第28話 優しい真実

 奉公人としての仕事のために雪しろが下がってからしばらくして。


 どん、どん、という、通常よりも随分と大きなノックの音がした。碧緒が返事をすると勢いよく扉が開き、白虎が現れた。


「碧緒ちゃん。ちょっと話せる?」


 了承して出迎えようと立ち上がるつもりだったが、片手で制されたので碧緒はその場に座り直した。


 白虎は碧緒の前で胡坐をかいた。


「御用でしたらわたくしが参りましたのに」


「わしが碧緒ちゃんに会いた来たかったんや」


 恥ずかしそうにはにかむ白虎。それから「来たらだめやった?」としゅんとした態度で伺うように見つめてくる。


 会いたかった、という言葉を初めて言われた碧緒は目をぱちくりして呆気に取られていた。はしたなく口を開けて茫然としてしまいそうになるのを堪えて首を横に振る。


「そんなことはございません」


「碧緒ちゃんはわしが来て嬉しい?」


「えぇ、嬉しいです」


「なら良かった」


 ぱっと笑顔を輝かせ、白虎はすかさず碧緒の両手を自身の手にくるんだ。くるくるとよく変わる表情や純粋な好意に気を取られ、いつの間にか彼のペースに巻き込まれてしまっている。また手が抜けなくなった。


 このまま彼のペースに巻き込まれていると良い様に流されてしまいそうだったので、話を降ることにした。


「白虎様はどうして他人に化けて足垂に潜入していたのですか?」


 白虎は少し表情を曇らせてうーんと唸ってから上目遣いで碧緒を見た。


「怒らんといてや?」


 こくりと頷くと白虎は話し始めた。


「この縁談を親父から聞いたとき、碧緒ちゃんの写真も見せてもろてな。えらいべっぴんやな~とは思たんやけど、写真だけではどないな子か分からへんかったから。知りとうて、青梅に無理を言うて此処へ入ったんや。碧緒ちゃんに話しかけやすいように、そないな性格のやつを近くに配置してもろてな」


「そんな経緯があったのですね。わたくし、全く気がつかず無礼な態度を取ってしまいました。ここでお詫びいたします」


「気にせんとって。わしが西方 白虎やと知っとったら碧緒ちゃんはそないな態度やろうし。ただのお堅い女やったらここまで惹かれてへん。実際にありのままの碧緒ちゃんに会うて話してみて、えらい可愛いやん! 絶対お嫁はんにしよ! て思たんやから」


「白虎様にはもっと相応しいお方がいらっしゃいますよ」


 碧緒は困ったように笑った。真っ直ぐ見つめる白虎の視線が痛くて目をそらす。すると手を引っ張られて視線を戻された。


「いや。わしには碧緒ちゃんしかおらん」


「蒼春姉さまはどうですか? 蒼春姉さまは美しく、芸事に秀でていてまるで天女のようですよ。意志の強い妹の一姫は? 彼女はとても愛らしく、誰にでも好かれる子です。きっと白虎様も気に入るでしょう。そうでなければ青梅姉さまはいかがでしょうか。青梅姉さまは聡明で気高く、次期当主である白虎さまの良き相談役になってくれるでしょう」


「碧緒ちゃん。今、わしは碧緒ちゃんと話してるんや。他の女の話なんて聞きたない。わしは碧緒ちゃんがええんや」


 強い口調で言い放ち、白虎はぐっと顔を近付けた。


「わしと一緒になろ碧緒ちゃん。絶対後悔させへんから」


 無垢な瞳が刺さった。不自然に飾られた言葉ではなく、真っ直ぐで嘘偽りのない一つ一つの言葉が胸を締め付けてくる。こんなにも純粋な人を傷つけたくないという気持ちにさせられ、この人と一緒になればそれだけでもう幸せなのかもしれないとも思ってしまうのだった。


 しかし、碧緒は首を縦に振れなかった。


「わたくしは……」


「竜臣が嫁に来い言うてるらしいな? 碧緒ちゃんは竜臣のこと好きなん? 竜臣んとこなら嫁に行ってもえぇと思ってるんか?」


 白虎の素直さに中てられて素直に出かかった言葉がギリギリ喉に詰まった。


 碧緒はそれを丁寧に飲み下してから口を開いた。


「今のわたくしがあるのは竜臣様のおかげです。竜臣様が一度死んだわたくしを救ってくださり、存在意義を与えてくださったのです。ですから……死命がなければこの身、この命は竜臣様のために使いたいと思っています」


