第36話 魍魎たち

 蛟の社に連れていかれてから四日が経っていたらしい。


 碧緒は足垂家に帰って来るまでに竜臣から説明を受けた。手を煩わせてしまったことを謝ろうとしたが、また「簡単に謝るな」と言われてしまい、口を閉じた。


 靴を履いていなかった碧緒は足垂家まで竜臣に抱かれて帰ってきた。一姫はあの後駆け付けた銀竜に抱かれている。


 足垂家の門の前には青い車が停まっており、くすべが車に寄りかかって腕を組んで待っていた。


「うっわ、もう最悪。シートびちゃびちゃになる。どうしてくれんの」


 言いながらくすべは助手席側の後ろのドアを開けてくれた。


「白虎が来る前に早く」


 竜臣は無言で碧緒を車のシートに座らせた。それから碧緒がずれたところに銀竜が一姫を寝座らせた。碧緒は一姫の身体を支え、慈しむような表情で彼女の頭を撫でた。


 ふと碧緒がくすべを見上げると、くすべは眉を寄せて銀竜に手を伸ばしてきた。


「……ギン、コート」


「俺のコートか?」


「他に誰のコートがあるの。早く貸して」


 銀竜は頭に疑問符を浮かべながらも自分のコートを脱いでくすべに渡した。


「はい。車の中は温めてあるけど寒いかもしれないから」


 くすべは碧緒と一姫の膝の上に銀竜のコートを乗せ、碧緒の礼も聞かずにドアを閉めた。銀竜が感心した目で見つめているものだから、くすべはむっとした表情で車に手を突いた。


「はい、幽閉かんりょー」


「人聞きの悪い言い方だな」


 銀竜は眉を寄せた。


「うっさいな。ちょっとジジイと話してくるからギンはここで待ってて。オレたちの他にお嫁さんと話したいって奴が現れても絶対許しちゃダメだからね。特に白虎!」


 ぎ、と睨み、くすべは竜臣と共に足垂家の門をくぐっていった。銀竜はしばらく屋敷に向かう皆の姿を見ていたが、寒さに耐えきれず、ぶるりと震えて車の中に退散した。


 バックミラー越しに碧緒を見つめると、碧緒は見ていることに気づいたのかにこりと笑った。それからコートを返すと言ってくれたが、貸した手前受け取ることは出来ず、銀竜は断った。


 それから会話はなかった。碧緒はじっとドアウィンドウの向こうを見つめたままで、銀竜はなんとなくその横顔をバックミラー越しに見ていた。


 しばらくするとそれまでぴくりともしなかった碧緒が手を上げてガラスを触るのが見えた。何だろうと自分もドアウィンドウの向こうを見て気がついた。


 白虎がいた。


 銀竜はドアを開けて車を降りた。


「白虎殿。いかがなされた?」


 白虎がいる理由はさすがの銀竜にも分かったがあえて聞いた。


 白虎はすぐには答えなかった。巨体を屈め、銀竜には分からない特別な感情を込めた表情で車の中を覗き込んでいた。


「……閉じ込められたお姫様を横取りしても罰は当たらんよなぁ」


 銀竜は無言で白虎と碧緒の間にある一枚のドアを押さえつけた。


「そんな警戒せんでも、攫ってこうなんて思っとらん。……いや、さっきまで思っとったけど、碧緒ちゃんの目ぇ見たら失せたわ。これは碧緒ちゃんの決めたことなんやな。……そこにどんな理由があろうとも、碧緒ちゃんは竜臣を選んだんや。さすがに碧緒ちゃんの意志を曲げてまでわしのもんにしようとは思わん。……わしが無理やり選ばせた選択で碧緒ちゃんが不幸になってまったらわしは悲しいからな」


 そこまで言うと白虎ははぁーと大きなため息を吐き、腕を組んで空を仰いだ。


「めっちゃ腹立つわー。……わしに惚れさすしかないかな。うん、そうしよ」


 何やら意を決したように呟いてから白虎はすっきりした顔をして銀竜を見た。


「わしはここでお暇させてもらうわ。碧緒ちゃんは一旦竜臣に預けとく。ほな」


 白虎はひらひらと手を振り、銀竜に別れを告げた。それからまたなんとも言い難い表情でドアウィンドウを見つめてから、名残惜しそうにガラスを触って踵を返した。


 銀竜は白虎の姿が見えなくなるまで見送ってから、ガラス越しに碧緒を見た。あの白虎や竜臣をここまで動かす碧緒のことを純粋に尊敬する。けれども銀竜には白虎の複雑な思いは理解できずにいた。そして、一体碧緒のどこにそんな魅力があるのだろうと、失礼なことを考えていた。


