第3話 碧緒を愛する者
「どうされました」
車の左前について歩いていた男が声を出した。抑揚のない声だった。
「どうされました、一姫様」
今度は右前の男が問う。二人は車の前に立ちはだかった浅葱色の狩衣を着た娘に問うていた。
影の下であっても、艶やかに輝く長い黒髪が印象的な娘だった。大きな目は灰色で、きゅっと引き結ばれた唇は白い肌にほんのりと柔らかな桃色を灯している。派手な顔ではないが、可愛らしい。大きく開いた両腕は、狩衣に包まれていても華奢であることが分かった。
碧緒の同い年の妹、足垂 一姫(あしだれ いちひめ)である。
「たま姉を放して。こんなことやめて」
一姫は震える声で訴えた。
「どうしてたま姉が死ななきゃいけないの……おかしいって思うでしょう? ねぇ、やめてよこんなこと……」
「死ぬのではありません」
「死ぬのではありません、青竜様の贄となるのです」
左、右と、男は順番に答える。一姫が相応の覚悟で儀式を止めに来たことは分かっているだろうに、男たちは淡々としている。まるで何も感じていないように。
一姫は眉間にしわを寄せた。
「贄って……あなたたち、どういう意味か分かっているでしょう? 結局死ぬんじゃない」
「死ぬのではありません」
「死ぬのではありません、青竜様の花嫁となるのです」
頭にカッと血が上った。
「花嫁なんて言わないで! そんな幸せなものじゃない!」
「碧緒様はお幸せです」
「碧緒様はお幸せです、青竜様のために身を捧げられるのですから」
「やめて! 幸せなはずがない!」
頭を左右に振って否定する。
「あなたたちはたま姉の気持ちが分からないの……? 一人、死んでいく……たま姉の気持ちが分からないの……? たま姉は笑顔で返事をしたようだけれど、嬉しいわけがないでしょう。死ねって……父親に死ねって言われて、喜ぶ娘がどこにいるの……」
一姫の目に涙がたまっていく。
「お父様もお父様だよ……。どうして、たま姉が犠牲にならなくちゃいけないの?こんな儀式、やめにしてしまえばいいじゃない。ねぇ、そう思うでしょう? こだわる必要ないって、そう思うでしょう?」
懇願するように、一姫は面から覗く男たちの目を見た。けれども男たちの目は、木の洞のように虚ろだった。
「これは使命なのです」
「これは使命なのです、足垂家に課せられた使命なのです」
「もういい!」
機械的に繰り返す二人に、遂に一姫は激高した。このまま会話を続けていてもどうにもならなかった。
「たま姉を放して!」
一姫は車に歩み寄ろうとした。
「なりません」
「なりません、一姫様」
左右の男が持っていた錫杖を交差して行く手を阻む。一姫は後すさったが、引かなかった。意志の強い瞳で、面から覗く二人の目を見た。
「あなたたちがどうしてもたま姉を放さないのなら、奪ってみせる!」
その、一姫の灰色の目が、金色に光った。
それと同時に一姫の足元から風が巻き起った。真っ黒な長い髪が踊るように宙を舞い、狩衣の袂が暴れる。
風と共に一匹の白鼬が一姫の足元から体を回って肩に乗った。と思った次の瞬間、強い風が一姫から男たちに向かって吹いた。
二人の男が強い風にひるんでたじろいでいる隙をついて、風が抜ける。まるで意思を持っているかのように、空気の塊が屋形目指して飛んでいった。
バチンッ
しかし、屋形が凄まじい音を立てて風をはじき返した。はじかれた風は屋形をぐるりと一周し、四人の男たちの腹に鋭い刃のような風を投げつけた。車の後方についていた二人の男の身体が真っ二つに切れ、前方の男たち二人が飛ばされる。
風が屋形の上でわだかまった。みしりと、空気の塊に押された車が音を立てる。何か重量のあるものが乗った音だった。
車の上に、牛ほどの大きさの鼬が乗っていた。全身真白の毛をしており、目だけが黒い。尾は長く、鎌になっていて、ゆうらりと揺れている。鎌鼬だ。
「なんと大きな! こんな鎌鼬は見たことがない! 一姫様のお力か!?」