「悲しいなぁ」


 白虎は呟き、碧緒の腕を強い力で引いた。そうして前のめりになって驚いている碧緒を抱きとめたのだった。


 逞しい胸に埋められ、太い腕に抱きしめられた碧緒はドギマギした。


「辛かったやろ、碧緒ちゃん。我慢したんやな。頑張ったんやな。えらかったなぁ」


 優しく頭を撫でられ、喉の奥から何かが込み上げてきた。喉がひくつき、胸や目が熱くなってくる。


 碧緒は思わず唇を噛んだ。こんなことは親にだって姉妹にだってしてもらったことがなく、心が緩みそうになってしまった。


「なぁ、碧緒ちゃん。そんなん悲しすぎるやん。そんなん一生幸せになれへんやん。碧緒ちゃんだけやのうて、竜臣もや。命を助けた竜臣が必ず優位に立つやん。そんなん対等な夫婦ちゃう」


 白虎の低い声が、彼の分厚い胸から響いてくる。


「わしにしとき。今はわしのこと好きやないかもしれへんけど、わし、自信あんねん。碧緒ちゃんがわしのこと好きになる自信あるんやで」


 白虎は碧緒の肩に手を置いて、寄りかかっていた身体を起こしてくれた。


 碧緒は青い光をはらんだ潤んだ瞳で白虎を見上げた。


 欲しい言葉をくれる白虎に胸が熱くなる。ここでただこの逞しい腕に身を埋め、頷くだけで、全てのしがらみから解放されるのかもしれなかった。


 東方一門と西方一門の橋渡しとしての大義はあれ。東方一門出身ということで後ろ指を指されることもあるだろうが、足垂からは逃れられるだろう。


 けれどもやはり、碧緒は頷けなかった。


 竜臣なら何と言ってくれるだろうかと。どうしてくれるだろうかと思ってしまったからだ。


「……これは言わんつもりやったんやけどな」


 碧緒が黙っていると、ため息交じりに白虎は呟いて、真剣な顔をした。


「碧緒ちゃんとわしの結婚は、碧緒ちゃんが生まれた時から決まっとったんや」


「え」


 碧緒は思わず目を瞬いた。


 足垂 碧緒は儀式で死ぬために生まれてきたはずだった。万一【人身供物の儀】で生き永らえても、十二年後の【地鎮の儀】の延長で大義を果たさなければならないはずで、いずれにせよ死命がつきまとう。


 それが生まれる時から白虎との結婚が決まっていたとはどういうことなのか。碧緒は表情だけで問いかける。


 白虎は応えて碧緒の知らない真実を話してくれた。


「わしも親父から聞いた話やけどな」



 現足垂当主、足垂 竜樹は、悪しき風習を己の代で全て清算し、一新するつもりなのだと西方一門の当主、西方 虎之介に話したそうだ。


 当然、誰かの命を犠牲にする【人身供物の儀】もその対象だった。しかし古い考えに固執している足垂の元老たちは絶対に首を縦に振らず、勝手に決めて進めていく可能性もあったため、表面上は儀式をなぞることにした。


 まず用意せねばならなかったのは『誰にも知られていない姫』だった。しかし他から娘を連れてきて足垂の業を背負わせるにはいかない。そこで己の娘をその役目に据えようと考えたが、どうやってそのような姫を用意するかが問題だった。すると幸か不幸か、足垂の外で産まれ、母親が手放し、赤ん坊の頃から隔離された教育機関に預けられるという、完璧な経緯を辿る娘ができた。何事も無ければ隔離された教育機関で儀式の日まで過ごさせるつもりだったが、機関の仕組みが変えられてしまい、姫は外に出てくることになった。しかし寮のある高等学校に入れることで東方一門の目に触れることを回避し、『誰にも知られていない姫』を作り上げたのである。


 どうして『誰にも知られていない姫』でなければならなかったのかというと、逃がしたことを誰にも気づかれないためだった。


 次に竜樹が行ったのは姫の逃亡先の確保だった。この時白羽の矢が立ったのが西方白虎一門である。竜樹は西方白虎一門の土地に逃がしてもらうだけで良かったそうなのだが、西方家当主、西方 虎之介は意外な案を打診した。それが『儀式の犠牲になる娘と己が息子を結婚させる』ということだった。



「親父曰く、『竜樹んとこの娘ならべっぴんやろし品もええやろから娘にしたら鼻が高い』。綺麗なもん好きの肥えたジジイやからなぁ」


 白虎は心底うんざりした様子でそう付け足した。


 西方白虎一門の当主の申し出を断るわけにもいかず、竜樹は渋々了承したのだという。竜樹が断らなかった理由は他にあったかもしれないが、それは誰もが与り知らぬところであった。


 こうして碧緒は白虎の許嫁となった。許嫁の話は白虎も今年に入って知ったらしく、「あのジジイ絶対忘れとったんやで」とため息を吐いた。


 肝心の儀式や姫をどのように外へ逃がすかはさすがに教えてもらえなかったそうだ。ただ姫を一度谷に落として死んだことにして、後に助け出し東方青竜一門の外へ逃がすつもりだということだけ知らされていたらしい。一線を退いても足垂を受け継ぐ元老たちは鋭く、西方一門が近づけば気づかれる可能性があったため、表立って動けなかったらしい。


