第16話 悲しみを煽る
昨日の竜臣に対する竜樹の態度は異常だった。いつも冷静沈着な竜樹が声を荒げ、霊刀まで持ち出してくるなんて。嫌われ者の当主だからとか、娘を奪おうとしているからだとかいう理由であそこまで過剰な反応をするものだろうか。竜臣に個人的な恨みでもありそうだったけれど、どんな恨みがあるというのか。残念ながら思い当たる節はない。
できることなら父と竜臣には仲良くまではいかなくとも争って欲しくないのだが。大事な家族と恋焦がれる人が相入れない仲というのは悲しいものがある。さて、どうしたものか。
碧緒は思考しながら紙を折っていた。出来上がったのは紙飛行機である。完成後もしばらく紙飛行機を見つめて考えていたが、やはり考えはまとまらなかった。
仕方なく立ち上がり、碧緒は窓を開けた。するとあの男がいた。伊沼である。
「どうもお嬢さん。今日もお美しいですね。手に持っているものは?」
「ありがとう。これは早文よ」
顔の前に紙飛行機を掲げる。
伊沼が脇に退いてくれたので、碧緒は紙飛行機を構えた。見つめている伊沼に笑いかけ、振りかぶって紙飛行機を投げる。碧緒の手を離れた紙飛行機は風に乗って上昇していき、どこかを目指して独りでに飛んでいった。
紙飛行機には目的の人物の元へ飛んでいくよう呪がかけてあった。
「さすが東方青竜一門の姫君ですね。【木】由来の紙を使うことは得意なんですか?」
「そうね。わたくしは形を作らなければ難しい呪をかけられないけれど」
東方青竜一門は五行のうちの【木】を操るのが得意な一門である。碧緒は特に紙で形を作って呪をかけるのが得意だった。ちなみに青梅やくすべなどは紙札に文字を書いて呪を完成させ、銀竜は木刀に呪を乗せている。
「貴方はどうなの?」
「俺は苦手ですね。だから式使いをやっています」
雲雀もその口である。実のところ、碧緒や青梅、くすべのように様々な種類の呪を使える陰陽師は少なかった。多くは伊沼や雲雀のように妖物を式として遣ったり、銀竜のように武具に特定の呪を乗せたりする者たちだ。
「あとは【金】由来の呪なら少し。例えばこんな感じで」
伊沼はポケットに手を突っ込み、掌にこんもり積もる程のクリップを取り出した。【木】を操ることが得意な東方一門では紙を大量に持ち歩いている人物はたくさんいる。かくいう碧緒もたくさんの紙を懐に忍ばせているので紙なら見慣れているのだが、こうして大量のクリップを持ち歩いている人物は初めて見た。
碧緒が目を瞬いて見つめていると、伊沼はそこに右手を重ね、しばらくしてから離した。
「まあ!」
針金が押し固まって出来た立体的な猫がちょこんと座っていた。
目を輝かせて猫のオブジェを見つめる碧緒。伊沼は優しく微笑み、猫のオブジェを指でつまんで差し出した。
「どうぞ。プレゼントです。俺の分身だと思って可愛がってあげてください」
パチンとウインクする。
「ありがとう」
碧緒ははにかんで受け取った。近くで見るとクリップで出来ていることが分かって面白い。こんな素敵なものを自分だけで楽しむのは勿体ない。
「一姫にも見せてあげましょう」
「妹さんですか。では、妹さんのためにもう一つ作りましょう」
伊沼はまたポケットから大量のクリップを出して同じように猫を作り、碧緒の掌の上に乗せてくれた。
「きっとあの子も喜ぶわ」
「お嬢さんは妹さん想いの良いお姉さんなんですね」
「いいえ。あの子がわたくしのことを想ってくれているのよ」
「それは確かにその通りですね。先程相談されましたから」
碧緒は小首を傾げた。
「相談? 一姫が?」
「はい。お嬢さんの力になりたいけど、どうすれば良いのか分からないといった内容でした。俺は貴方のしたいようにすれば良いとアドバイスさせていただきましたが、彼女の背を押してあげられたかは分かりません」
「そうだったの」
「上手く背を押してあげられていたら、そろそろ訪ねて来る頃かもしれませんね」
言った傍から扉をノックする音とか細い一姫の声が聞こえて来た。
「あら、一姫だわ」
「上手くいったみたいですね」
にこりと笑った伊沼は「それでは俺はこれで」と向こう側から窓を閉めてくれた。
