだとしたら、ここはどこなんだ?」

 彼は慌てふためき、定まらぬ視線を無闇に公園の四方に向けて、公園の中心部、空虚であるべきところに、極度に歪んでいて本来であれば見逃してしまうはずのものを捉えてしまった。純粋な偶然に対して悪意が混入されたかのように。そこには噴水があった。三段の水盤から溢れて流れ落ちる水が陽光を粒状に反射して、金色の小さな魚が尾びれを左右に振って跳ねているように見えた。彼は飛び散った光に射られて目が眩んだ。血が混じっているかのような赤みに縁取られ、白い靄のような光に包まれて、それ以上見上げることができなかった。だが、確かに噴水の頂上、円形の台座の上に何か別のものが建っているのを、彼は認めないわけにはいかなかった。彼女もそれを見ることなく見たはずだ。見ようとはせずとも、彼の目で彼女は見ざるを得なかっただろうし、彼もまた彼女の目でそれを避けることはできなかっただろう。

「あれ……あれは何?」

 彼女の声だけを彼は見ようとしたが、叶わなかった。互いに入れ替わったかのような彼と彼女の目は、白い靄のような光を振り払っていく。とっくに見ていたはずのものを彼と彼女はもう一度、直視した。

「あれは……天皇陛下の銅像さ」

 彼女は唇を噛み締めて泣いている。ということはつまり、彼も泣いていたのだ。

「破壊して」

 彼女は言った。

「それこそが触れることそのものよ」

 不動の船が動き出した。誰も乗せてはいないあの船が。音も立てずに。岸壁から離れ、遠のいていく。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの船に乗って 古川智教 @es9or0en8o

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