「助けられへんくてごめんなぁ。怖かったやろ?」


 白虎は情けない顔をして碧緒に謝った。


 その未練もあって、生き永らえた碧緒を近くで見守るため、伊沼に変装して入り込んで来たのだと白虎は言った。


「わしがお願いしたらすぐに伊沼の資料を寄越してくれたから、青梅ちゃんは読んどったんやろな。すごい女や」


 碧緒も無言で同意した。


 さすがは稀代の天才である。青梅は本家が介入してくることも予想していたのかもしれなかった。もしくは青梅が本家を煽ったのかもしれないと碧緒は思った。本家に仕えているうぐいすに寄れば、本家が足垂家の儀式を知ったのは匿名の手紙らしいのだ。碧緒はそれを知った時、一姫の仕業かもしれないと予想した。竜樹は一姫にはほとんど無頓着のため、手紙を本家に送るくらいなら気づかれなかったはずである。しかし、もしかしたら青梅の仕業だったのかもしれないと考えを改め直した。本家の宰相である青梅ならいっそう竜樹に気づかれないよう手紙を置いておけるだろう。また、そうであると考えれば足垂に配置されたあまりにも都合の良い人員たちにも説明がつく。儀式の日に合わせて本物の伊沼たちに別の任務を与えたり、足の速い式を持った者たちに別の任務を与えたりして遠ざけることも可能だ。


 何故そんなことをするのかも、青梅はすでに話している。


 碧緒を手に負えなくなってきた竜臣の枷にするためだ。


 何という人だと、碧緒は実の姉に畏敬の念を抱いた。竜樹を敵に回し、本家でさえ欺き、西方家まで巻き込んでこれだけの所業をやってのけられるのは青梅しかいないだろう。


「青梅ちゃんが頭ん中で本当は何を考えとるか分からへんけど。わしは簡単に掌で転がせるような男やないってことは示しとかなあかんかなとは思うなぁ」


 白虎の呟きを聞いて碧緒は考えた。今、自分は誰の掌の上に乗っているのだろうと。白虎との結婚を望む竜樹か。それとも竜臣との結婚を望む青梅か。はたまたどんな智も理も関係なしに物事を推し進める竜臣か、こうして碧緒に直接会いに来て掻き乱してくれた白虎か。


「まぁそういうわけで、竜臣が助けへんくても碧緒ちゃんの命は助かっとったってことなんや。竜臣が救った命なんてもんはない。碧緒ちゃんはそもそもあそこで死ぬはずやなかってんもん」


 碧緒は唇を引き結んだ。


 竜臣の元へ行く尤もな理由を無くなってしまったのである。根っからの足垂の人間である碧緒は大義を忘れて惚れた腫れたで物事を決められなかった。


 恐ろしいからだ。愛のために動いて裏切られることが。それはそのまま白虎の愛を信じられない理由にもなっている。しかし竜臣に助けてもらわなくても生きていたのなら、果たさなければならない竜樹からの指令があるのなら、従わなければならない。


 頭がこんがらがって、心が揺れに揺れて、碧緒は何も言えなくなった。白虎は目を大きくして困惑する碧緒の様子を見て困ったように笑った。


「それでも碧緒ちゃんが竜臣を選ぶんやったら、わしは……あれ、どないするんやろ」


 ふいに白虎は不思議そうな顔をして首を傾げた。碧緒も同じように首を傾げてみせる。


「わしには碧緒ちゃんが一番や。その一番が他を選ぶんやったら、わしはめちゃくちゃ悲しい。せやけどそれで碧緒ちゃんが幸せになるんやったら、わしは満足するんかもしれへん。いや、分からんな。そん時になってみんと分からん」


 悩んだ末にそう結論付けた白虎は、ははっと笑い声を上げた。


「わしも今更引き下がりたないしなぁ。竜臣に渡す気もあらへんから待つ気もない。碧緒ちゃん。明日の朝、迎えに来るからわしのこと待っとって」


 碧緒の両手を持ち上げ、白虎は指先に唇を落とした。


「ほんならな」


 白虎はにっこりと少年のように笑って立ち上がった。そうして名残惜しそうに手を振りながら碧緒の部屋を出ていった。


 碧緒は白虎を送ることも忘れて放心していた。


 下した決断が根底から崩されてしまった。


 竜臣が助けにこなくても死ぬ運命ではなかった。恩返しなど存在しないのだ。不必要と捨てられたわけではなかったのだ。


 父は娘を捨てていなかった。そればかりか何とか助けようとしてくれていた。


 改めて考えるとどんなことも霞むくらいそれが嬉しくて、全身から何かが込み上げてきた。碧緒は嗚咽を漏らしそうになって右手で口を覆ったが、まだ声が漏れてしまいそうで左手も右手の上に重ねた。それでも小さな声が出ているのが分かる。


 碧緒はとうとう腰を折って畳に伏し、声を押し殺して泣いた。


 もう、どうすれば良いのか分からない。

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