魍魎の花嫁~旦那様は無口な竜人~

いとう ゆうじ

第1話 眠れぬ晩の逢瀬

 妖物だろうか。それも、人怪に分類される鬼。


 碧緒(たまお)は目の前の存在をじっくり観察しながらそんなことを考えていた。


 眠れぬ夜に必ず訪れるため池を跨ぐ桟橋。碧緒のとっておきの場所に、すっと縦に長い人型が立っていたのである。


 外に跳ねた長髪を月光に青く透かし、碧緒が見たことのない召し物を着て、碧緒が見たことのない形をした不思議な存在だった。白い布を纏った上半身に、下半身は身体の線がハッキリ浮かぶ黒い二股の装い。人の形をしているのにしわがれた翁でも媼でもなく、女子の様な丸みや凹凸もほとんどない。何度か人目を忍んで戯れたことがある妖物に似ているので咄嗟に妖物かと思ったが、よくよく探ってみるとなんだか微妙に違うような気もする。


(妖物にしては『気』がうすいかしら。でも人間よりは『気』がこいみたい)


 碧緒は首をひねった。


 しかし、なんてことはない。


 碧緒の目の前に立つ人物は、襟のついた白いシャツに黒のパンツを着た―夥しい霊力を持った普通ではない―青年であった。世間ではありふれた服装でも、目も開かぬ赤子の頃から山奥にひっそりと佇むここ『てい宿(しゅく)』で暮らしている碧緒には新鮮だった。また、てい宿は陰陽師の家系の女子に陰陽道を教育する特殊な機関のため、碧緒は人間よりも妖物と呼ばれる人ならざるものと関わることが多かった。それ故碧緒が青年を見て年若い男に擬態していることの多い妖物を連想したのも自然なことだった。つまり碧緒は知識や経験が偏った、究極の世間知らずなのである。そんな世間知らずの少女の前に突然現れた青年の存在は、少女の興味を駆りたてるには十分すぎた。


(このヒトは何かしら。もっと近くで見てみたい)


 碧緒は歩を進めた。気づかれて逃げられないようゆっくりと。姿勢を低くして下からこっそり覗こうと。真正面から近付いているにもかかわらず、碧緒は狩りをする獣のごとく近づいた。その間全く青年が動かなかったのは紛れもなく彼の厚意であった。


 時間をかけて顔の見えるところまで近付くと、碧緒は思わず呟いた。


「……きれい」


 赤い目元は涼しく、結ばれた唇は艶めいていて、肌は陶器のように白く滑らか。あまりに繊細な美しさだったので、碧緒はやはり妖物かもしれないと思った。


 てい宿の周りは妖物を弾く結界が張ってある。妖物はそうそう入ってこられないはずだが、稀に潜り込んでくる妖物がいる。もしこの者が妖物で、人に危害を加えようとするならば今すぐ大人を呼びに行かねばならなかった。


 けれども碧緒は行かなかった。この場を少しでも離れたら目の前の存在が消えてなくなってしまうかもしれず、離れるのが惜しかったからだ。例え妖物であっても碧緒はその者を見ていたかった。ほんの少しでも長く。今、碧緒の胸に、齢十ばかりの少女には刺激が強すぎる感情が芽生えていた。この感情を何と言うのか、碧緒はまだ知らなかった。


 碧緒から線香花火の様に爆ぜる感情を向けられていることをつゆも知らない青年は、ただただじっと佇んでいた。何も言わず、また、表情をぴくりとも動かさず、白い寝間着の上に浅葱色の半纏を羽織った少女を見つめていた。


 しばらく後。青年は何かに気づいたのか、碧緒の視線の先を追うようにして振り返った。


 顧みた先には落ちてきそうなくらい大きな丸い月があった。


 青年は目を見開いた。初めてそこに、月があると気づいたように。


 青年が碧緒に視線を戻し、そして、呟いた。


「綺麗だ」


 途端、とくんと少女の小さな胸が高鳴った。青年が月のことを言ったのは明確だったが、真っ直ぐ見つめられてそんなことを言われたら勝手に心臓も呻くというものだ。頬だって熱くなるに決まっていた。碧緒は照れを隠そうと頬を手で抑えつつ、自然を装うためにため池を覗き込むことにした。


「まあ」


 そうして踏み出したところで、適当に引っ掛けてきた大きめの下駄が足からすっぽ抜けてため池に向かっていった。碧緒は咄嗟に下駄を追いかけたのだが、この日は運の悪いことに、夕方から降り積もった雪で足場が悪かった。そういうわけで碧緒は雪で足を滑らせてしまったのであった。


「きゃっ!」


 碧緒は表面に薄く張った氷を砕いてどぼんと池に落っこちた。


 池は深くない。小さな碧緒でも立てば顔が出る。けれど刺すような痛みを伴う冷たい水が一瞬で碧緒の熱を奪い、水を吸った半纏が重りになって小さな身体を水底へ沈ませた。


 死という単語が頭の中に浮かび、幼い碧緒は恐怖と絶望の中で助けを求め、凝ってほとんど動かなくなった手足を必死に動かした。すると手首を強い力で引っ張られ、頭が水の膜を破って空気の層に突き出た。


 碧緒は肺いっぱいに空気を吸い込み、二度と沈むまいと目の前の何かに抱き着いた。それは程よく柔らかくてほんのり温かく、それでいてしっかり安定していた。視線を上げると兎のような二粒の赤い目が見え、其の後ろに鬣のような青い光を放つものも見えた。


(竜が、助けてくれたのかしら?)


 鈍い頭で考える。あの人間の形をした名も知らぬ美しいものは竜なのではないかと。己は竜に助けられたのではないかと。


「うぅ……」


 冷気が吹き付け、ぶるりと身体が震えて思考が途絶えた。途端急激な眠気に襲われ、碧緒は礼を言わねばと思いつつも重たい瞼を閉じてしまったのだった。


***


 青年は胸に抱いた少女が脱力したことに気づいた。死んだのかと思ったが、耳元に息がかかるので気絶したのだろうと解釈した。


 ついでに拾った少女の下駄の鼻緒を指に引っ掛け、池から出る。このままでは少女が凍え死ぬかもしれないので屋敷を目指すことにした。


 足音を殺して歩く青年の耳には少女の息遣いだけが聞こえている。触れているところがほんのり温かい。


 生き物の息遣いやぬくもりというものはこんなにも心地の良いものであったのか。青年はそんなことを思いながら、もう一つの疑問を考察した。


(それにしても不思議な人間だ。こんなにも清らかな人間は見たことが無い。いや、人間ではないのだろうか)


 少女が青年を妖物ではないかと疑ったように、青年も少女のことを人ならざるものではないかと疑っていた。それ程までに少女の身体や身に宿る気が澄んでいたのである。


(あるいはこの場がそのような場なのか。ここで隔離生活をおくっている娘たちは皆こうなのだろうか)


 青年の興味が少女を中心に広がっていく。


 こんなことは初めてだった。青年は幼少期に親を亡くし、同時に記憶も無くしてから無気力にただ日々を過ごしていた。それが今日、突然長い眠りから覚醒したかのように様々なものに興味が湧いてきたのである。自分でも不思議で仕方が無かった。


 ふと振り返って夜空を見上げ、月を見つめて思う。


(月が綺麗だということさえ、俺は知らなかった)


 冬の群青色の冷気に月光の降り注ぐ、美しい晩のこと。


 少女と青年の運命が急激に回り始めたのだった。

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