第27話 虎の門

 碧緒は竜樹の部屋の前で珍しく躊躇していた。


 雲雀を行かせてから一時間足らずで何者かが足垂家にやってきて、間もなく竜樹に呼び出されたのである。


 誰がやって来たのかは分からないが、何処からやって来たかは分かっていた。西方白虎一門の西方家だ。足垂の奉公人たちはいつも通り客人を迎えたが、本家の人間たちはそうはいかなかったようで騒いでいた。きっと今頃は早文も届かず電子機器も使えず、当主たちの元へ駆けられる足も無い状況に気づき、絶望していることだろう。


 せめて雲雀が戻って来るまで踏ん張らねば、と碧緒は気合を入れて扉を三回ノックした。


「碧緒です」


「入れ」


 竜樹のぶっきらぼうな声がした。


 緊張で喉が鳴らないように気をつけて飲み下し、扉を押し開けた。


 いつもは正面の書斎机の向こうにいる竜樹がソファに腰を下ろしていた。


 竜樹の向かい、こちらに背を向けて、誰かが座っている。髪が白く短くて、着物からちらつく肌は褐色。背だけで随分と体つきが良いと分かる大男だ。


「こちらへ来い」


 竜樹に呼ばれた碧緒は客人の後ろを回って竜樹の右隣に立った。


 目の前に座す男は二人掛けのソファのほとんどを占領するぐらい大きく、着物の上からでもよく分かる筋肉質な体躯をしていた。彫りが深く太い眉の精悍な顔つきなのに、甘く垂れた目や唇が微笑んでいるからか、人懐っこくも見える。


 碧緒はこの人物を知っていた。会ったことはない。紙面で、である。


「綺麗やなぁ」


 男は低い声で呟いて柔和に笑った。


「これが俺の三番目の娘だ」


「足垂 碧緒と申します」


 竜樹の紹介に続いて碧緒が頭を下げると、男は立ち上がった。


 二メートルはあるだろうか。立ち上がるとこれまた随分大きかった。碧緒は決して小さくも大きくもない標準的な身長だが、頭二つ分も違っている。


「わしは西方 白虎。よろしゅうな」


 大きな右手を出されたので碧緒も右手を出した。白虎は碧緒の手をきゅっと軽く握ってから指を滑らせ、碧緒の指先を掴んで上げた。そうして頭を下げ、前かがみになって手の甲に唇を落としたのだった。


 心臓がドクンと嫌な呻き声を上げた。されたことのない挨拶の所為もあるが、白虎の銀色の瞳がじいっと碧緒の目を見たままただの一度も逸れなかったことの方が理由として大きかった。兎を前にした獅子の目だ。


「ほんまに綺麗やなぁ。手ぇなんかちっさくて折れてまいそうや」


 碧緒は手を折ったことなど一度もないが、白虎なら簡単に自分の手を折ってしまうだろうと思った。とはいえ白虎が本当に手を折るかと言われると、全くそうは思えなかった。


「お褒めに預かり光栄です。白虎様の手は大きくて温かいですね」


 白虎の両手は碧緒の手を包み込むように優しく握っている。むやみに傷つけないよう配慮していることが分かった。ただ、ずっと手を繋がれたままは困るのでそれとなく逃れようと軽く引っ張ってみた。しかし包み込まれているだけのはずなのに不思議とビクともせず、碧緒は目を瞬いた。この感じは、どこかで。


「俺のことは知っとるん?」


 既視感が確実になる前に話しかけられ、碧緒は一旦考えるのをやめて白虎の問いに答えることにした。


「白虎様は西方白虎一門の御当主、西方 虎之介様の御長男と記憶しております」


「いかにも」


 白虎は満足そうに大きく頷いた。


 碧緒は青梅に倣い、各地の要人を全て記憶している。


 西方 白虎は現・西方家当・西方 虎之介の長男で、西方白虎一門の次期当主とまで言われている男である。陰陽師としての腕はさることながら、頭目としての風格も実力も兼ね備えた人物と聞く。


 そんな白虎が東方青竜一門の分家にすぎない足垂家に何の用があるというのか、というのが、碧緒が抱いている疑問だった。


 父・竜樹と白虎の父・虎之介には浅いとも深いとも言えない縁があることは知っている。儀式の前に竜樹が西方家に何がしかを依頼していたことも分かっている。しかし何を依頼したのかは分かっておらず、今日こうして西方家がやってきた理由も分からなかった。