碧緒は入るよう返事をしながら文机に戻り、猫のオブジェを机の上に置いた。
遠慮がちに戸を開けて入って来た一姫は、無言で碧緒の向かいに座った。どこか浮かない顔をしている。何故か手には躑躅の枝を持っていた。
しばらく経ってもなかなか切り出してこないので、促してあげることにした。
「何か悩み事でもあるの? その躑躅の枝と関係あるのかしら?」
一姫は一度躑躅の枝に視線を落としてから意を決したように顔を上げた。
「あのね、私考えてたの」
強く握りしめた手の中で枝が折れる音がしてハッとした一姫は、慌てて碧緒に枝を差し出した。
「あ、これツツジの枝。たま姉の部屋を見てた男の人に話しかけたらビックリしたみたいで、ツツジの枝を折っちゃったの。なおしておいてくださいって渡されたんだけど、私じゃなおせないから、たま姉に頼もうと思って」
「あら、そうなの」
碧緒はぱちぱちと目を瞬かせ、手渡された躑躅をくるくると回した。一姫の言う部屋を見ていた男の人というのは伊沼のことだろう。
「分かったわ。ちゃんとなおしておくから安心して」
「うん、よろしく」
そうしてまた沈黙が訪れた。一姫は視線を下げて手元を見ている。
一姫が何故やって来たかは検討がついていた。竜臣と結婚したいのかどうかを聞きに来たのだろう。ここのところ一姫は部屋を訪ねてきては同じ質問を繰り返していたので、さすがに分かった。しかし今日はいつもより切り出すのが遅い。何かを決断したように見える。
ようやくこの時が来たようだ。碧緒は撒いたタ種がようやく芽吹いたことを肌で感じていた。
「あのね。たま姉は御当主様と結婚したいの? 本当のことを教えて」
一姫は真っ直ぐ碧緒を見て言った。
そう来ると思っていた。
「貴方の望む答えを言ってあげられないわよ」
碧緒の表情には笑みが消えていた。
一姫が肩に力を入れて頷くのを確認してから碧緒は言った。
「一姫も知っての通り、わたくしはお父様に捨てられたわ。即ちそれは、足垂家にわたくしはいらないということよ。そのことに対して、わたくしはどうとも思わないわ。お父様に対して恨みがあるわけでもなければ、足垂家に生まれたことを呪うわけでもないの。わたくしも覚悟して、全てを諦め捨てたのよ」
一姫は口を開きかけたが、再び奥歯を噛んで耐えた。
「けれど御当主様がわたくしを拾ってくださった。御当主様はわたくしを必要としてくださったのよ。だったらこの命は御当主様のために使わなければならないと思うの」
まるで大儀のように言うと一姫は激しく頭を振った。
「違う! 違うよ! 私はたま姉の気持ちが知りたいんだよ。それはたま姉の気持ちじゃないよ!」
「貴方の望む答えではないと言ったでしょう?」
「言ったけど!」
勢いよく吐いた言葉が大きすぎたことに気づいて頭を下げる一姫。
「たま姉はいつもそう。たま姉は自分の気持ちと『そうでなきゃいけないこと』が一緒になっちゃってる。たま姉、違うんだよ。私はたま姉の人間らしい声を聞きたいのに!」
碧緒は唇を引き結んだ。
言えるわけがない。碧緒は一姫に恋焦がれていることを知られたくなかった。もし一姫に卑しく惨めで浅はかな心の内を気づかれてしまったら、立派な姉として振る舞ってきた像が崩れてしまうかもしれないと思ったからだ。碧緒は誰かの期待を裏切るのが何よりも嫌だった。
意外だと言われることすら嫌いだった。だから碧緒は一姫が思い描くいつもの自分を演じた。
「ごめんなさい、一姫。わたくしには……足垂で育ったわたくしには分からないわ」
口元に笑みを浮かべて答えると、一姫は泣きそうな顔をした。
「そっか、ごめん。ありがとう、たま姉」
ふらりと立ち上がり、一姫は碧緒に背中を向けた。
「私ね、たま姉には幸せになってもらいたいの。私の、大切なお姉ちゃんだから」
それだけ言って一姫は碧緒の部屋を出ていった。
碧緒は胸の苦痛に表情を歪ませ、小さく呟いた。
「ごめんね、一姫。これは……未来の貴方のためなのよ」
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