 そうして銀竜が考え込んでいるとくすべがやってきた。口に煙草を咥えている。


「解決したよ。やっぱ女の身柄を拘束してる以上、こっちに分があるよね。こういうとき、足垂 竜樹も白虎も決断が早い。西方家はこの件から手を引く。……一応」


 くすべが一応と付け足した理由は、先程の白虎の言葉に隠されているのだろうと銀竜は推測した。


「足垂 竜樹は臣の言い入れを受け入れたよ。このお姫様は臣の女になる。つまり、東方家当主の妻だ」


 くすべが碧緒のいるドアのドアウィンドウを隠すように寄りかかり、ジッポの蓋を開けて煙草に火をつけた。白い煙がくすべの口から洩れる。


「この少女が」


 銀竜はぼそりと呟いた。


「まぁオレたちがそう決めたんだから、そうなるよ。カワイソーかもしれないけど、この子には他に道はなかった」


 くすべが吐いた煙がしばらく宙を漂い、空気に溶けて消えていく。


「俺たちが望まなければ、この少女には他の道があったのか」


 白虎のことを思う。


 足垂家で人身御供の儀があることを知らなければ。人身供物廃止令を作らなければ。竜臣が碧緒を妻に迎えると言わなければ。碧緒にはもっと違った道があったのかもしれない。


 竜臣と歩む道は間違いなく茨の道である。それは共に歩んできた銀竜、それからくすべが一番良く知っている。竜臣の歩む道は過酷だ。碧緒はそれに寄り添って歩まなければならないのである。碧緒の人生も過酷なものになることはまず間違いない。


 銀竜には小さな罪悪感があった。こんな年場も行かない少女を巻き込んでしまったことを申し訳なく思う。


「それはどうだろうね」


 しかしくすべはそんなことは微塵も思っていないような表情で言ったのだった。


「どういうことだ?」


 銀竜は堪らず聞き返した。


「結果を見ればオレたちの思い通りになってるよ。結局足垂家は【人身供物廃止令】に従うし、この女はオミの女になる。けど、オレたちはここまで行きつくのに無駄なことをいろいろさせられたよ。川を潰して、誘拐まがいのこともしてる。世間では、足垂家は川を潰されて仕方なく従って、女を返してもらえないから仕方なく受け入れたって話になるんだよ。西方家は東方家の所為で身を引かざるを得なかった。東方家の分家である足垂家は従わざるを得なかった。悪いのはぜーんぶオレたちだ」


「しかしそれは事実だろう」


 くすべが言ったことは紛れもない事実である。竜臣たちが介入しなければ、足垂家では円満に解決されていたはずなのだ。それが竜臣たちの介入によってしっちゃかめっちゃかになったのである。誰の所為かと問われれば、竜臣たちの所為に違いなかった。


「そ。事実。オレたちが引っ掻き回したんだからオレたちが全部悪いのは当たり前。でも、それがおかしいんだよ。ギンには分かんないかもしんないけどさ」


 銀竜は口をへの字に曲げた。


 くすべは煙草を大きく吸い込んだ。ふぅーっと長く吐いた煙が白い線を作る。


「たぶんこれは本当にオレたちが望んだ結果じゃない。でも誰かの望んだ結果になってるんだ。一体誰がこの結末を望んだんだろうね」


 銀竜は考えた。竜樹あるいは青梅だろうかと。


 くすべが煙草を携帯灰皿の中にねじ込み、車に寄りかかっていた身体を起こした。ついでにドアウィンドウ越しに碧緒を見る。碧緒はシートに深く沈み込み、目を閉じていた。


 碧緒の目が開き、外を見た。すでにくすべは覗き込むのをやめている。


 碧緒がしばらく外の様子を観察していると、二人が運転席と助手席に回ったのが見えた。


 くすべが運転席に、銀竜が助手席に座る。それから碧緒の右側、運転席の後ろのドアが開いてもう一人乗り込んできた。


 竜臣だ。滴ってはいないが髪はまだ濡れてしっとりしていて、青灰色のスーツも身体にぴったりくっついている。


 竜臣が乗り込むとすぐにくすべは車を発進させた。車が滑るように動いていく。


 碧緒はガラス越しに遠くなっていく足垂家を見ていたが、足垂家はすぐに見えなくなってしまった。碧緒は仕方なく前を見ることにした。くすべがハンドルを握っていて、目の前には銀竜の黒髪が見える。ふと右側を見ると竜臣が長い足を組んで座っていた。竜臣が足をぶつけない程度に車は広い。


 見つめていると竜臣が唐突にバスタオルを差し出してきた。きっちり三つに畳まれた、乾いたバスタオルである。


「ありがとうございます」


 礼を言ってバスタオルを受け取ると、竜臣はドアウィンドウの外へ視線を移してしまった。


 碧緒は一姫の髪を拭き始めた。ほとんどシートが吸収してしまったとはいえ、髪も身体もぐっしょり濡れている。碧緒は全身を押さえるように少しずつ拭きながら、窓の外を見た。


 ドアウィンドウのガラスには、口元を綻ばせる少女の姿が映っていた。

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