第23話 足垂の儀式
平安時代から始まった【人身供物の儀】の記録はただの一度も欠けていなかった。もちろん【地鎮の儀】についてもだ。蔵も書庫も物置もどこもかしこも隅々まで探したが、儀式についての書物は他に無かった。となると【人身供物の儀】に関係することは、この一冊、くすべにも見せたことのある記録帳に全て記されているということになる。
この記録はどの頁にどんな内容が書かれているか覚えているくらい何度も読み返していた。特段気になる内容は無い。しかし気になる点はあった。
紙の質である。経年劣化で痛んでくると書き写しているのか、ごく最近書き写したらしく、近代の紙が使われているのである。形も新しく作り直してしまっても良いのに、一枚の紙を半分に折る昔ながらの袋綴を守っているあたりが実に足垂らしいのだが。
(経年劣化に耐えられるよう呪を施してあるはずなのに、おかしいわね)
貴重な書物には呪で結界を張り、劣化や傷、汚れなどから守るものである。もちろんこの記録にも結界を施してあるはずで、表紙の上下に書かれた蚯蚓のような文字はそのための呪であるはずだった。
「ねぇ馬葉。馬葉には劣化しないように結界が張ってあるわよね。それって経過とともに弱くなったり外れたりするものなのかしら?」
「いいや。儂の結界が緩んだことは一度たりとてないぞ」
鎌倉時代に描かれた馬葉の結界が緩んでいないのならば、この記録の結界も簡単に緩まないはずである。
(もしかして、この呪は劣化から守るものではないのかしら)
指先で表紙の呪をなぞる。呪は一枚の紙に対して一つしか付与できない。もしこれが別の呪であると仮定すれば、劣化防止の呪はかけられていないことになり、わざわざ書き直さなければならない理由にもなる。
考えた末、碧緒は手っ取り早く呪を解いてみることにした。
碧緒は文机から取り出した半紙に筆でさらさらと解呪の印を書いていった。
そうして出来上がった印の上に記録を乗せ、手をかざした。
解呪の印から旋風が起こり、碧緒の髪を靡かせる。
表紙の上下にしたためられていた文字が剥がれて宙に舞い、やがて風と共に消えた。
「天晴!」
馬葉が扇を開いて称賛する。乗っている馬も嬉しそうにヒヒンと嘶いて、掛け軸の中を二周もした。
「ありがとう」
微笑んで礼を返し、碧緒は記録を手に取った。
蚯蚓のような文字の無くなった表紙と裏表紙を確認し、中身をぱらぱらとめくってみるが、変化は無いように見えた。
碧緒は左手を顎に当てて考えた。そしてふと思い立って本を解体してみることにした。
紐を小刀で切り、順番を崩さないように二つ折りにされていた紙を一枚一枚広げて重ねていく。こういうところが几帳面な足垂の血を受け継いでいるな、と碧緒は自分でも思うのだった。
(あ!)
そうしてついに碧緒は気づいた。
通常は折り返してあって読むことの出来ない裏面に、先程までは無かった文字が浮かび上がっている紙があることに。
碧緒は文字の浮かび上がっている紙を裏返し、前のめりになって文字を追った。
(これは……【地鎮の儀】の続きだわ!)
思わず目を瞠った。
【人身供物の儀】が正しく遂行されなかった場合に行われる【地鎮の儀】。誰でも読める部分には六日後に行う儀式のことしか書かれていなかったのでそれだけで終わるのかと思っていたが、儀式には続きがあったのである。
記録を読み終え、【地鎮の儀】の全てを知った碧緒は、青い顔をして震える手で口元を覆った。
「そんな……」
唇から思わずか細い声が漏れてしまう。身体が震えた。震えを抑えようと身体を抱いても止まらない。
碧緒は居ても立っても居られなくなって立ち上がった。肩にかけていた羽織を直し、部屋を出て、秘密の扉から外へ出る。
冷気が身体を刺した。碧緒はぶるりと一震いして、月の銀色の光と部屋の橙色の灯りに照らされた庭を足早に通り過ぎた。
向かっているのは竹林の中にある池である。ほとんど走るようにして竹林を抜け、ようやく碧緒は池にやってきた。
池の脇には人が立っていた。
灰青色のスーツに身を包んだ縦長の人型。青みを帯びた長い髪は丁寧に編み込まれていて、こんなに寒いのに白い吐息一つ上がっていない。
碧緒はおそらく気づかれているだろうと思いながらも、音を立てないよう注意してゆっくり近付いた。
時間をかけて顔の見えるところまで来て、碧緒は思わず呟いた。
「……きれい」
切れ長の赤い瞳。薄い唇は艶めいていて、陶器のような滑らかな肌が月光に白く浮かび上がって見える。至極美しい顔をしているが、刺すような怖ろしさがあった。
ろくに挨拶も出来ず、碧緒はただただ竜臣を見つめ続けた。
同じくじっと碧緒を見つめていた静かな赤い目が空を見上げ、再び 戻ってきてぽつりと呟いた。
「綺麗だ」
低く呟かれてどっと碧緒の心臓が嫌な動き方をした。
