悪意と無関心3
「えーっと、それなら、どうして鬼嶋課長に連絡してきたんでしょう?」
意外にも佐伯が口を挟んできた。苛立ちを滲ませる麻衣子に臆することなく、のんびりと首を傾げている。
「よほど不審な点がなければ、誰がファイルを操作したかまでは調査しませんから、消去したのはばれませんよ?」
「復旧できないとなると仕事が増えるからよ。果奈がそっちにかかりきりになると、通常業務があいつや今田さんに割り振られる。それが嫌で、いまになって連絡してきたんだわ。果奈が大丈夫だって言っても鬼嶋課長がそうするから。……ですよね?」
賢明な鬼嶋は明言を避け、穏やかに麻衣子を見返して口を開いた。
「確かに岬さんは勤務態度がいいとは言えないけれど、私は一応上司だから、根拠なく彼女を悪く言うことはできない。データが消えたのは事故で、運良くコピーを取っていただけの可能性もある」
「上司が中立っていいですねー」と余計な感想を述べる佐伯は、麻衣子に鋭く睨まれてもにこにこしていた。
「それじゃあ私はこれで失礼します。今後同じことが起こらないように対策しておいてくださいねー。バックアップを取るのが一番お手軽ですが、どうしてこんなことをやったのかという動機を突き止めて原因を取り除く方がいいかもしれません」
そう言って、佐伯はノートパソコンとケーブルを手に引き上げていくので、果奈は後を追いかけた。呼ぶだけ呼んで、結局部署内でなんとかなりました、なんて無駄足もいいところだ。お礼を言って見送るのは当たり前だと思ったからだ。
情報システム部はフロアが違うため、佐伯はエレベーターホールに向かっている。それを早足で追い抜いてボタンを押し、ちょうどカゴがやってきたので佐伯を促すと「やあどうも、ありがとうございます」と乗り込んでいく。
「わざわざありがとうございました。お騒がせしました」
「いえいえ、これが仕事なんで。どこも大変ですねー、ははは」
それじゃあ、と告げた佐伯に頭を下げ、扉が閉まるまで見送った。
情報システム部は、機器の入れ替え時期の年度始めや、故障や今日のようなトラブルが発生しなければメールかチャット、聞いた話では用件によってビデオ通話でやりとりを済ませるという社員の集まりだ。佐伯はコミュニケーションが取りやすい方だそうだが、やっぱりなかなか癖が強い。
(さすがに『無愛想クイーン』には言われたくないか)
それでも佐伯が果奈に対して噂に関する反応らしい反応をしなったこと、社内の評判など気にも留めていない様子だったのはだいぶ心が安らいだ。人間に興味がないだけなどという評価も聞こえてくるが、それはそれで接しやすくていい。
とにかく、本日の業務はこれにて終了だ。
総務部室に戻ってくると、席についた鬼嶋がパソコンで何か作業中だった。麻衣子の姿はなく、果奈の席に渡したはずの紙袋が置いてたままになっている。
持ち手のところに貼り付けられたポストイットには『気遣い無用。ちゃんと渡せよ。麻衣子』と手書きのメッセージがあった。
「…………」
「中西さん、お先に失礼しますって帰っていったよ。岩田さんももう上がるからと言ったんだけど、寄り道する予定だから気にしないでいい、また連絡するって」
顔を上げた鬼嶋がにこりとして、再び画面に向き直る。
麻衣子が余計な気を回したのは明白だったが、鬼嶋に何も言っていないことを祈るほかない。果奈は紙袋をデスクの足元に置くと、椅子に座り、自身のパソコンから共有フォルダが復帰していることを確認した。
「ファイルのバックアップをどこかに取っておきますか?」
「うん、とりあえず岩田さん宛に添付ファイル付きのメールを送っておいた。これでしばらくの間、私と岩田さんのメールソフトにファイルが残るから」
音もなく鬼嶋からのメールを受信する。件名は「共有フォルダバックアップ」、内容は「よろしくお願いいたします」の文言と自動挿入の署名、添付ファイルだけ。添付ファイルをダウンロードしてみるともちろんちゃんと開くことができる。こんな裏技があったのか、と果奈は感心した。
「一定の期間ごとに外付けの端末にデータを保存するようにしたいから、部長に許可をもらおうか。仕様書を作ってみんなに確認してもらうから、そのときはよろしくお願いします」
「かしこまりました。お手数をおかけして申し訳ありません」
今田が集めてくれたファイルはもう必要なさそうだが、念のため、確認して保管しておくことにする。テンプレートファイルは消えなくても、一部が消えて困ったことにならないとは限らないからだ。
岬のことは決定的な証拠でもなければ犯人扱いはできない。勤務時間中に素知らぬふりをしたことや退勤後に連絡してきた理由は麻衣子の言う通りだろうが、知ったところで反応のしようがないのだから、動機を突き止めたいとは思わなかった。
