悪意と無関心2
(はあ、唐揚げが遠い……)
とはいえ仕事だ、仕方がない。部屋に戻ると入れ替わりに総務部の社員たちが「お疲れ様です」と退室していく。すると最後尾にいた林が「果奈ちゃん」と呼んで、小さな袋菓子を押し付けるようにした。
「これ、鬼嶋課長と果奈ちゃんに。残業頑張って」
デスクの引き出しに入っていたおやつだろう、四つ五つ連なって売られている吊り下げ菓子のビスケットの袋を二つ渡される。岬とは対照的な林の言動に『無愛想クイーン』も心が和む。
「ありがとうございます、林さん。……お気を付けて」
付け足した言葉にだろうか、林はにこっと笑うと、ふくふくとした手を振って出て行く。
「岩田さん相手に間違いはないと思うが、男女二人きりだという自覚を持つようにな」
最後は尾田課長だった。余計なことを鬼嶋に言い置いて「お疲れさん」と退勤していくのを頭を下げて見送り、総務部側の電灯を消した。
「遅くなりました。こちら、林さんから差し入れです」
パッケージに大きく描かれた幼児御用達アニメのキャラクターを見た鬼嶋は「懐かしい」と吹き出すように呟いて表情を和らげた。
「ありがとう。中西さんとの約束は大丈夫だった?」
「はい。彼女が帰るときに寄ってほしいと伝えたので、速やかに荷物を受け渡すようにします」
「ごめんね、話したいこともあっただろうに」
「特にそういうわけではないので、お気になさらないでください」
昨日食事に行ったし、今日だって麻衣子の機嫌を取っておこうと思っただけだ。だがいつも以上に鬼嶋が申し訳なさそうにしている気がして、パソコンに向き直りながら心の中で首を傾げる。そうして今田が揃えてくれていた書類ファイルを種別ごとに分け、漏れがないか確認しながら、はたとその理由に思い至った。
(そうか。昨日の書き込みのこと、鬼嶋課長も知ってるのか)
だから果奈が友人に相談なり愚痴を言うなりしようとしていると思ったのかもしれない。しかしそうじゃないと言えば改めてこの話題に出すことになってしまうので、果奈としてはこのまま気付いていないふりをして飲み込むほかない。
だから情報システム部の佐伯がノートパソコンを片手に「お疲れ様ですー」と気が抜けるのんびりした挨拶と現れてくれて助かった。
二十代後半、小柄で黒縁の眼鏡をかけた人の好い印象の男性で、誰に対しても穏やかに応対しながら、突然毒を吐く、だいぶ癖の強い人物だ。しかもワーカホリック気味らしく、誰よりも早く出社し退社も一番最後らしいと麻衣子が言っていた。
「えーっと、共有フォルダが消えたって話でしたけど、確かに事務課のフォルダがなくなってましたねー。間違って消しちゃいましたかねえ」
「復旧できそうですか?」
「フォルダ単独だとちょっと難しいですねー。他の部署のデータもまるっと戻しちゃうことになるんで、影響しないところで復帰させて、必要なファイルを移すって感じですかねー」
「失礼します。お疲れ様です」
こんこん、と扉を叩いたのは麻衣子だった。彼女は果奈と鬼嶋、そして佐伯へと順に目をやる。残業の原因がシステム関係のトラブルだと把握できる顔ぶれだろう。
ちょっと待ってと手を振ってから果奈は早足で給湯室へ行き、冷蔵庫から塩ケーキの入った保存容器を紙袋に詰めて戻る。すると空きデスクにノートパソコンを置いて作業中の佐伯と、付き添う鬼嶋、その隣に麻衣子という少々変わった光景が広がっていた。
「ああ、共有の。これは何とか元に戻したいですね」
「そうなんです。岩田さんは作り直すと言ってくれてるんだけど、どうにかできるならそうした方がいいですから」
程よい距離感で笑う麻衣子と穏やかに応じる鬼嶋。なんとも絵になる二人だ。
割って入るようだが「麻衣子」と呼んで紙袋を差し出す。同時にスマホが鳴ったらしい、鬼嶋がジャケットから震える端末を取り出して背を向けた。
「悪かったわね、昼休み来られなくて」
「こっちこそ、わざわざ仕事終わりにごめん。それでこれが例の?」