あの日のことが思い起こされる。あの日感じた淡い気持ちがはっきりとした輪郭を持って胸に灯る。
「今宵は満月にございますから」
きっとまた月のことを言っているのだろうと解釈して返した。竜臣は何も言わずに見つめてくるだけだ。冷気で熱が逃げていくはずなのに、身体が熱くて仕方がない。
沈黙に耐えられなくなって、碧緒は口を開いた。
「ここは山の中腹ですから、月も大きく見えますでしょう?」
「そうだな」
竜臣の視線は相変わらずこちらに向いたままである。
黙ると竜臣に煩い心臓の音を聞かれてしまうかもしれないので、碧緒は素早く次の言葉を探した。
「水面に映る月も美しいですよ」
「そうだな」
「わたくしは水面に映る月がいっとう好きなのですよ」
「そうだろうとも」
竜臣は何の気なしに言ったのだろう。けれど、分かっている、と言われるよりも素直に受け入れられる返答だった。いいや、自分のことをまるごと受け入れてもらっている気になった。
だから聞いてもらいたくなった。他の誰でもない竜臣に、最初に。
「……【地鎮の儀】には続きがありました。【人身供物の儀】の六日後に行われる儀式の他に、十二年後に行われる儀式が……」
碧緒は記録に残されていた【地鎮の儀】について語った。
【地鎮の儀】には大きく分けて二種類の過程がある。
一つは【人身供物の儀】の六日後に行われるもの。儀式の場で祝詞を唱えながら大幣を振るい、生贄が着ていた着物を谷川に捧げる儀式だ。
もう一つは【人身供物の儀】から数えて十二年後に行われるもの。【人身供物の儀】にて生贄を投げ入れる場所に社を建て、社内で巫女が穢れを祓い清める儀式だ。巫女が入った後、社には外から鍵をかけ、鍵を開けるのは再び十二年後とされている。巫女は十二年の間、地鎮のために務めるのである。
十二年後の儀式について、務めに選ばれた巫女の生存は記録されていなかったが、十二年も閉じ込められて穢れを祓い続けるのだから最後は死しかない。
語り終わった碧緒は頭を下げ、地面を見つめた。
碧緒には竜樹が再び儀式の巫女に自分を選ぶという確信があった。だから竜樹は竜臣と碧緒の結婚に反対し、碧緒を足垂の外に出そうとしないのだ。
「君が望めば、いつでも攫ってやる」
突然降って湧いたような都合の良い言葉に碧緒は耳を疑った。
「攫ってやろうか」
ぐっと竜臣が距離を詰めた。首を縦に振るだけで、竜臣は本当に攫ってくれるのだろう。
何もかもを捨てて竜臣と共に足垂を離れられたらどれだけ良いか。
しかし務めを拒否することは出来ない。碧緒は【人身供物の儀】の時と同じように、竜樹に面と向かって役目を言い渡されれば頷くつもりだった。足垂の教えにどっぷりつかった碧緒は自分ではこの大義を撥ね退けられなかった。だから碧緒は今の今まで足垂家から出られないのだ。
口に出そうとすると別の言葉が出て来てしまいそうだったので、首を横に振るのが精いっぱいだった。
そうしてなんとか虚勢を張ったはずなのに、身体が震え、手が震え、唇が震えてしょうがなかった。
「寒いのか」
竜臣の手が碧緒の手を握った。
碧緒はどきりとして声を上げようとしたが、「御当主様」と竜臣を呼ぶ男の声がしたので言葉を飲み込んだ。
聞き覚えのある声のした方へ顔を傾けると、思った通り、伊沼が立っていた。持ち場は碧緒の部屋の前ではなかったのだろうか。
「青梅様がお呼びです」
「何用だ」
あからさまに苛立った声で竜臣は応答した。竜臣が誰もが慄く赤い瞳を向けても伊沼は平気な顔で首を振った。
「分かりません。ただ竜臣様をお呼びせよと仰せつかって参りました」
「其方が来いと伝えろ」
「重要事項のため、お部屋で話したいと」
「俺が構わないと言っている。連れてこい」
伊沼は黙って竜臣を見つめていたが、諦めたように「御意」と頭を下げて闇に消えた。
(この間出来なかったお話でもするのかしら)
伊沼と話している最中も離されなかった手をぼんやり見つめて考えていると、下から覗き込まれた。
目を合わせて会話をしようとしているのだ。
碧緒が顔を上げると、竜臣は背を伸ばした。竜に化身していた時となんだか動きが同じ気がしてくすりと笑ったら、竜臣は不思議そうな顔をした。けれど何を言うでもなく、竜臣はじっと碧緒を見つめ続けた。
数秒待っても視線が動くことも無ければ口を開くこともなく。今度は碧緒が小首を傾げると、竜臣は傾いた碧緒の頭を支えるように手を差し込んできたのだった。
竜の時と同じだと思って気が緩んだからだろうか。碧緒は自分でも気づかないうちに、添えられた竜臣の手に擦り寄っていた。
「……明日は【地鎮の儀】。君は決して部屋から出るな」
静かな声が落ちて来たと思っていると、いつの間にか竜臣は消えていたのだった。
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