悪意と無関心1
(帰ったら唐揚げ。帰ったら唐揚げ)
そう唱えながら翌日出社した果奈を待っていたのは、他社員の物言いたげな視線とひそひそ話、腫れ物を扱うような態度だった。
これは、と思っているとまるで見ていたかのように麻衣子からメッセージが来た。
『昨日の書き込み、スクショ付きでかなり広まってる。
ポータルの一時閉鎖もあんたが鬼嶋課長に頼み込んでやらせたんじゃないかって。』
誰かが送ってきたものなのだろう、スマホで表示した掲示板の書き込みのスクリーンショットが添付されている。いちいち撮影している人間がいて、それを広める人間たちがいるという事実にうんざりしてしまう。
対処しようにも、会社の人間を集めて噂を否定していくなんて非現実的で、かといって麻衣子や誰かに協力してもらえば焼け石に水、逆に果奈がそこまでして噂を払拭しようとしていると思われて悪意ある者たちを煽ってしまいかねない。こういうとき何かしようと動けば動くほどどつぼにはまるものなのだ。
(……ん? このスクショ……)
拡大表示して、違和感の原因が間違いないことを確認する。
と言っても、だからなんだという程度の引っ掛かりだが一応記憶に留めておいて、麻衣子には塩ケーキの差し入れがあること、昼休みか終業後に取りに来るようにと、メッセージ確認済みの意味で送っておいた。
(お弁当は塩ケーキ。仕事が終わったらスーパーで買い物。自分の機嫌を取るための完璧な予定だ)
あとは定時に仕事が終わればパーフェクト、などと考えたことが悪かったのかもしれない。
突き刺さる視線や探る言動を躱しながら大きな波風もなく過ごし、麻衣子からは終業後に塩ケーキを受け取ると連絡を受け、定時まであと一時間となった十六時。
「い、岩田さん……!」と青い顔をした今田が嫌な予感を連れて果奈のもとにやってきた。
「い、いま、よろしいでしょうか……!」
「はい。大丈夫です」
「あの、いまマニュアルを作っていたんですけど、ファイルがなくて……」
「どのファイルですか?」
作成したデータをうっかり消した、ファイルが壊れたということはままある。バックアップデータがなければ作り直すしかない。もちろん今田はそれを承知していただろう、ますます顔を強張らせた。
「……うちの、共有のファイルです」
事務課の共有ファイル。社内ネットワーク上に作成した共有データベースのうち、事務課専用のそこには、各種書類のテンプレートや送付メールの見本、データを入力すべきファイルなど、所属者全員が利用するものが入っている。
パソコンに向き直った果奈は共有フォルダを呼び出し、見慣れているはずの「事務課」の名前がついたものがないことを確認した。悪いと思いつつも表示されている他部署のフォルダを順に開いて、うちのファイルが紛れ込んでいないことを確認する。最後の手段として、最上層のフォルダ上で心当たりのあるファイル名を総検索させながら今田に言った。
「間違って消去した可能性はありますか?」
「午前中、書類を作成するのにテンプレートを使いました。……書き換えたものを間違って保存するのが怖いので、いつも元ファイルを自分のパソコンにコピーして使っていて……だから消したのはコピーだけのはずです」
「これまでコピーしたものがパソコンに残っていないか確認してもらえますか? 書類のテンプレートだけでなく、他のものも」
頷いた今田が急ぎ足で自席に戻っていく。鬼嶋を見れば電話中だ。社用スマホでの通話なので外回りの営業か取引先など外部関係者か。どちらにしても長くなりそうなので、先に岬に声をかける。
「岬さん、いまいいですか?」
「はぁい、なんですかー」
妙に機嫌がいいな、と思いつつ薄い笑みを浮かべる岬に向き合う。
「事務課の共有ファイルが見当たらないんですが、どこかに移動させたなどの心当たりはありますか?」
「はぁ? ろくに調べないでまなみを疑うんですか? ひっどぉ」
(誰も、そんなことは、言っていない)
いま私が言ったことを正確に書き出して読み上げてみてから言ってほしい、と思いながら質問を変える。
「最後の使ったのはいつですか?」
「今日は使ってませぇん。午前は来客対応で、午後は郵便物の仕分けと発送やってたんでー」
「わかりました。もし共有ファイルのコピーが残っていたら送ってください。最低限復旧します」
「はいはい、わかりましたー」
その直後「めんどくせー」と聞こえるように言うのが岬の悪いところだと思うが、そこまで指導する義務はないと思うので聞き流す。