初めて左の男が人間らしい驚きの声を上げた。
鎌鼬が左の男に目を合わせる。
「左の! 後ろだ!」
右の男が叫んだが、左の男が振り返った時にはもう遅かった。首に一撃を食らい、左の男の視界が暗くなっていく。彼の目に最後に映ったのは、白い面をし、黒衣に身を包む得体の知れない人物であった。
黒衣の人物は手刀で左の男を落とすと右の男に向かっていった。男は錫杖を地に突き立て、言葉を紡ぐ。すると男の周りに空気のゆがみが生まれた。結界だ。黒衣の人物はそれと気づかず突進し、強く弾き飛ばされた。しかし、体制を整えて着地すると、そのまま流れるように木立の闇に姿を消した。見事な奇襲であった。
「一姫様の加勢ですか」
右の男も一姫が一人でやってきたとは思わなかった。しかし、これほどまでの手練れを連れてくるとは思いもしなかった。一姫は特に才覚のない、足垂の末の娘である。特殊な性質を持つ稀有な存在だが、それだけのことだった。
「こんなことをして、無事ではすみませんよ、一姫様」
闇を警戒しながら一姫を見ると、一姫は屋形の簾に手をかけようとしているところだった。屋形には結界が張ってあるが、一姫の前では無意味である。男は眉間にしわを寄せた。
「よく、準備を整えられたようですねぇ……」
男は指に何枚かの紙を挟み、一姫に向かって駆け出した。それを鎌鼬の風が阻む。紙がびりびりに破れて宙を舞った。男の身体も一姫に届くことなく、空に踊る。
と、
「ぎゃおんっ」
獣の叫び声が聞こえた。
風が止む。
屋形が暴れ出し、一姫はあと少しで触れられたというところで投げ出された。
一姫が驚いて顔を上げると、鎌鼬が屋形の上でのたうち回っていた。身体に無数の紙が貼り付いている。紙は顔にも張り付いており、鎌鼬は口と鼻を覆う紙を外そうと前足で掻きむしっていた。大きなしっぽがぶおん、ぶおん、と屋形の前で行ったり来たりする。これでは近づけなかった。
「落ち着いて、白銀…!」
白銀と呼ばれた鎌鼬が黒い目を一姫に向け、ごうっと音を立てて消えた。紙片が舞い、白銀の重みでなんとか耐えていた車がバランスを崩す。
車が一姫めがけて倒れて来た。
「きゃぁっ!」
「一(いち)!」
木立の隙間から焦燥に駆られた声が飛んできた。娘の声だ。
闇が飛び出す。
男はそれを見逃さなかった。呪いを唱え、無防備に現れた闇、黒衣の人物に札を投げつける。黒衣の人物は札に気づいたが避けられなかった。札が張り付き、鉛のように体が重くなってがくんと体が下がった。
黒衣の人物はバランスを崩しはしたが、何とか受け身を取った。しかし、体が重くて立ち上がれない。地面に押さえつけられているようだった。
しまったと、黒衣の人物は顔を上げた。一姫はなんとか飛び退いており、難を逃れたようだった。ほっとしたが、落ち着いてはいられない。男が迫ってきていた。
男が錫杖を振り上げる。黒衣の人物は腰の短刀を抜いたが、体が鈍い。間に合いそうになかった。
黒衣の人物には男の動きが遅く見えていた。危機を感じた時によくある、集中力や注意力が増していつもより多くのものが見えるようになり、時が止まっているかのように錯覚する現象だ。
男の錫杖が自分の身を叩こうかというのに、自分の手は鞘を抜いたところである。思わずここまでか、と感じた時、体の動きが滑らかになった。まるで枷を外されたように、自由になった体が短刀を錫杖と体の間に滑り込ませていた。
「む!?」
男が驚きの声を上げる。黒衣の人物はすかさず男の足を払った。体制を崩した男の首に、肘で一撃を入れる。男はそのまま前のめりに倒れた。
黒衣の人物は軽やかに立ち上がると、車の傍で伏している一姫に駆け寄った。
「大丈夫か? 一」
男にしては高く、女にしては低い、中性的な声であった。
「大丈夫、ひ、二ノ……」
抱き起こすと、一姫は青い顔で答えた。手をすりむいているが、大きな怪我はないようだった。