「そう、ケークサレ。多めに作ったからお裾分け」
軽く持ち上げた紙袋と果奈を見比べていた麻衣子だったが、その顔ににまーっと笑みが広がっていく。いったいどうした、と思う果奈に、にやにやと麻衣子が囁いた。
「私は遠慮してあげるから、鬼嶋さんにあげなさいよ」
「…………」
果奈は黙って紙袋を押し付けた。表情が豊かだったら思いきり睨みつけていただろうぞんざいさで「お疲れ様」と告げると、佐伯の斜め後ろに立ってもう麻衣子を見ない。
そういう気遣いは嫌いだ。友人と思っている麻衣子にやられると、はっきりと腹が立つ。
出会い目的の飲み会を催しながら果奈が折れないと知ると適当なところで手を引く麻衣子だ、今回もこの辺りで手を引くはず。
「…………」
すると、鬼嶋が大きくため息をついて肩を落とした。
まさか会話を聞かれていたのか。ぎくりとした果奈の視線の先で、鬼嶋は突然岬のデスクの引き出しを開け始めて、今度はぎょっとした。
「……これか」
低く呟いた鬼嶋の手には可愛らしいデザインのピンク色のUSB端末。岬の私物だろうか。
鬼嶋がそのUSBを自身のパソコンに挿し込み、操作をして、しばらくもしないうちに大きく肩を落とした。
「すみません、佐伯さん。せっかく来てもらったんですが、ファイルが見つかりました」
「は?」
声を発したのは麻衣子だが、果奈も同じ気持ちだった。のんびりしているのは佐伯だけだ。
「んー? バックアップでもありました?」
「はい。さっき部下から、もしかしたら自分のUSBにあるかもしれないと連絡が来て、残っていることを確認しました。お騒がせしました」
「あ、だったらよかったですね。ちなみにデータって最新のものですか?」
「そうだと思います。岩田さん、見てもらっていいかな」
呼ばれた果奈は「失礼します」と鬼嶋の横に立ち、マウスを借りてファイルを開いていく。
各種書類のテンプレートは問題ない。データ入力を行う表計算ファイルも最新か、少なくとも一時間もかからず最新にできる内容だ。喜びたいところだがそうもいかない。
(……勤務中は知らんふり……退勤後に連絡……外部記憶装置、それも私物……)
突っ込みどころが多すぎるせいで助かったと思っていいものか。
脱力しかけた果奈だったが、そこへ、とたとたとた、とローヒールがフロアカーペットを踏む足音がした。
「お借りしてもよろしいでしょうか?」
鬼嶋が「どうぞ」と言ったので果奈は何事かという問いを飲み込んで麻衣子に場所を譲った。
麻衣子は何故かそのフォルダのプロパティを開いて作成日やファイルサイズなどを確認すると、すうっと表情を消して「やっぱり」と低く呟いた。
「馬鹿じゃないの、あいつ。こんなことして」
言葉遣いが乱れる理由を、麻衣子は「このフォルダ」と画面を指し示しながら主に果奈に向けて話し出した。
「最終更新日時が今日の十四時ごろ。つまり岬は今日の十四時以降、このUSBにデータを移してる」
「ファイルを更新したら日時は変わりますよー?」
「コピーしたデータをわざわざいじる理由はないし、あいつにそういう偽装工作する知恵はない」
ノートパソコンを片付けながら聞き耳を立てていたらしい佐伯の指摘を、麻衣子はばっさりと岬への誹謗を交えて両断する。
「岬愛美はファイルをUSBにコピーした後、わざと原本を消去したのよ」
今田が共有ファイルがないと気付いたのが十六時ごろ。
岬のUSBにあるものはプロパティの日付から十四時代にコピーされている。原本ファイルは岬がコピーを取った後に消えたと思われるため、恐らくこのファイルが最新だろう。
そして何より果奈は、岬が今日ファイルは使っていないと言ったのを聞いた。
「…………」
消え去ったはずのものがコピーとして残っていたのだが、もう素直に喜ぶことはできなくなっていた。
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