第22話 こいこい

 淡い光の粒が周囲を舞っている。


「お父様! お母様!」


 小さな足で眼前に佇む二つの陰へ向かって駆けていくと、小さな方の陰が身体を掬い上げて抱きしめてくれた。


「可愛い碧緒。私の子」


 頬を擦る、柔らかい香り。


「愛嬌があるのはおまえに似たのだろうな」


 頬をつつく、優しいぬくもり。


「そうでしょうね。あなたには愛嬌なんてものはありませんもの」


 二人で笑い合う、幸せな風。


 碧緒はどうしてそう思うのか分からなかったけれど、とにかく楽しくて。父と母が仲良く自分を挟んで会話をしている姿をにこにこ見つめていた。


 ずぅっとずぅっと、父と母と共にこのまま幸せでいたい。


「あら、青梅に蒼春! 桜に一姫も!」


「全員そろったか」


 母が大きく手を振って、前方の光の中にいる四人を呼び寄せる。


 これで家族全員だ。碧緒はみんなでいられることが嬉しくてきゃっきゃと声を上げて笑った。


 幸せだった。ずぅっとずぅっとこのまま、家族七人で……。


 そう思ったところで、ハッと気がつく。


 家族が七人そろったことなんて一度もない。そればかりかこれから先も一生ない。一姫の母である桜は他界していて、碧緒の母である菊乃は消息を絶っている。二番目の蒼春でさえ消息不明で……。


 これは都合の良い夢だ。そう気づいた瞬間、碧緒は覚醒した。


「おや。目を覚まされるとは。これも竜の守りのせいでしょうか」


「!?」


 目の前に妖物が立っていた。


 袿を重ねてその上から表着に唐衣を着ており、腰が曲がっているのか何なのか、前かがみになっているので袖が床に擦っている。頭は黒々とした大きな殻皮にぐるりと垂れ下がるつまみ細工を一周させた田螺で、殻皮から二本の触覚が伸びていた。


 辺りを見回してみると、真っ暗な廊下だった。碧緒は一人、見知らぬ妖物と共に佇んでいるのである。


 床についたはずだったのに、いつの間にか……いや。田螺の妖物に操られて歩いて来てしまったようだ。


「お美しい花嫁様。川の主が首を長くしてお待ちにございまするぞ。ささ、我らと共に行きましょう」


 不気味に揺れる声質。


 碧緒は応えず、その場から動かなかった。以前、竜臣に安易に応じるなと忠告してもらったからだ。


 田螺は動かない碧緒の目先まで這い寄ると袖を伸ばして来た。するとバチンッと電気のような衝撃が走り、田螺の身体が弾かれた。田螺は冷静に己の身体を確認し、ふぅむと唸った。


「竜というものは誠に嫉妬深いものでありますなぁ。しかして我らが引き下がる理由にはなりませぬ。花嫁様。さぁ、我らと共に参りましょう」


 田螺は再び袖を伸ばしてきたが、触ろうとはしなかった。


 竜臣が施してくれた竜の守りのおかげで無理矢理連れていかれることはなさそうだ。それに碧緒は覚醒している。おそらくこの妖物は夜な夜な夢枕に立って耳から言霊を吐いて洗脳する怪貝だ。眠っていなければ言葉を交わしたとしても洗脳されることはない。


 碧緒は応えて首を振った。


「出来ません。私にはまだ大義が残っています。儀式までお待ちいただけないでしょうか」


「川の主は待ちきれぬ様子。早く花嫁様を娶りたいと、我らを遣わしたのでございます」


「貴方の他にも遣いがいるの?」


「えぇ、たくさん。下で見たでしょう?」


「たくさんの田螺がいるのは見たわ。けれど貴方のように大きな妖物は初めてよ」


「我は穢れた気を持つ女子から気を吸い取った身。他の者共とは少々勝手が違っております故」


 「穢れた気を持つ女子」というのは一姫だろうか。妖物を強化できる女の子といえば、一姫しかいない。


「そうだったの。それでは、みんなに伝えて、彼の主様にも伝えてくれるかしら? 大義は必ず果たしますのでどうかお待ちくださいませと」


 碧緒は丁寧に頭を下げた。すると田螺は「ふぅむ」と唸った後、こくりと大きな頭を動かした。


「嘘偽りのない誠意。その清らかな心に免じ、川の主にはそう伝えましょう」


「ありがとうございます」


 もう一度頭を下げる。


 ふと緊張の糸が緩み、空気が和らいだ。


 田螺はこれで引き下がってくれるかと思われた。しかし、田螺は「して」と話を展開させたのだった。


「其方。今すぐ我の花嫁になりませぬか」


 碧緒は一瞬何を言われたのか理解できず、目を何度も瞬いた。我の花嫁、ということは、田螺の花嫁ということである。


「どうしてそんなことを言うの?」


 首を傾げて問うと田螺は正直に答えた。


「其方が清き体に清き心と清き気を持った類い稀な巫女故にございます。日々心身を禊ぎ、食う物にもこだわっていなければこうはなりますまい。まるで我らのために誂えられたかのようでございまする」


 どくんと碧緒の心臓が呻いた。


 碧緒は物心つく前から毎日欠かさず夜明けに禊を行い、神殿で瞑想して気を整える訓練をしていた。さらに食事は祓い清められた食材を使った精進料理しか食べたことがなく、飲み水でさえ祓い清められた水でなければならなかった。


 それが全て儀式のためだったとは。碧緒は身体ごと妖物の花嫁として捧げるために造り替えられていたのである。


 本当に、足垂 竜樹という者はぬかりない。


「それだけではありませぬぞ。我々とこうして臆することなく言葉を交わせるだけでも貴重故、手元に置いておきたいと思うものにございます。其方に守りを授けた竜も然り。彼の川の主が焦れているのも、其方のことをめっぽう気に入っているからでございましょう」


「貴方はこの貴重な身体をどうするつもりなの? 川の主の命を無視し、強引にでも妻として迎えるつもりかしら?」


 問いに田螺は「いえ」と否定で返した。


「我々貝は争い事を好みませぬ。其方が是と言わねば娶ることもいたしませぬ。殻に籠り、時を待つのが我らでございます。さて。花嫁様。今宵はこれまで。時が満ちた時、再びお迎えに上がります」


 そう言って田螺は瞬く間に消えた。


 一人、残された碧緒は、すぐに戻らずその場に立ち尽くして考えた。


 田螺の怪貝は終始、碧緒のことを花嫁と呼んだ。生贄の娘だから花嫁という呼称はおかしくないが、儀式が失敗したにも関わらず求めているのは何故なのか。


 この地の穢れを祓ってくれている蛟が、未だ清められていない身の内に宿った穢れを祓うために執拗に花嫁を欲しているというのは想像できる。全うであるとも言える。しかしそうなると花嫁の身体を捧げられない【地鎮の儀】で納得できるものなのか。


 当初の疑問が膨れ上がってくる。


 失敗した生贄を捧げる儀式の代わりに行う儀式が、ただ、召し物を捧げるだけだなんて。六十年も耐えてきた主がそれだけで満足できるなんて。それだけで六十年分の土地の穢れが祓われるなんて。


 有り得るのだろうか。

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