第17話 三番目が必要な理由
碧緒が食事を終えた膳を持って部屋を出た雪しろは寒さで身震いした。碧緒の部屋があるのは屋敷の中心部から離れた廊下の突きあたりで、さらに悪いことに両隣が物置だからか、部屋の周辺は室内とは思えないくらい冷えているのである。
雪しろはいつも思う。真正の箱入り娘がどうしてこんなところに、と。
足垂家は分家の中でも由緒正しい名家だ。発足時は東方家だけだった東方青竜一門は、ある年、【八竜の乱】という相続争いの果てに東方家、網家、角家、添星家、足垂家、中子家、みぼし家に分かれた。この時本家から分かれた六つの家は現在百を越える分家の中でも格の違う存在だった。その一つである足垂家の娘であるのだから、碧緒は正真正銘箱入り娘のはずだった。しかし宛がわれている部屋は屋敷の隅の暗く冷たい小さな部屋である。蝶よ花よと育てられたはずなのに、かつては物置だったという部屋を宛がわれているのは甚だ疑問であった。事情があるにしても他の娘たちと待遇が違いすぎやしないか。
雪しろはそう竜樹への不満を募らせながら、厨に入った。
厨では奉公人が数人集まって話をしていた。
「碧緒姫様はお可哀想な方よ」
白い近又甚平を着て腰にエプロンを巻いた初老の男が丸椅子に座っている。調理台を挟んだ反対側には向かい合う形で二人の女中が座っていた。歳は男と同じく、五十代くらいだろう。
「儀式の娘に選ばれたことだけでもお辛いのにねぇ」
「あんな儀式があるなんて知らなかったわ。生贄だなんて。足垂の奉公人の入れ替わりが激しいのは、そういう人に情を移さないようにするためなのかしら」
「そうかもしれないねぇ」
女中たちはため息交じりに話している。
雪しろは内容が気になったので気配を殺して話を聞くことにした。
「しかも碧緒姫様の災難はそれだけじゃない。お命が助かったと思ったら今度はあの御当主様から言い入れだぞ? 冷酷無慈悲な【竜の子】に、お優しい碧緒姫様が嫁ぐなんて考えたくもない」
「竜樹様もそう思っていらっしゃるのかしら」
「どうだろうねぇ。冷酷無慈悲と言えば竜樹様も引けをとらないよ。少しでも益が有ると思ったら我が子の命も捧げられる方じゃないか。本当に親かねぇ」
「親と言えば、碧緒様の母君はどうしていらっしゃるのかしら。碧緒様が産まれる前にお家を離れたということは知っているけれど」
「さぁね。知らないよあの女のことなんか」
黒髪を首の後ろで一つにまとめている女中は吐き捨てるように言った。
「あの女は身ごもった身体で出ていった。竜樹様と青梅様や蒼春様を捨てて出ていったんだ。碧緒姫様なぞ、外で産んで、まだ乳飲み子にも関わらず送り返されて来たんだよ? 非情なことをする女だ。あんな女は母親ではない」
言葉の棘を隠そうともせず、女中は苦虫を噛み潰したような顔で碧緒の母親を罵った。料理番の男も苦い顔だ。
「菊乃様は聡明でお優しい方だったがな。それだけは気に食わんな」
「碧緒様の母君の菊乃様はどうしてそんな酷いことをされたのかしら」
対して、白髪交じりの女中は不思議そうだった。碧緒の母・菊乃のことを知らないので、良し悪しが分からないからだろう。
「私は菊乃様が出ていってから足垂家にお世話になっているので分からないけれど、お優しい方だったのよね?」
「あぁ。優しいだけじゃない、頭の良い方だったよ。それに綺麗な方だった。二番目の蒼春様は菊乃様に似ているよ」
「蒼春様は絶世の美女。誰にも似てないよ。それに綺麗とかは関係ないだろう」
苛々した様子で付け加え、男を睨む黒髪の女中。男はまずいという顔をして頭を掻いた。
「おう、まぁ、そうだな。うん。分からん。理由は菊乃様に聞くしかないだろう」
「聞く必要もないよ。戻って来ようと思ったらもう竜樹様が桜様を娶っていたから腹いせにでもしようと思ったに違いない。あの女と一姫様の母親の桜様は親友だったというし、心を許していた友に男を盗られたのが気に食わなかったんだろう。どうせそういうろくでもない理由さ。あんな女に育てられなくて碧緒姫様も良かったかもしれないよ。青梅姫様が母親代わりになって育てたからこそ、あんなに優しい方に育ったんだろう」
「それは……」
「貴方たち、お役目はどうしたのです」
突然背後から聞こえた叱咤の声に雪しろは思わず身体を震わせた。
