泣かない顔に塩1

 悪いことは重なるもの。

 不運は次なる不運を呼ぶ。


 それなりに生きてきてそのことはわかっていたはずなのに、この歳で寝坊をして、お弁当を詰める暇もなく家を飛び出し、会社までの道のりを疾走することになったのはさすがに堪えた。


(私の唐揚げ……!)


 くっと嘆きを飲んで、汗を掻きながら会社に滑り込む。暖房がとにかく暑い。誰も乗っていないエレベーターの中で乱暴にコートを脱ぎ、フロアに着いた瞬間に早足で総務部室に駆け込んだ。すでに着席している総務部や事務課の面々の顔も見ずに「おはようございます!」と告げてタイムカードを切った瞬間、全身から力が抜けたような気がした。


(間に合った、けども)


 唐揚げが、今日のお弁当にするつもりで残していた昨日の唐揚げが、家に置き去りだ。


 そのままへたり込んでしまいたい自分を宥めつつ、気力を振り絞って席に着くと同時に始業時刻になってしまった。汗を拭くのも服装を整えるのも、パソコンにログインしながらだ。

 そのとき視界の隅に誰かが立った。甘いバニラ系の香水の主は、見るまでもなく岬愛美だ。

 こんなときになんだ、といささか不機嫌になりながら目を上げたときだった。

 ばんっ、と、果奈のデスクにピンク色の長い爪をした岬の手が叩きつけられた。

 音に怯んだ直後、鬼女のごとき形相で岬が喚く。


「――――ッ!!」


 すぐ近くで放たれた大声だったせいでなかなか文章として変換されなかったが、しばらく聞いていると耳が慣れて何を言われているか理解する。


「何よあれ! まなみを脅してるつもり!? まじ性格悪いねあんた!」


 理解はしたが、内容に心当たりがない。

 しかしそれを問うには岬の剣幕が凄まじい。これを止めるのはなかなか至難の業だろう。

 意味不明な怒りをぶつけられたせいか妙に冷静になって考えていると、それがさらに岬を煽ったらしい。ぎん、と音がしそうな目つきで睨まれたと思った瞬間、びしっともばしっともつかない音がして、果奈の頬に鋭い痛みが走った。


「痛っ!」


 凍りついたように様子を伺っていた社員たちがそれで動いた。「止めなさい!」「大丈夫ですか」と口々に言いながら岬と果奈の間に割って入り、岬を押し出すようにして連れ出していく。


「離して、離せよ! だってあいつが」

「わかった、わかったから、向こうで話を聞くから」

「い、岩田さん、大丈夫ですか! とりあえずこれで顔を」


 岬の叫び声とどたばたという足音が遠ざかっていくのを聞いていると、今田がティッシュペーパーを差し出してくれた。血が、と言いながら顔を示されて、頬に傷ができていることに気付く。岬の長い爪が掠ったらしい。そうとわかると途端に痛痒くなってきた。


「すみません。手当てしてきます」

「ああ果奈ちゃん、座って。私がやるから」


 お手洗いにでも行って絆創膏を貼ろうと思っていたら、林が備え付けの救急箱を持ってきてくれた。消毒液で濡らした脱脂綿を「染みるわよー」と言いながら傷に当て、絆創膏を貼り付ける手際の良さは「肝っ玉母さん」の本領発揮というところか。しかし二十代も半ばを過ぎて顔に絆創膏とは、落ち着きがなさすぎるようでだいぶ気恥ずかしい。


「申し訳ありません。お手数をおかけしました」

「いいえ、とんでもない。引っ掻いただけだからすぐに治ると思うけど、顔の傷だし、早退して病院で診てもらう?」

「いえ、そこまでではないようなので大丈夫です。それよりも岬さんの様子がおかしかったことの方が気になります」


 林と今田が顔を見合わせる。果奈にはわからない心当たりがあるらしい二人のうち、動いたのは今田だった。


「岬さんは多分、掲示板の書き込みのことを言っていたんだと思います。あの、占いの……」


 社内ポータルの掲示板の占いと、果奈と、岬の関係性がわからない。


(怒鳴れとも書いていたのか?)


 そこまで言われてもぴんときていないと察した今田が画像を表示させたスマホを果奈に差し出した。


「私、営業部に仲の良い人がいるんですけど、今朝通勤中に、危ない感じがするけど大丈夫かってメッセージとこの画像を送ってくれたんです」


 朝から外回りだったみたいで、と今田が言うように、会社の外のコーヒーショップかどこかで開いたノートパソコンを撮影したもののようだ。画像の何枚かに明るい窓や飲み物のカップが写り込んでいる。

 書き込みを順に追い、戻ってもう一度読んで、果奈は訝しく目を細めた。




『嘘つきには天罰がくだる。

 男を弄ぶ魔性はお前の方だ。

 周囲に不幸を振り撒くのも、それを悦んでいるのもお前だ。


 嘘つきども。

 お前たちの悪事を私は知っている。』




(『お前たち・・』……)


 この書き込みを見て岬があのように激昂したということは。


(……ん? でもそれって……)


 引っ掛かりを覚えたのと、どかどかと足音をさせた尾田課長と岬を連れて行った社員たちが戻ってきたのは同時だった。尾田は「仕事に戻れ」と部下たちに告げて、果奈たちのところにやってくると頬の絆創膏を見て痛そうな顔をした。


「顔に傷が残るといかん、特別休暇にしてやるから帰宅していいぞ。病院に行ってこい」

「爪が掠っただけですのでそこまでのお気遣いは無用です。それよりも、このような騒ぎになってしまって申し訳ございませんでした」


「皆さんにも」と席についた総務部の面々、林や今田に「申し訳ありません」と頭を下げた。苦笑いを返されるなか、謝らなくていいと今田がふるふると首を振っている。

 果奈の岩のような態度に尾田は面倒そうにため息を吐く。


「はあ、わかった。詳しい話を聞きたいと鬼嶋課長や部長が言っているからな。だがもし痛むようなら速やかに申し出るように」


 おや、珍しく優しい。果奈を含む全員がそう思った空気が伝わったのか、尾田は気まずそうに不機嫌な顔を作った。


「……子どもが顔に怪我をしたと知ったときのご家族の心中を思うと、だな……」


 こんなときなのに気分屋で面倒くさい総務課長の意外な一面を知ってしまった。しかし果奈の取り柄はそんなことを考えていても顔に出ないところでもある。揶揄いとは無縁の礼儀正しさで「ありがとうございます」と頭を下げた。機嫌を取る意味もあったけれど、感謝の気持ちは本物だった。

 まだ落ち着かない様子の今田には通常業務に戻るように伝え、果奈も仕事を始めた。ただでさえお弁当を忘れてきた日だ、こんなことのために自分も他人も残業することになるなんてごめんだった。


「岩田さん」


 しかし少しもしないうちに「ちょっといいですか?」と鬼嶋に呼ばれてしまった。


 連れてこられたのはいつものワークブースではなく小会議室だった。どうぞ、と椅子に促され「失礼します」と着席すると、鬼嶋はその椅子を一つ空けた隣に腰を下ろした。


「岬さんはいま部長が対応してる。話が終わったらそのまま帰宅させることになったから、それまでここで話を聞かせてほしい」

「かしこまりました」


 二人が鉢合わせしないようにという配慮だろう。思ったより大ごとになったなと考えながら左頬の絆創膏を意識する。

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