「良かった、無事みたい……」
黒衣の人物の傍らで、いつの間に出て来たのか、浅葱色の狩衣を着た娘が言った。顔には白くのっぺりとした面をしており、灰色の髪を編んで頭の後ろでまとめている。繊細な声と同じく、華奢で小柄な体躯をしている。
一姫の呼び寄せた仲間の一人だった。
「碧緒は……」
娘は車を見た。
一姫は無事だったが、屋形の中の碧緒はどうなのか。車は妙に、しんとしている。
「たま姉……」
それは一姫も思っていたようで、立ち上がるとすぐによろよろと車にしがみついてそのまま這い上がっていった。
車にはまだ、結界が張られている。車が倒れた程度、共の者が倒れた程度では破れない結界だ。娘や、二ノと呼ばれた黒衣の人物にやすやすと破れる結界ではない。けれども一姫の前ではそんなもの、ないも同然だった。
一姫は彼女の意思に関係なく、どんな結界も破ることができるのである。妖物の強化も一姫の生まれ持った性質だ。
二人は一姫が結界を破るのを待った。
一姫が結界などないもののようにその中に手を差し込み、簾に手をかけた。
「たま姉、大丈……!?」
途端に絶句した。
黒衣の人物と娘が一姫の後ろから中を覗く。
「うそ……」
「なにっ」
思わず声が出た。
目を疑った。
信じられなかった。
屋形の中は、空っぽだった。
誰かがいたという形跡すらない。ただ、ぽっかりと空いた真白な空間が三人を出迎えた。
初めからこの車の中は空っぽだったのだ。三人は空の車を相手にしていたのである。
父親の竜樹や一番上の姉の青梅に気取られないよう注意し、大好きな姉、碧緒の友人二人を巻き込んで念入りに練った計画が水の泡となって消えた瞬間だった。
目の前が真っ暗になる。碧緒を死の淵から助けようと計画したのに。どうしてこうも自分は無力なのか。どうして父はそれほどまでに姉を殺そうというのか。
「どうしてっ……そこまでっお父様……!」
一姫はわっと涙を流した。腹の底から、無念さと激情がこみ上げてくる。
「残念、でしたね……」
男の声が聞こえる。
最初に落とされた左の男だった。
男は縄で木に括りつけられていた。術が使えないよう、丁寧に魔封じの札まで張ってある。一姫と二ノが右の男を相手している間に、もう一人の娘がやっておいたのだった。
「竜樹様や青梅様はあなたたちが何かを企んでいることに気付いておられたのでしょう。だから、策を打った……。その車が空だということは私どもも知りませんでした。実に、見事ですね」
感嘆の息を漏らす。
「儀式の場に続く無数の道は、全て私が見張っておりました……。道を通っていくのはこの車しかありませんでした。ですから、この車に、碧緒が乗っていると確信したのに……」
娘が震える声で言う。
時間をかけて準備をした。何十もある道を通るルートは何万通りもある。三人はそのすべてにおいて対応できるよう、あらゆることを調べ上げた。
どこで何をするのか、どのようにして通るのか。共の者の実力。道の形状やかかる時間、当日の天気に至るまで、集めるに集めた。
容易ではなかった。それでも諦めずに根気強く情報を集め、何度も話し合いを重ねて計画を練りに練った。三人は碧緒が儀式の生贄となると知った日からたった一週間余りだったが、この日の事だけを考えてすべてをこの日に費やしていた。そこまでして練った計画が、絶対に成功させなければならなかった計画が、失敗に終わった。
悔しい。それ以上に、一つの命が失われる事実が重く、胸が押しつぶされそうなくらい苦しい。
「あなたは良い目をお持ちのようだ。何十もある道を全て見ることができる目を持つ術者はそうそういません。黒装束のあなたは実によく動きますね。妖物と契りを交わして使役する妖使い。妖滅部隊の方でしょうか。一姫様、本当によく、このお二方を集められましたな」
男は笑っているようだった。
「お二方とも優秀ですから、他の分家の御家に仕えているのでしょう。足垂の人間でないことは分かります。碧緒様の……旧友でしょうか」
