第10話 竜の吐息

 足垂家の敷地内には竹林がある。竹林の中には池があり、水の中を覗くのが好きな碧緒は、悩み事があったり夜眠れなかったりするとよく水の中を覗きに外へ出た。てい宿では桟橋のかかったため池だったが、ここ足垂家では錦鯉の泳ぐ池である。


 雪の重みでたわんだ竹の間を潜り抜け、ぽっかり現れた池に近付くと、鯉たちが集まってきて口をぱくぱく開け閉めした。碧緒は屈み、白い息を吐きながら、激しく水飛沫を上げて必死に口を開閉している鯉たちを見ているふりをして考えた。


 自分はどうしたいのか。


 欲を言うなら父の望むとおりにもしたいし、竜臣の望むとおりにもしたい。けれど両者が揃うことはなく、碧緒は選択を迫られている。


 どちらかを選ぶことも出来れば、どちらも選ばない手もある。今のままでは何も決めきれないからいっそのこと全てをなかったことにしようと思い、両者が自分を望む主たる理由を消してやろうと思ったけれど。そうしたところで何かを決められるとも思えなかった。


 いっそのこと、恋焦がれていることを告白しようかしらとも考えた。でも怖くて出来ない。嫌な顔をされたら、竜臣がほんの少し返答に困った様子を見せるだけでも、走り去って消えたくなるはずだった。


 そんなものは生き恥だ。恥を晒して生きるくらいなら、晒さず心の中にしまいこみ、時を経て自分の一部にしてしまった方が楽だろう。


 碧緒はそっと選択肢の一つを消した。竜臣には決してこの恋心を知られてはならない。


 一つ決めることが出来て、白くけぶっていた碧緒の視界に景色が入り込んできた。


(あら?)


 そうしてふと碧緒は気がついた。


 鯉たちが何かを話している。


 自分でもどうしてそう思ったのか分からないが、鯉たちが何かを言っているような気がしたのである。


 母音は「い」「お」「い」「え」「え」だろうか。何度も何度も同じ言葉を繰り返しているように見える。


「貴方たち、何かわたくしに伝えたいの?」


 問いかけると突然鯉たちが何を言っているのかが分かった。


 「き」「こ」「し」「め」「せ」だ。


「何を聞き届けて欲しいの?」


 鯉たちは口の動きを変えた。碧緒は鯉たちの言葉を一つ一つ読んでいった。


「は、な、よ、め、さ、ま。ど、う、ぞ。お、い、で、むぐっ!?」


「口に出すな。連れ込まれるぞ」


 突然口を大きな手で覆われ、あまりにも驚いた碧緒は腰が抜けて尻餅をつきそうになった。


 しかし座り込みそうになった身体を逞しい腕に抱き上げられ、足の上に座らされた。


 碧緒は目を大きく見開いて、鯉のように何度も口を開け閉めした。


 竜臣がいる。竜臣が己の腰を抱いて支えている。自分は片膝をついた竜臣の足の上に座っているのである。


「魚の真似か」


 碧緒は慌てて口元を手で隠して立ち上がり、距離を取った。


「ご、ご当主様っ。どうしてこんなところにいらっしゃるのですか」


 間抜けな顔を見せてしまったことが恥ずかしくて顔が赤くなりそうだったので、顔を半分隠したまま言った。すると竜臣は立ち上がりながら答えた。


「竹林に入っていくところを見かけたので後をつけた。あまり近づきすぎるとまた下駄を落とし、君も池に落ちるぞ」


 それは幼い頃の記憶。


 出会いの日の大事な思い出だった。


(覚えていてくださったんだ)


 覚えてもらえていたことが嬉しい反面恥ずかしくて仕方がなかった。今度ばかりはさすがに顔が熱くなるのを止められなかったので、碧緒は無礼と知りながらも竜臣に背を向けた。


「あの時は本当に助けてくださり、ありがとうございました。ですが、うっかり者の幼い私のことはどうぞ忘れてくださいませ」


「忘れるつもりはない」


 どくん、と心臓が呻いてますます顔が熱くなってきた。


 どうして忘れるつもりはないと言ったのか真意を尋ねたいところだった。しかしそれが「滑稽だったから」などという理由だったらこの先恥ずかしくて顔向け出来ないので尋ねられなかった。


