第33話 決着

 碧緒は一度も呪を切らすことなく、蛟の穢れを祓い続けていた。


 ただ集中が切れそうになることは何度もあった。集中力が切れて来ると、決まって碧緒は務めを果たして社から脱出した後のことを考えた。


 二つの縁談に二人の男。親が許しているかいないのか。己のことを愛してくれているのか、そうでないのか。


 大義を抜きにして、ただ真逆な二人の男を比べていたのである。


 一人は月のような男。冷酷無慈悲と言われ、全く表情を崩さなければほとんど心を乱すことも無い男である。色白で神秘的な青みを帯びた長髪に赤い目が妖物のようだ。


 一人は太陽のような男。豪快で気さく。激しく移り変わる喜怒哀楽を表情だけでなく全身で表し、恥ずかしげもなく愛を伝えて来る男である。褐色の肌に映える白い髪と、金の目。大きな体躯もあいまって獣のようであった。


 心に従うのなら竜臣だ。こうして心身共に疲れ、朦朧としてくると考えるのはいつも竜臣のことだった。強く堂々とした竜臣のことを考えていると、自分もそうならなければと活力が湧いてきて、気を引き締め直すことができるのである。


 顔を合わせたことも片手で数える程しかないのにどうしてそこまで、と碧緒は自分でもおかしな気分だった。一目惚れというやつだろうか。そうかもしれない。ただ彼の美しい見た目に惹かれたのかもしれない。けれど碧緒は断言できる。たとえ竜臣の顔が潰れたとしても愛おしいと。

 

 碧緒が竜臣のことを認識したのは、池に落ちた日から約一カ月後のことだった。


 助けられたのは夢だったのか、それとも現だったのか。気になっていたのは十日くらいで、すっかりその日出会った竜のことも気にならなくなった頃。ある女の子が仕入れてきた報がてい宿を騒がせた。


 近々網家が問題児【竜の子】の妻となる女子を探すためにてい宿を訪れると。


 聞けば何事にも関心を持たぬ子の今後を危ぶんだ叔父が、早めに婚約をさせて残りの長い人生を考え直すきっかけにさせようと企んだらしい。【竜の子】の歳は十六だったので、先方は前後四歳くらいの差の女子を探しているそうだった。


 というわけで十二から二十までの女の子たちはとりわけ上気した。碧緒はまだ十歳だったので興味はあれど浅く、「かっこいい」「きれいだ」「でもこわい」などときゃぁきゃぁ騒ぐ女の子たちを横目で観察するだけだった。しかし、何処から入手したのか、雪しろが件の【竜の子】の写真を持って来たことで碧緒の興味は一気に駆り立てられた。


 写真に写っていたのはあの日出会った竜だった。


 碧緒は何より幻ではなかったことが嬉しくて、騒ぐ女の子たちに交じって【竜の子】の情報を仕入れた。


 【竜の子】の名前は網 竜臣(あみ たつおみ)。両親を三歳で亡くし、同時に記憶を失ってから情や欲が欠落してしまったそうだ。常に無気力なのに大きな力を持っている所為で何かをやらせると加減がきかず、とんでもないことになるうえ、竜に化身できるので周りは彼を【竜の子】と呼ぶようになったらしい。


 あの日出会った彼がもう誰かのものになってしまうのは残念な気がした。けれど結局「近々竜の子が婚約相手を探しに来る」というのは誤情報で、実際は一カ月前にその目的でやってきたのを断念した、ということだった。つまり、碧緒が竜臣に出会った時期に、彼は叔父と共にてい宿で暮らす娘を品定めしに来ていたということである。断念したそうだが。


 叔父が何故竜臣の婚約者を探すのを辞めたのかは明らかにされていない。ただ秘密裏にてい宿を訪れた日を境に、竜臣はそれまでの無気力で無頓着な性格が嘘のように積極的に行動するようになったらしい。


 竜臣のことを認識した碧緒は、その日から彼の情報を集めるようになった。最初は己の命を助けてくれた青年への純粋な興味だった。それがいつしか憧れに変わった。外の世界で荒波に揉まれながらも、自分の意志を貫いて活躍する竜臣が素敵に見えて仕方が無かった。碧緒にはどれもないものを持っていたからだ。外に出ることもなく、荒波に揉まれることもなく、淡々と姉・青梅と父・竜樹に従い、奮起して殻を破ることをしなかった碧緒にとって、自由で強く、それでいて優しい彼はなりたい自分そのものだった。


 だから碧緒は竜臣の隣にいたいと思っている。彼をずっと傍で見ていたいのだ。吊り合わないことは分かっている。愛されていなくても良い。そんな自分の想いを知られたらきっと気持ち悪がられ、迷惑だと思われるに違いなかった。相手にされないのは構わない。けれど嫌われるのは嫌だった。だからいっそのこと気持ちに蓋をして、そっと離れていった方が良いのかもしれなかった。


 感覚が変わったことに気がつき、碧緒はゆっくりと目を開けた。


 蛟を覆っていた紙は真っ黒に変色していた。


 ぼうっと見つめていると、紙の中から真白な鱗になった蛟が這い出してきた。


 美しい鱗が蛟の身の内の穢れが残らず洗われたことを物語っていた。


 碧緒は無事やり遂げられたことに安堵した。


(良かったわ。後は、ここを出れば……)


 安堵した途端、疲労がどっと押し寄せてきて碧緒は床に手を突いた。身体が鉛のように重く、思うように動かない。


(早く外に出ないと、いけないのに)


 外が心配だった。きっと青梅が手を打ってくれているはずだが、青梅は誰の味方とも言えない位置にいる。


 それに一姫。幸いにも一姫はずっと眠ってくれていたので何事も無かったが、彼女が目覚めれば力がどう働くか分からない。すぐにでもここを出なければならなかった。


 けれど、身体が動かない。


(せめて一姫だけでも)


 震える手を伸ばそうとしたけれど、腹に白いものが巻き付いてきて一姫から離されてしまった。


「良くやってくれタ。うぬは良き花嫁ヨ。地上に戻すのが勿体ないワ」


 腹に巻き付いた白いものがぐるぐる蜷局を撒く。


「このまま我と共に生きようゾ」


「うっ」


 赤い舌で頬を舐められた。


 ぞっと鳥肌が立ったけれど、碧緒には抵抗する体力も気力も残っていなかった。視界が薄くなり、瞼が上がらなくなる。


 碧緒は完全に意識を手放してしまった。

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