二人はぐっと言葉を飲み込んだ。男の言う通り、二人は足垂の人間ではない。青竜東方一門ではあるが外部の人間であった。
儀式に外部の人間が加わることはできない。もし加わろうものなら、罰せられる。それが儀式を阻止しようというものであるなら、首をはねられてもおかしくはなかった。そのために、名を伏せている。また、他言無用と言われた儀式の事を話し、こうして阻止するための計画を練った一姫もただではすまされないはずだった。
三人ともそれは知っていた。けれども計画し、こうして実行したのである。覚悟の上だった。
「……お前の話に付き合うつもりはない。情報を聞き出すつもりだろうが、そうはいかないよ」
黒衣の人物が答えると、男は肩を落とした。
「まだ子どもだからと侮ってはいけないようだ。現にこうして私も右のも捕まっている……。いや、実に、見事でした。上手い奇襲でした」
左の男は大げさにうんうんと頷いてみせる。妙に芝居掛って見えた。
「悠長な……」
二ノは呆れた声を出した。
娘は二ノの隣で黙っている。
一姫は顔を両手で包み込み、
「……まだ、間に合うかもしれない」
思案していた。
二ノ、それから娘が弾かれたように一姫を見た。
「どういう、ことですか?」
訝しげな声で問いかけると、一姫は両手の中から顔を上げて娘を見た。
「時間が、まだあるかもしれない。今何時? ゆ……三」
「八時十九分五十七秒です」
「儀式の時間は八時半ごろだろう……?」
車は夜明けとともに山を登り、八時半ごろに谷底に落ちる予定だった。刻々と時間は過ぎている。
「もしかしたら、何かがあって遅れていて、時間通りに始まらないかもしれない。たま姉の乗った車は、昨日まではなかった道を進んでいるんでしょう? だったら何かあって遅れるってこともあるかもしれない」
二ノと三は顔を見合わせた。
「まだ、間に合うかもしれない」
涙に濡れた頬をぬぐいながら、一姫は立ち上がった。
足垂 竜樹は時間を守る正確な男である。始まりの時間は予定通り夜明けだった。ルートは変えても、時間を変えるということはないだろう。また、遅れるということもなかなか考えられないことだった。希望はほとんどない。
「行こう。たま姉のところへ。まだ間に合うかもしれない!」
けれども一姫はすでに真っ赤に腫れてしまったが、意志の強い瞳で二人を見返した。
この瞳を前にしては、二人も断れなかった。また、それ以上に、まだ、諦めたくなかった。
「行きましょう」
「行こう。白銀!」
二ノが叫ぶと二ノの足元から風が巻き上がり、くるくる体を回って白銀が二ノの肩に乗った。普通の鼬の大きさだ。
「隼の方が早いが、山や森ならこっちの方が良い。一がいるからね」
白銀が一姫の方に飛ぶ。一姫が手を伸ばして白銀に触ると、みるみるうちに体が大きくなり、牡牛ほどの大きさになって地面に降りた。
妖力の強化。一姫の能力の一つ。
一姫はこの力の所為で鬼子と呼ばれ、足垂の屋敷で隔離されて育った。父と腹違いの姉たちは無関心。後妻の母は幼い頃に亡くなっている。妖物を狂暴化させることもある力を受け入れられず、自分で自分を嫌って閉じこもっていた。けれど腹違いの姉、碧緒が受け入れてくれたから、一姫は希望を持てた。
今まで一姫はずっと碧緒に助けられてきた。けれど、今回ばかりは自分が碧緒を助ける番だと思った。だから引きこもっていた屋敷を飛び出し、まだ扱いきれない力を使うことにしたのだ。
「乗って。今の白銀なら女三人くらいなら運べる」
一姫は車の上から白銀の背にまたがった。
二ノは三が乗るのを手伝ってから、一姫と三の後ろに乗った。
「行け! 艮の方角だ!」
白銀は衝撃波のような風を起こして駆けていった。
あっという間に三人の娘たちは木々の間に消えてしまった。
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