第2話 蛟の花嫁
浅葱色の糸毛車が木立の間を進んでいる。軛には何も繋がれていないが、車は独りでに動いていた。
車の脇には浅葱色の狩衣を着てのっぺりとした白い面をした男が四人ついていた。車の中に座す、花嫁の護衛である。
花嫁の名は足垂 碧緒(あしだれ たまお)。波打つ黒の長髪が印象的な娘だ。これといって顔に特徴はないが、美しいかと問われれば間違いなく美しいと言える顔立ちである。
碧緒はこれから足垂の土地に住まう妖物の元へ嫁入りする花嫁であった。
ただその装いは白無垢ではなかった。白装束だ。そして身体は車の内側にびっしりと張り巡らされた長細い紙に縛られ、括りつけられていた。これはあらゆる呪を弾く結界であり、碧緒を逃がさないようにするための呪縛だ。車の周りについている男たちも、護衛と言うよりは見張りである。
碧緒は足垂の土地を治める妖物、蛟との契約の元、六十年に一度行われる【人身御供の儀】の生贄として、これから車ごと川に沈められるのだ。
この任が碧緒に下ったのは、年を明けてから十日あまり経った頃だった。
月のない夜のこと。
この日、長らく行われていた話し合いに終止符が打たれた。足垂家はこの話し合いで【人身御供の儀】の主役となるべき娘を決定した。
呼び出されたのは足垂家当主の三番目の娘、碧緒だった。
碧緒は奉公人が自室に己を呼びに来た時点、いや、もっとずっと前から、こうなることを覚悟していた。断るつもりはない。悲観することも無ければ、逃げ出そうという気にもならなかった。
足垂家当主の部屋を訪れると、腕を浅葱色の着物の袖に通し、藍の羽織を着た父、足垂 竜樹(あしだれ たつき)は言った。
「任が降りた。供物となれ」
竜樹は五十半ばの男だ。黒の中に灰色の混ざる短髪。真一文字に結んだ唇の端や、鋭く光る目の端にはしわがある。見た目通り厳格な男なのだが、この日はいつにも増して声に情がなかった。
対して碧緒はつつましく頭を下げて答えた。
「謹んで、お受けいたします」
紺碧の着物に包まれた背から脇に波打つ長髪がするりと落ちる。顔を上げた口の端には微笑をたたえ、頬には淡い色が差しており、白くきめ細かな肌が生き生きとした印象を与えた。
歳は十六。高校一年生。特に秀でた才はないが何事にも劣っているとは言えない実に器用な娘で、感情を笑みで隠すのが上手い大人びた姫であった。
「この件は他言無用だ。明日から準備を整えよ」
碧緒が頭を上げるよりも前に竜樹はそう述べ、「下がって良い」と結んだ。
「かしこまりました」
碧緒は言われた通り、すぐさま静々と下がった。
己の娘に生贄になることを告げた父、竜樹は普段会話する際と何も変わらなかったし、告げられた娘、碧緒もいつも通りだった。
こうして碧緒は実の父親に生贄として選ばれ、あっさりと承諾したのである。
それから碧緒は許された範囲内で身辺整理を行った。とはいえほとんどすることがなく、碧緒の人生の終わりの為の活動はたった六時間で終わった。部屋の整理に四時間。世話になった各処や人物に手紙を書くのに二時間。碧緒がこの十六年で溜めたものは洋服箪笥一つ、鏡台一つに収まるくらいの物だけ。十五年の歳月を禁男の足垂家の学び舎てい宿で、高校生になってから約一年は学校の近くにある足垂家の分家で過ごしていたので溜まりようがなかったのである。そのうえ書いた手紙は十三通。うち五通は家族、三通は世話になった各処奉公人一同、残りの六通が友人に向けた手紙だった。
(私の人生はこんなにも淡泊だったのね)
簡素な人生を自嘲する。頑張って生きてきたつもりだったが、思い返してみると苦労していないことに気づいた。蝶よ花よと育てられた世間知らずの高枕であったのだろう。だから今、手元に何もないのだ。
全ては賢く立派な父親のおかげだ。竜樹が碧緒の全てを決めてくれていたのである。何処でどう過ごして何を得るかまで竜樹は指定し、碧緒はそれに従ってきた。父を信じて疑わなかったのは従っていれば何不自由なく過ごせたからだ。また、純粋に、碧緒は父を尊敬していたのであった。
次の日に書き終わった手紙を一番上の姉、青梅(はるうめ)に預けに行った。青梅は赤子の碧緒を残して出て行った母親に代わって碧緒を育てており、碧緒にとって母のような存在だった。
手紙を受け取り、宛先を確認した青梅は言った。
「手紙を出したい相手はこれで全てですか? この他の者には何も伝えずとも良いですか?」
ふと一人、頭の中におぼろげな像が浮かんだがすぐに消えた。
「はい。いません」
「では最後に望むことはありませんか? したいことがあればわたくしが叶えて差し上げます」
青梅はピクリとも表情を動かさず、淡々と述べた。
青梅はやると決めたら必ずやり遂げる。ここで碧緒がどんなに無茶なことを言っても必ず叶えてくれるだろう。
またある人の姿が頭の中に浮かんだ。姉と同じ歳の男。二年前に当主の座に就いた男の姿だ。
一目会いたい。
後姿を見るだけで良い。
ひっそりと、こっそりと。
恥を忍んで「お慕い申し上げておりました」と読人不知の文を送っても良い。
思いはしたが口からは出ず、碧緒は「何も」と首を振ったのだった。
今になって碧緒は己の命も、あの時「何も」と首を振ったことも惜しくなっていた。土壇場になって揺らぐなんて足垂の女失格である。
ふぅとため息を吐こうとしたが巧く吐けなかった。首に括られた紙の所為かと思い、緩まらないだろうかと掻いてみたら、紙はさらにきつくなった。
(あぁ。私はもう、逃げられないのね)
碧緒は固く唇を結んだ。
車は木立を割いて山を登っている。木立を抜けたら草原だ。そこまで出てしまえば数回車輪が回るだけで川が流れる谷に着く。車はそこに向かっている。戻りはしない。停まりもしない。
はずだったのに、ぎぃ、と、車が停まった。
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