けれどこういう無益な残業は心から勘弁してほしい。
パソコンをシャットダウンさせて立ち上がると、ほとんど同時に鬼嶋も席を立った。目が合うと穏やかに微笑まれる。
「岩田さんがいてくれて助かったよ。ありがとう、お疲れ様」
「私は何もしておりませんので、お気遣いは無用です」
本当に、ただ定時を超えて会社に残っていただけだ。仕事らしい仕事はまったくしていないのだから、鬼嶋のその言葉は佐伯に向けられるべきものだろう。
そうして引いた椅子を戻したとき、そこに置きっぱなしにしていた紙袋を押し込んだことに気が付いた。
忘れていたかったが、中身は食べ物だ。見なかったことにはできず、スマホや財布などの貴重品とともに手に持った。
「岩田さん」
「はい」
「どこかで何か食べて帰らない?」
びくっとした拍子に、紙袋の中で容器が軽く跳ねる、ぼすっ、という音がした。
相手は上司だ、一度誘われたものを断っているのだから誘いに乗った方がいいのはわかっている。上司と部下の関係を抜きにしても、ちゃんとした理由がなければ感じが悪いだろう。岬のように信頼を損なうのは嫌だ。けれどだからといって食事だけを純粋に楽しめるかというと、きっとそうはならないだろう。この人は何を考えているのだろうと気になってしまうに決まっている。
「……申し訳ありません」
だから果奈の選択は一つだった。
「夕食の支度をして出てきているので、このまま帰ります」
今朝調味料に漬け置きしてきた鶏肉を調理しないと、味が入りすぎて美味しさを損なってしまうから、と自分に言い訳をする。
そして鬼嶋は「そう」といつもと変わらない優しい相槌を打つ。
「ちなみにメニューは?」
「唐揚げです。付け合わせは千切りキャベツとミニトマト、ポテトサラダ。お味噌汁は豆腐とわかめ」
ファミリーパックの鶏もも肉を一気に揚げて、白米と一緒に掻き込む。寝るまでに小腹が空いたら一つ二つ摘んで、残ったものは明日のお弁当だ。ポテトサラダは多めに作って冷蔵庫に入れて明日の夜に食べる。そのときは胡椒やハーブで味を変えると二度楽しめる。
けれどいつもなら心を弾ませるはずの料理は、まったく果奈を明るい気分にしてくれなかった。
唇を結び、紙袋を握り締めて「お疲れ様でした」と踵を返す。
「岩田さん」
それを鬼嶋が呼び止めた。
「――一緒に食べたい、って言ったら、君は困るのかな」
心臓とは本当にどきんと音を立てるものらしい。
穏やかに微笑み、けれど口元に寂しい気配を漂わせる鬼嶋を見つめて、は、と口を開けていた自分に気付いて反応してしまったことを恥じる。飲み会の席の冗談のように自分とは関わりのないものだと聞き流せばよかったのに、それができないのは。
(本気でそう言ってるのがわかるからだ)
飲み込んだ息をゆっくりと、静かに、音も立てずに吐き出しながら、昨夜の麻衣子とのやりとりを思い出していた。
他人に言われたことに悩んでいる。忘れられないでいる。答えが出せないものをずっと考えている。
かなしいって、私といると悲しいって、どういう意味ですか。
――なのにどうして、一緒に食べよう、なんて言うんですか。
立ち尽くす果奈の耳に届いたのは、ふ、という小さな吐息だった。困ったような顔で鬼嶋が「ごめん」と果奈に笑いかける。
「岩田さんの立場で上司の誘いは断りにくいよね。申し訳ない」
いえ、と応じる言葉は声にならなかった。
浅く息を吐いた唇を結んで、視線を落とす。鬼嶋の笑顔を、穏やかな微笑を、その裏側に隠した傷付いた表情をこれ以上見る勇気はなかった。けれどどうしても咎める良心が「次の機会に」「綾子さんのまかない作りのときなら」などと無意味な言葉を必死に紡ごうとする。
(でもそれを言ったら、今度こそ)
結局、何も言うことができず深く頭を下げると、察してくれた鬼嶋が「お疲れ様。気を付けてね」と部屋を出て行った。
これ以上一緒にいないように、そして時間差を発生させてこれ以上行き合わないように、戸締まり作業を残していったのは明らかだった。
一人になった果奈は時間をかけて鍵付きキャビネットの施錠や空調の電源、電灯のスイッチを確認してから更衣室に向かった。定時を超えたせいで人気のない、けれど女子社員の誰かが付け直したらしい香水の香りが残るそこで貴重品を仕舞った鞄を取り、コートを着て、会社を出る。
吹き荒ぶ冬の風に、誰のものにもならなかった塩ケーキの入った紙袋が揺さぶられる。
だからと言ってどうすべきだったのか、果奈にはわからない。
確かだったのは、あんなに楽しみにして心の拠り所にしていた唐揚げも、出来立てのポテトサラダも、味噌汁も、いつものように果奈を癒してはくれなかったということだった。
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