第35話 命の恩人

 瞼に光を感じて碧緒が目を開くと、二粒の赤い瞳がこちらをじっと見つめていた。


「竜臣、様……?」


 細い顎に、陶器のようにきめ細かい肌。不自然な程に整った顔が碧緒の目の前にあった。


 は、と吐いた碧緒の息が竜臣にかかった。


 竜臣の髪から碧緒の頬に水が滴り落ちて、碧緒のまつ毛が震えた。


 碧緒はまだはっきりしない意識の中、目を回して辺りを見渡した。


 崖の上、谷川の上のようだった。自分は竜臣の腕に抱かれ、崖の上にいる。


 どうやらまた竜臣に命を助けられたらしい。これは礼を言わねば、と口を開いた途端、頭の中が覚醒した。


「竜臣様、一姫は?」


 もう一度辺りを見回すが、一姫の姿は見つからなかった。


「一姫っ!? 一姫がまだ社のっ川の中に!!」


 碧緒は生まれてはじめて錯乱した。心臓の鼓動が速くなり、耳を打つ。一時的に顔が熱くなり、そして一気に身体中が冷め切った。


「早く一姫を助けなければ!」


 碧緒は暴れた。しかし竜臣の腕と胸ががっちりと碧緒の身体を固めており、どれだけ激しく暴れても抜け出せなかった。


「離して! 竜臣様っ!」


 竜臣の胸を拳で強く殴っても竜臣は腕を解かない。


「竜臣様ぁ! お願いよ! 離してっ!」


 碧緒は両手の拳で竜臣の胸を殴り続けた。どん、どん、という鈍い音が鳴る。すると竜臣が言った。


「助けてやろうか?」


 低い、声だった。


 碧緒は竜臣を殴る手を止めた。血のように赤い瞳を見上げる。


 返答を待たずに竜臣は再び口を開いた。


「君が俺のものになると言うのなら。俺が君を捨てるまで、君が俺のものであり続けるというのならば、助けてやろう」


 無表情で碧緒を見下ろす竜臣。赤い瞳が冷たく碧緒の困惑した表情を映していた。


「俺を選ぶか」


 選択の余地もない取引であった。


 碧緒はすぐさま口を開いた。


「碧緒には竜臣様しかおりません。この先ずっと、竜臣様がそのお口で私のことをお捨てになる日まで、碧緒は竜臣様のものでございます。どうか、どうか、この碧緒を竜臣様のものにしてくださいませ」


 碧緒の目から一筋の涙が零れた。


 竜臣の指が碧緒の顎を掴んだ。親指が涙の濡らした頬を撫でる。竜臣の顔がぐっと近づいた。


「その言葉、忘れんぞ」


 耳元で囁き、竜臣は碧緒を離した。そうしてそのまま目を大きくして見つめている碧緒の前で、何の躊躇いもなく、頭から谷底の川へ飛び込んだのであった。


 残された碧緒は崖まで這っていって川を覗き込んだ。


 また蛟と攻防を繰り広げているのか、一姫を探すのに時間がかかっているのか、竜臣はすぐには上がって来なかった。


 碧緒は胸で祈るようにぎゅっと手を握った。


 しばらくして下流の方で何かが川から上がるのが見えて胸が期待で跳ねた。


 その何かが川の上を飛び、こちらに向かってやってくることが分かると期待は確信に変わり、そして、ついに真実に変わった。


 竜臣が腕に一姫を抱いて戻って来た。


「あぁっ一姫!」


 碧緒が両手をいっぱいに広げると竜臣はその腕に一姫を抱かせてくれた。


 一姫の顔に張り付いた髪を払い、息をしていることを確認する。


「一姫っ良かった、一姫!」


 碧緒は強く一姫を抱きしめた。


「竜臣様、ありがとうございます。このご恩は一生忘れません。竜臣様、本当に、本当に、ありがとうございます」


 深く頭を下げた。


 竜臣は碧緒が地につけんばかりに頭を下げるのを見つめたまま何も言わなかった。

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