第31話 穢れの禊
パリンッ
己を拘束する硝子玉が割れて碧緒は自由になった。
真っ先に一姫が隣に倒れていることに気づき、肩を抱いて名を呼びながら揺する。しかし一姫は目を開かなかった。とりあえず呼吸をしていることは確認できたので安堵し、辺りを見回して状況を確認することにした。
木を組み上げられてできた社にいるようだった。背後には台座があり、左右に青白く光る玉が飾られている。
知らない場所だった。ただ、開いた扉の向こうに見える景色に既視感があった。
ゆうらりゆらり。風に揺れているのとは違う揺れ方で、白い紙帯が揺れているのである。
恐怖を感じてぶるりと身体が震えた。
そして碧緒は気づいた。
紙帯は水の中にあるから揺れているのだ。ここは川の底で、己は儀式の谷川に備えられた社にいるのだと。
「気づいたようだナァ」
身体を舐めるような低い声が聞こえた。
振り返ると何処からか現れた蛟が這いずっていた。
数日前とは異なる異様な躯体に碧緒はぞっとした。蛟は身体から黒い靄のような邪気を放ち、黒い何かを纏ったおどろおどろしい姿になっていた。普通ではない。身の内に留められない邪が外に出てきてしまっているのである。邪は周りに穢れを撒き散らし、いずれ蛟を飲み込んで祟りとなってしまうだろう。
これだけ蛟を怒らせた理由は一つしかない。
川を潰されたからだ。
碧緒はそう瞬時に理解して居住まいを直し、三つ指を突いて深く頭を下げた。
「白苔川の主よ。わたくし共の無礼をお許しください」
「無礼で済まされることではなイ!」
蛟は叫び、ずるりずるりと碧緒の周りを回り始めた。
「我が花嫁を攫イ、隠シ、挙句に住処をも奪うとハ。我と契りを交わしたことで我を御しておると勘違いしたのではあるまいナ? 愚かな者共ダ。我がその気になればうぬら一族を皆殺しに出来るのだゾ」
「申し訳ございません。貴方様の住処はすぐに戻させていただきます故、どうか、どうか怒りをお鎮めくださいませ」
「住処を戻されたとしてモ、すでにこの身から溢れる邪は拭いきれヌ。六十年の穢れと怒りで邪を垂れ流すことしか出来なくなったこの身を如何すル。器を捧げねば鎮まらぬゾ。娘ヨ、うぬは如何すル。ナァ、我が花嫁ヨ」
蛟が頭をずいと近づけてきた。
邪に身を包まれ息苦しくなっても碧緒は冷静に言った。
「私が貴方様の穢れを残らず払ってみせましょう」
そればかりかにこりと笑みまで浮かべてみせた姿に、蛟はくつくつと嗤った。
「そうであろウ。そうであろウ。それでこそ久方ぶりに我が認めた花嫁ダ。務めを果たすのだゾ」
「謹んでお受けいたします」
碧緒は恭しく頭を下げた。
蛟の気配が離れると碧緒は顔を上げて準備に入った。
「それでは参ります」
碧緒が社の外の方へ手を伸ばすと無数の紙帯が引き寄せられ、たちまち蛟の身体に巻き付いた。蛟は碧緒のことを信用しているのか、文句も言わず受け入れてくれた。
次に碧緒は「ちょっとだけ協力してね」と心の中で呟いてから一姫の右の薬指と自分の右の薬指を持っていた髪結い紐で結び、準備を整えた。
(きっとうめ姉様がおっしゃっていた清算とはこのことね)
雪しろを遣わしたのは青梅だろう。一姫を焚き付けて自分と共に行動させ、二人揃って蛟の元に連れていかれるよう仕向けたのだ。雪しろは青梅に「儀式を妨害し、足垂に潜入していたことを不問にする代わりに協力せよ」などと言われたのだろう。きっと雪しろのことだから、雲雀のことも考えて頷いたはずだ。けれども碧緒は雪しろを責めるつもりはまるでなかった。
(うめ姉様が雲雀と雪しろを不問にしてくれるならむしろ好都合だもの)
さて。
碧緒はそこまで考えてから気持ちを切り替えた。
「ふー……」
ゆっくりと息を吐いて集中力を高め、目を閉じて印を結ぶ。
間もなく碧緒の身体は青白い光を放ち始めた。
光は細い糸になって蛟に伸びていき、蛟の身体が青白い光に包まれた。すると白かった紙がじわじわと黒く変色し始めた。蛟の身の内の穢れを紙に移しているのである。
碧緒はこれを蛟の身の内の穢れが無くなるまで続けるつもりだった。六十年の穢れを祓い切るにはどれだけかかるか分からない。本来の【地鎮の儀】のように十二年かかるかもしれず、やり遂げる前に碧緒の身体の方が頽れるかもしれなかった。
けれど碧緒は必ずやり遂げられると算段していた。なぜなら碧緒は一人じゃない。傍らに一姫がいるからだ。一人で百人分にもなる膨大な霊力を宿している一姫の力を拝借すれば不可能ではないはずだった。
一姫の霊力は、繋げた薬指から碧緒の心に伝えられている。量としては申し分ない。これなら霊力不足を起こすことなく蛟の穢れを祓い切ることが出来そうだった。あとは碧緒の体力と気力の問題である。体力は人並みでも、気力には自信があった。
碧緒は己と一姫の力を信じ、必ずやり遂げてみせると誓った。
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