心臓をバクバクさせながら振り返ると、厳めしい顔をした媼が立っていた。七十代に差し掛かるかというくらいの老女だが、姿勢が良く矍鑠としている。
「と、豊様!」
媼の姿にきづいた男が素早く立ち上がった。二人の女中も慌てて立ち上がり、姿勢を伸ばした。
「申し訳ありません、豊様」
「申し訳ありません。ただいまお役目に戻ります」
二人の女中は頭を下げ、その場から逃げるようにして仕事に戻っていった。
雪しろは自分も叱られるかもしれないと思って身体を縮こまらせていた。しかし豊という媼は雪しろを一瞥しただけで去って行ったのでほっと息を吐いた。
豊は足垂家の使用人をまとめている女中頭である。現足垂家当主・足垂 竜樹が子どもの頃から足垂家に仕えているという、筋金入りの足垂家奉公人であった。さすがに貫禄のある媼だ。
厨で手早く用事を済ませ、雪しろは裏庭に移動した。裏庭に潜んでいる雲雀に会うためだ。
姿の見えない雲雀を探して庭を縦断する。足垂家の庭には季節が変わっても楽しめるよう様々な木や花が植えられており、大きな庭石や灯篭もある。雲雀は身体を隠せるもののどこかに身を潜めているはずだった。
「どうした?」
案の定、背丈よりも大きな庭石の近くに来た時、雲雀の声がした。
雪しろは雲雀の声を聞いて安心し、ふぅと息を吐いて庭石に背をつけた。
「どうしましょう。私、碧緒の過去を知ってしまいました」
「過去?」
「碧緒、お母様に捨てられているそうです。碧緒のお母様である菊乃様は身ごもっているお身体で竜樹様とお別れになった。けれども碧緒だけ送り返して来たそうなのです」
「それで碧緒は母親のことを知らないのか」
雲雀と雪しろは幼い頃のことを思い出していた。
そのころてい宿ではお互いの両親についてどんな人物なのか話すのが流行っていた。きっかけは新しい女の子が母親に手を取られててい宿にやってきたことだったように思う。その光景を見た子どもたちは自分たちの両親のことを思い出し、自慢話をし始めたのである。当然、雲雀は碧緒にも親のことを聞いた。しかし、碧緒は雲雀の質問に全く答えられなかった。親の顔を知らないからと、自分が父親似なのか母親似なのかさえ答えられなかったのである。その時は子どもながらに聞いてはいけなかったのかもしれないと罪悪感を覚え、それ以上聞けず、以降も碧緒に親についての話題を振ることはなかった。しかしこうして知ることになって、二人はまさかそんな生い立ちだったとは、と碧緒を不憫に思うのだった。
「こんなことを私が言っていいのか分かりませんが、可哀想です」
雲雀は相槌を打つことが出来ず黙った。雪しろもそれ以外の言葉が見つからなかったのか、口を閉じてしまう。
しばらくして雲雀はふと頭の中に浮かんだ疑問を口にした。
「しかし、菊乃様は何故足垂家を出たんだろうな。それも身重の状態で。そんな状態で別れようと思うもんなのか?」
「それだけのことがあったということでしょう」
「それだけのことって何だ。竜樹様はああいうお方だから、愛想が尽きたとかいう話でもないだろう。愛想なんか初めからない。そもそも愛し合って一緒になったわけでもないんじゃないか」
竜樹という男は全く愛想のない男である。女のために何かをするという甲斐性もあるように見えない。となれば政略結婚か、と雲雀は思った。
「それもそうですね。愛や情、そういうもので一緒になったとは考えにくいです。互いの利益のための政略結婚でしょう」
「政略結婚ならお互い得があって一緒になったはずだ。本来なら不満も何もないはずだけどな。菊乃様や竜樹様に他に好いた相手がいたわけでもなさそうだろう」
「あの慎重な竜樹様が後に関係が破たんするような相手を選ぶこともなさそうですしね。竜樹様は相手の性格から何から調べ尽くしたと思います。そこまでしても目立った汚点なく、竜樹様のお眼鏡にかなったお相手だったのでしょう。そうなると長年の不満が爆発した、というありがちな理由もなさそうですよね」
「だろうな。何にしても予想外のことはあるもんだけど、竜樹様に限ってはなかなかなさそうだ。そもそもあの竜樹様から別れるなんて、菊乃様はすごいことをしたもんだ。逃がしてくれなさそうだろ。幽閉くらいはしそうだよ」
雲雀の中の竜樹という人間はだいぶ過激らしい。雪しろが「幽閉はやりすぎでは」と言うと「絶対それくらいはする」と頑なに言い張るのである。