 碧緒が考えあぐねてふと降りた沈黙に、ぱしゃんという水音が響いた。


 あんなに集まっていた鯉が一匹残らずいなくなっていることに気づき、碧緒は急に冷静になった。こういうところが切り替えの早い足垂家である。


 あの鯉たちは川の主、蛟の手下だったのだろう。碧緒のことを花嫁と呼ぶのはあの蛟しかいない。しかしついこの間までただの鯉だったはずなのに、いつの間に妖物の手下になったのだろうかと碧緒は内心首をひねった。


「あの魚共は元々池にいるのか」


 隣に竜臣が並んだ気配がした。


 碧はずれていたショールを羽織り直して頷いた。


「はい。ついこの間まではただの鯉でした。足垂家の敷地には妖物避けの結界が張ってありますし、専属の妖滅部隊が定期的に見回っていますので、なかなか妖物の使いであっても見ることはないので珍しいです。どうやって入って来たのでしょうか」


「あの川の匂いがする。水だ」


「水ですか?」


 もしかしたらこの池の水はあの川から持って来たのかもしれない。そうであれば川の水を介して蛟が鯉たちを使役することも有り得るだろう。


「詳しく調べてみます」


 足垂に保管されている書物の中に足垂家の屋敷や庭について書かれたものがあったはずだ。雲雀と雪しろも巻き込んで書物を探そう。


 碧緒が書物を探す場所の心当たりを整理している間、竜臣は碧緒の横顔をじっと見つめていた。気づいた碧緒が小首を傾げると、竜臣は視線を逸らし、おもむろに池に向かって腕を上げた。


 すると池の水が渦を巻き始め、碧緒は慌てて腕に飛びついた。


「ご当主様! 何をなさるおつもりですか!?」


「魚共をまとめて始末する」


「どうして!? 鯉たちは何も悪くありません!」


「君を誑かそうとした」


「わたくしは無事です! 今後ここへは近付かないようにいたしますのでそこまでなさらなくて大丈夫です!」


「ここは君が気に入っている場所だろう。来られなくなっても良いのか」


 言ってもいないのに気に入っているということが分かるのは何故だろうか。


「君は水の中を見つめるのが好きだろう」


 心臓が呻いた。


 初めて竜臣に出会った日のことがまざまざと思い起こされた。目を閉じれば瞼の裏に神秘的な青年が浮かんでくる。言動は過激になっているが、あの日出会った彼が目の前にいるのだと実感した。


 碧緒が相対する竜臣は優しさに溢れており、人らしい。幼子が近付くのをじっと待ち、月を綺麗だと言って、池に落ちた幼子を助け、娘が誑かされないよう注意し、他人の大事な場所を守ろうとしてくれる。普段伝聞する情の無い男が目の前の男と同一人物とは思えなかった。


「お気遣いありがとうございます。ですが、私はここまで池を見に来られずとも構わないのです。どこか別の場所に新しく造ってしまえば良いのですから」


 にっこり笑うと、竜臣は「それもそうだ」と納得した。別の人間がいれば無茶苦茶だと突っ込んでいただろうが、生憎別の者はいない。


「では妖避けを施してやろう」


 断る理由も無かったので、碧緒は深く考えずに厚意に甘えることにした。


「お願いいたします」


「承知」


 すると後頭部に手を当てられ、抱き寄せられた。予想外のことに驚いて固まっていると頭に唇をつけられ、ふうっと息を吹きかけられた。


 吐息と共に吐き出された竜臣の気が頭の先から足の先まで満ちていくのが分かった。


「不快か?」


 顔を上げると後頭部に回っていた手が首をなぞり、顔の輪郭をなぞった。


「め、滅相もございません。心地ようございます」


「そうか」


(あ、今)


 笑ったような気がした。


「俺の気を纏わせた。散る前にまた来る」


 竜臣はするりと離れ、あっと言う間につむじ風と共に消えてしまった。


 碧緒はしばらく放心していた。冬の冷たい空気が身体を攫っても、不思議と寒さは感じなかった。


 それでも冬の冷気は長く耐えられるものではなく。身体が震えてきたことが分かったので、碧緒は屋敷へ向かってふらふら歩き始めた。


 遅れて竜臣に何をされたのか気づいた心臓が馬鹿みたいに早鐘を打ち始め、ただただ頭の中が真っ白になって、心がふわふわして仕方なくなった。足取りもおぼつかず、どうやって帰ってきたのかも分からないまま布団に入り、碧緒はぼうっと何もない天井を見つめた。


 夢現のような気分はいつの間にか眠り落ちるまで続いた。

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