 だから碧緒は直接聞くことにした。


「西方家から足垂家までは決して近くはない距離がありますでしょう。白虎様はどうしてはるばる足垂家へいらっしゃったのですか?」


「それはこれから話す。座れ」


 竜樹に座るよう促され、碧緒は大人しく竜樹の右側に座った。ここでようやく碧緒は白虎の手から逃れることができた。


 碧緒が座ったことを確認すると、竜樹は言った。


「縁談がまとまった。お前は西方 白虎のもとへ行け。今日は本人同士の顔合わせだ」


 息が止まるほど驚き、目を見開いて静止してしまった。


「わたくしが、白虎様とですか?」


 ようやく声を絞り出して問う。


 竜樹はただ一度、ゆっくりと頷いた。


 碧緒は白虎に視線を移した。


 この男と結婚、なんて。


 一体全体どうして自分なぞに白羽の矢が立ったのかと、碧緒が目をぱちくりさせて見つめている間も、白虎は相変わらず人懐っこい表情で笑っていた。しかし、あまりに碧緒が何も言わないので不安になったのか、表情がみるみるうちにしょぼんと萎れていった。


「碧緒ちゃんはわしでは不満なんか? わしは碧緒ちゃんのこと気に入ってんで。こないな綺麗な嫁はんもらえるんやさかい、不満なんかあらへんで。なぁ、碧緒ちゃんはわしでは不満なん?」


 眉まで下げて、すっかりしょぼくれた白虎が首を傾げる。この男には大がいくつついてもおかしくないのに可愛らしいと思わせる何かがあった。


「いえ、そういうわけではありません。しかし」


「良かった!」


 ぱっと笑顔を輝かせ、白虎は身を乗り出して碧緒の膝の上に置かれていた両手を取った。


「わしは一途や。浮気はしぃひんよ。毎日碧緒ちゃんが心から笑えるように努力する。そやさかいわしのとこにおいで。わしと幸せになろ。わしの一生全部捧げて碧緒ちゃんのこと幸せにしたる。わしと結婚して」


 真っ直ぐな言葉に碧緒は眩しくなって目を細めた。


 儀式のために自分を生ませた竜樹。竜臣の枷となるよう自分を育てた青梅。顔も知らぬ母、足垂から逃げた二番目の姉。竜臣は可哀想な自分に同情してくれただけ。皆、裏のある者ばかり。だからこそ碧緒は唯一純粋な気持ちで接してくれた妹、一姫のために尽力した。


 白虎は純粋に自分を好いているというのか。こんなにも何もない自分を? 何が良いというのだろう。何を求めているというのだろう。賢さなら一番目の姉が。美しさなら二番目の姉が。愛嬌なら妹が持っているというのに。


 碧緒は疑心暗鬼になっていた。いや、足垂の性というべきか。言葉の真意を探ってしまう。いくら真実だと言われても、真心であったとしても、見返りを求めない真っ直ぐな言葉ほど疑わしいものはない。まだ条件を出してもらった方が碧緒は安心できた。


「申し訳ございません。わたくしにはまだ死命が残っています。もし白虎様に添うことになったとしても、わたくしが貴方様の傍にいられるのは十二年。そうですよね、お父様」


 【地鎮の儀】の続きについて言及する。竜樹は無表情。口も開かなかった。


「その使命とやら、わしがどうにかしたる言うたら、碧緒ちゃんどないする?」


 え、と口の中で言葉が弾けて消えた。


「小さても大きゅうても何でも叶えたる言うたやろ?」


 白虎はパチンとウインクした。


 ドッと身体が熱くなり、ようやく碧緒は既視感が何だったのか理解した。


「白虎様、貴方、まさか」


「もういい。縁談はまとまったと言ったろう。お前は西方家に行くのだ。分かったら下がれ」


 碧緒の言葉を今度は竜樹が奪った。


「お父さま、ですがっ」


 竜樹の青い光をはらんだ瞳に睨まれ、言いたかった言葉を飲み込んだ。碧緒はこの目を向けられると従わざるを得なかった。


「かしこまりました」


 渋々立ち上がる。白虎もさすがに手を放してくれたが名残惜しかったのか、部屋を出るまでひらひらと手を振ってくれた。碧緒は白虎が手を振っていることに気づいていながらも知らないふりをして扉を閉めた。


 碧緒は小走りに廊下を進んで急いで自室に帰った。


 自室の扉を開けると、雪しろが立ち上がって出迎えてくれた。


「どうでしたか? 大丈夫ですか? お呼び出しの内容は?」


 碧緒は心配そうに声をかける雪しろの両手を取って言った。


「わたくしの部屋の前に居た方が! 伊沼が白虎様だったのよ!」


「え……えぇ!? 白虎様って、あの!? く、詳しく教えてください!」


 碧緒は座って竜樹の部屋でのやりとりを雪しろに話した。すると雪しろは目を輝かせて言うのだった。


「碧緒、モテキというやつですかぁ!?」


 雲雀がいたらがくっと膝を折っていたことだろう。


 確かに様々な思惑はあるにしろ東方青竜一門の当主からの求婚に続いて西方白虎一門の次期当主からの求婚である。それも白虎に至っては熱のこもったプロポーズ付き。乙女な雪しろが興奮するのも無理はない。しかしモテキなどと言って浮かれていられるものではなかった。