雪しろは苦笑して話を続けた。
「竜樹様がどうこうなんて言っていられないくらいのことがあって、菊乃様は足垂家を離れなくてはならないと思ったのでしょうね」
「それって何なんだ? つまり、竜樹様よりも優先しなくてはならないものがあって、それのために菊乃様は別れたってことだろ。あの人より優先しなくてはならないものって何なんだ」
己の利益のためではない。他に添い遂げたいと思った相手がいたわけでもないのに、あの足垂 竜樹から何としてでも逃げねばならない理由になるものとは一体何だ。二人は思案する。
それはきっと夫よりも大切で、優先しなくてはならないもの。
「子ども?」
雪しろははっとして呟いた。女、それも母親が大事にすると言えば、子どもである。
「青梅様や蒼春様、それから碧緒のことか? 確かに母親にとって子は大切だ。けれど父親から子を守らなきゃいけないってのはおかしくないか? 竜樹様はああいう方だが、子を蔑ろにする人じゃないだろ。青梅様は跡取りに必要だし、蒼春様は」
そこまで言って雲雀は言葉を切った。
「蔑ろにされているではないですか」
珍しく雪しろは地を這うような低い声を出した。
「だけど、生贄なんてものは不可抗力だろう。碧緒じゃなくても良かったはずなんだから。そもそも、あの竜樹様だ。いくつもの先を読んでいる竜樹様が」
再び途中で気づき、雲雀は言葉を切った。
あまりにも残酷なことに気づいてしまい、心が震え、続き語ることさえ憚られ、雲雀は「そういうことか」とだけ呟くので精いっぱいだった。
「酷い、話です」
雪しろも震えている。同じことに気づいたのだろう。
「私、竜樹様を許せない」
生まれて初めて雪しろは腹が煮えくり返るほど怒っていた。何処かを睨み、声まで震わせて怒る雪しろを見るのは雲雀も初めてだった。
「アタシも許せないよ。けど、アタシたちの立てた仮説が当たっているかどうかは分からないよ」
「確かにそうですけれど」
「碧緒に聞けば確実に分かるだろうな。だが、こんな残酷なことを本人には聞けない」
雪しろも同感だった。二人で立てた仮説はあまりにも残酷で、碧緒の人間としての尊厳を脅かしかねないものだったからだ。いくらなんでもそれを直接碧緒に言うのは憚られた。
二人は考えあぐねて黙った。
頭の中がいっぱいで、心にも余裕が無かったからだろう。雲雀も雪しろも、自分たちに誰かが近づいてきていることに気がつかなかった。気がついたときはその人物に話しかけられた時だった。
「どうして雪しろがここにいるの!?」
雪しろの姿を見つけた一姫が大きな灰色の目をさらに大きくして詰め寄って来たのである。
しまった、と雪しろは心の中で叫んだ。この時間はいつもなら碧緒の部屋で話し合いをしている。そうして一姫が行動している時間とずらしていたのに、それをすっかり失念していたのであった。
「た、碧緒のお手伝いを、ちょっと。い、一姫こそこんなところでどうしたの?」
一姫が足垂家にいることはおかしくない。けれども雪しろは咄嗟にそれしか思いつかなかった。
「お庭でこの間相談に乗ってもらった人がツツジを折っちゃってね。枝を渡されたから、ちゃんとなおして庭に埋めておいたよって言いに行ってたの。その人、片付けておいてくれれば良かったのにって驚いてた。それからどこかから入り込んじゃってた田螺を拾って、どうしようかなぁと思っていたところ」
一姫は目じりを下げてはにかんだけれど、いつものような柔らかい笑顔には見えなかった。
「雪しろはたま姉のお手伝いをしてくれてたんだね。もう帰っちゃったんだと思ってたから嬉しい。ひょっとして雲雀もいるの? 今はどんなお手伝いをしているの?」
沈んだ気分を払拭しようとしているのか、一姫は無理に明るい声を出して雪しろの手を取り詰め寄った。
「えっと」
雪しろはどうしたものかと思考を巡らせ、ある考えに行きついた。
そうだ。自分と雲雀にできないのなら、一姫にやってもらえば良い。
「実は私、あることに気づいてしまったのです。これから話すことはただの憶測なのですが、とても……残酷な話です。聞いてくれますか?」
一姫は真剣な表情の雪しろに倣って唇を引き結んで頷いた。
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