第20話 一番愛しい人

ガチャンッ

「うっ」


 碧緒がぶつかり、鏡台の鏡が割れた。碧緒は痛む身体を押さえながら一姫の方へ視線を向けた。


 一姫は風……いや、渦のようにとぐろを巻いた蛇の中にいた。風が形を成し、蛇となってこちらに鎌首をもたげているのだ。


「碧緒っ!」


 雲雀が蛇と碧緒の間に立った。


「大丈夫か?」


 雲雀の焦燥に駆られた声が碧緒に問いかける。碧緒は覇気のない声で「大丈夫よ」と答えた。


「一姫は式なんて持ってないだろう。なんでこんな等級の高い式を……」


「お父様の式よ」


 雲雀の手を掴み、碧緒は身体を起こした。


「形のない風の精霊のようなものだったのだけれど、一姫の力で形を得たみたいだわ。お父様との契約が切れているみたい……」


 雲雀の背から顔を出して一姫を包み込む風の蛇を見る。


 絶えず渦を作っている蛇の身体が畳を削っていく。本棚や鏡台がガタガタと揺れ、本が宙を舞う。屋敷がギシギシと軋み、天井が抜けて家具や小物が外へ飛んでいった。


 一姫の力は結界を解くなどの呪の無効化や、妖物の強化が可能だ。制御できていればかなり有用性の高い力だが、一姫は身の内に宿る霊力が大きすぎて制御ができていないのだった。今回はその力が悪い方に働いてしまったようだ。竜樹と妖物の契約を破棄させ、妖物に力を与えて暴走させるなんて。


「滅茶苦茶だ……」


 雲雀が思わず漏らした声に碧緒も無言で同意する。


 呪を無効化し、妖物を凶暴化させるなんていう無茶苦茶な力を持っている人間は一姫ただ一人。世の均衡を崩すこの力があれば陰陽家の一家を潰すことくらい容易く、裏から日本を陥れることもできる。


 足垂――竜樹は今まで一姫を抑圧することで御してきた。一姫自身も己の力のことを憂い、大人しく竜樹に従ってきたため、これまでほとんど大事なく生活できていた。しかし一姫が竜樹への信頼を失ったことで、竜樹の守りも切れてしまったのだ。


「ちくしょう。一姫が中にいるから迂闊に手を出せない」


 右手で自分に向かって飛んでくる物を払いのけ、苦虫を噛む雲雀。


 風の蛇の中には一姫がいて、顔を両手で覆っている。


「一姫!」


 碧緒が一姫に向かって呼びかけたが、一姫は顔を覆ったままピクリともしなかった。


「だめだわ……。一姫にはこちらの音が聞こえていないのよ。目も覆っているから見ることもできない。そんなにも現実から目を背けたいのね……ごめんね、一姫」


 碧緒は今にも泣きだしそうな顔で謝った。


 すると、聞こえたのだろうか。一姫が顔を上げた。


 碧緒は好機とばかりに一姫の名を呼んだ。もちろん雲雀も一緒になって何度も一姫を呼んだ。しかし一姫の表情は虚で、焦点の定まっていない目が何かを探すように右や左を向くばかり。


 そうこうしているうちに、こちらの方に限界が来た。


「きゃっ!」


 碧緒の身体が風にさらわれて浮き上がった。蛇の形を取った風の霊が尾で碧緒を絡めとったのだ。


「碧緒!」


 雲雀が手を伸ばしてくれたけれど間に合わなかった。


「うぅ……」


 手を動かすことはおろか身を捩ることすら難しい。ただ、拘束されて自由に動けなくなっただけで苦しくないのは助かるのだが……と思ってたけれど。どんどん身体が上昇していることに気づいて碧緒は焦った。


(ここを離れるつもりなの!?)


 さすがにそれはまずい。まだ【地鎮の儀】も終わっていないのに。


「一姫! やめて! 一姫!」


 必死に呼びかけるけれど、一姫は答えない。


 その間にも碧緒を絡め取った蛇は上昇を続け、ついに天井の穴から外へ出た瞬間。


ドッ


「きゃぁぁぁっ!」


 何かがぶつかってきて風で形成された蛇が消え、碧緒は宙に放り出された。そのまま降下するかと思いきや、別のものに身体を支えられており、身体は落ちていかなかった。


 青い光を反射する鱗。ひんやりとしていて硬いのに、生き物の柔らかさも温かさも感じる。


 顔を上げると赤い瞳がこちらを覗き込んでいた。


「竜臣様……」


「妹と共に俺から逃げる気か?」


「滅相もございません! わたくしが竜臣様から逃げるなんてあり得ません!」


 慌てて否定すると、竜臣は「そうか」と安心したようなどこか満足そうな声を出した。


 それから竜臣は器用に碧緒を背に乗せてくれた。揺れる青い鬣がススキの穂で撫でられているように心地良い。


「このまま攫っても?」


 言葉が出ず、首を振る。すると竜臣は宙をうねりながら移動し、庭に降り立った。


 途端に辺りを足垂家の妖滅部隊が囲んだ。碧緒が竜の姿の竜臣の背に乗っているからか、襲ってはこない。竜臣もけん制するだけで何かをしようとはしなかった。


 そこへ。


「牢に入れておけ」


 竜樹の声が聞こえてきて、碧緒はハッとした。


 窓から自分の部屋の様子が見える。


 今まさに一姫は黒服の男たちに拘束され、運ばれていくところだった。一姫は気を失っているらしく、だらりと脱力して首を垂れていた。


「お父様っ!」


 碧緒は竜臣の背から飛び降りて裸足で庭を駆け、窓の外から竜樹に懇願した。


「やめてください! お願いです! 一姫を連れていかないで……!」


 しかし竜樹は返事をせず、厳しい瞳に碧緒の背後を映して言うのだった。


「分かったか竜臣。それの一番はお前じゃない」

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