「お父さまはわたくしを東方青竜一門と西方白虎一門の橋渡しにするつもりなのかしら。竜臣様はきっと行き場を無くしたわたくしへの慈悲を含んだ別の思惑があるのでしょうけれど。東方家にとっても西方家にとっても足垂家はちょうど良いのかしら。家柄も悪くないし、わたくしはお飾りの妻として都合が良いのかもしれないわ」


「碧緒が魅力的なだけなんじゃないですか?」


 それぞれの背景から合理的な推測する碧緒に対し、雪しろは完全に乙女心に目が眩んでいるのか思慮に欠ける発言をする。碧緒は少々呆れて頬に手を当てた。


「雪しろったら。それはどうかと思うわよ。何か意図があるに違いないもの」


「意図なんて、絶対碧緒のことが好きってだけですよ! ねぇねぇ、プロポーズを聞いて碧緒はどう思ったんですか? 詳しく教えてくださいよ!」


 身を乗り出し、顔を近付けてくる雪しろ。碧緒はいつになく前のめりな雪しろに気圧された。


「どうって。……まぁ、そうね。嬉しいものではあったけれど」


 雪しろは口元を両手で隠した。口には出していないが、今にも「キャー」とキラキラした声で叫びそうである。


「一生を捧げて幸せにしてあげる、なんて素敵です。碧緒、今までしてもらったことなんてほとんどないじゃないですか。碧緒はいつも一人で頑張っていたから。そんなことを言われたらぐらっときちゃいますよね。ぐらっときましたか?」


「どうかしら。竜臣様も似たような言葉をくださるから」


「もー!! 二人のハイスペック男から言い寄られるなんて贅沢です!」


 大きな声を出すものだから、唇に人差し指を当てて静かにするよう諫めた。けれども雪しろには見えていないらしく、目の輝きが収まらない。恋愛関係に興味のない雲雀なぞが見ていたら呆れてため息を吐いていたところである。


「冷酷非道な若き当主【竜の子】竜臣様が唯一求めた女性。それを横から攫いに来た他門の純粋で気の良い次期当主、白虎様。許されざるお相手の竜臣様に、親公認の白虎様。私の理想の物語です。なんて、なんて素敵なんでしょう」


「もう。面白がっているでしょう」


「当たり前ですよ! この状況を楽しまないでどうするんですか! それで碧緒。プロポーズは受けるんですか?」


 きっと、白虎の熱烈なプロポーズを聞いてすべき反応は雪しろのような反応なのだ。


 碧緒も楽しめれば良いのだが、生憎碧緒は雪しろのようにこういった状況を楽しめる性格ではなかった。裏を読み、どちらがどれだけ何に対して益になるのか考えてしまうのである。


 全てを計算した結果、碧緒は首を振った。


「受けられないわ。わたくしには死命があるもの。そうでないにしても……竜臣様がいらっしゃるわ」


「次の儀式は十二年後でしょう? 時間はまだあるじゃないですか! それにきっと白虎様ならどうにかしてくださいますよ! 碧緒は命を助けてもらった恩があるから、どちらかというと竜臣様のお嫁さんになると言っているのでしょう? 少しでも恩を返せればと思ってのことで、そこに心はないのですよね?」


 こくりと頷く。本当は恋焦がれていることは、名誉にかけて秘密にしなければならない。


「白虎様は碧緒のことを心から愛してくださっていて、竜臣様は愛してくださらなくても、竜臣様に恩を返すことを選ぶんですか?」


「そうね。それでもわたくしは竜臣様を選ぶわ。だって、今のわたくしがあるのは竜臣様のおかげだもの。竜臣様がわたくしの命を助けてくださった。その事実がある限り、わたくしの答えは変わらないわ」


「そうですよね。碧緒はそういう人ですから」


 雪しろは一旦こくりと穏やかに頷いたが、すぐにニコニコ笑って口元に手を持ってきた。


「碧緒、やっぱりドラマや漫画の主人公みたいです」


「もう、雪しろったら」


 とうとう碧緒は呆れてため息を吐いた。


「でもね、碧緒。やっぱり愛は必要だと思いますよ。それも与えられる愛が。私は、碧緒には碧緒を心から愛してくれる人と一緒になってほしいです」


 願うように言った雪しろに、碧緒は胸が締め付けられるのを感じた。

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