一度席に戻ってメモを書き、鬼嶋の元へ行くと、通話中の彼が目を上げるのに会釈をしてからそれを置く。『お電話が終わりましたらお時間をください』という文章を確認した鬼嶋が頷いたので、もう一度軽く頭を下げた。
(情シスに連絡して復旧可能かどうか、鬼嶋課長から話を通してもらわないといけないからな)
今回のように個別に対応してもらえるかどうかがわからないときは、やはり役職についている鬼嶋にお出まし願うとスムーズに事が運ぶ。だから果奈は最悪のパターンを想定して対応を考えておいた方がいいだろう。
復旧できないとなると、業務に支障のないところまで取り繕うことが最優先だ。
書類等は過去のメールから遡れば何とか拾えるし、請求書も同じだ。紙で出力したものを確認してもう一度ファイルを作れば大丈夫だろう。問題は随時最新の値を入力している顧客情報や、営業、販売から回されているデータファイルだ。事務課でバックアップを取っていなかったことが悔やまれる。
「岩田さん」
添付メールを総ざらいしながら過去のファイルを持っていそうな心当たりを考えていた果奈を、電話を終えた鬼嶋が手招いた。
「お忙しいところ申し訳ありません。報告と相談があるのですが、いまよろしいでしょうか?」
「はい」と答える鬼嶋の目がおかしそうに笑う。果奈のこの口上がそこそこのトラブルの始まりを告げるものだとすっかりわかってしまっているからだ。
それでも業務に差し障りがある内容と知るとその笑みは引っ込んだ。自分のパソコンでも共有フォルダを確認して、うーん、と唸る。
「確かに、見当たらないな。データが入力できないのは困るね」
「バックアップにお心当たりはありますか。会議などでお使いになったりは……」
「いや、利用するときは紙に出力して、会議後は回収してシュレッダーにかけてる」
情報リテラシーと危機管理能力が高い。大変ありがたいことだが、今回に限っては困ってしまった。
「まずは情シスに連絡して対応可能か確認してもらおう。作業に入ってもらえるようなら、岩田さん、残業で立ち会いをお願いしてもいいかな」
「かしこまりました」
「岩田さんたちはひとまず今日の仕事を終わらせてください。ファイルのことは後でいいからね」
今田と岬にも言って鬼嶋は内線をかけ始めた。果奈も机に戻り、指示通り、途中になっていた議事録承認の連絡メールを書き終えて送信する。こんな時間にメールを送られても困るだろうが仕方がない。議事録は出力したものをファイリングして終わりだ。
「岩田さん。使えそうなファイル、まとめて共有フォルダに入れておきました」
「ありがとうございます、今田さん」
共有フォルダがあったところに『事務課(仮)』のフォルダがあり、その中に『今田』のフォルダがある。過去に彼女が使用した依頼書、議事録、請求書などがそのまま詰め込まれている。この短時間で彼女の受け持ちを網羅していて、実にありがたい。
「じゃあまなみの分はいらないですよねっ。今田と被ってるもん」
そう言うと岬は手早くパソコンをシャットダウンさせて、机の上のスマホや水筒などの私物をてきぱきとまとめていく。しばらくして背後の総務部の面々も同じように立ち上がった。時刻は十七時。総務部と事務課の定時だ。
「今田さんも、仕事が終わっていたら上がってください」
不安そうな顔で岬や周囲の様子を窺う今田に言ったのは、果奈の机までやってきた鬼嶋だった。
「岩田さん、情報システム部がパソコンを確認したいと言っているからいまからこちらに来てくれるそうです」
「わかりました。立ち会います」
そこで、麻衣子と約束していたことを思い出した。
「申し訳ありません、友人に連絡を入れるので五分ほど離席してもよいでしょうか」
「もしかして予定があった? だったら」
「いえ、人事部の中西に荷物を渡す約束をしていただけなので、予定というほどのものではありません」
物は冷蔵庫に入れっぱなしの塩ケーキだ。会社の玄関で受け渡す手筈だったが、この様子だとこちらに寄ってもらった方が早いだろう。
鬼嶋の許可を得ると、果奈は引き出しに入っていたスマホを持って廊下に出た。いまどき勤務中にスマホを触ることや私用の連絡をすることに目くじらを立てる人も少ないだろうが、上司の鬼嶋や、後輩の岬と今田、総務部の面々もいるのでけじめはつけておきたかった。
『残業になった。仕事が終わったら総務部室に寄って。』
すぐ既読がついて『OK』のプラカードを掲げるパペット人形のデジタルスタンプが送られてくる。
『トラブった? またあいつか?』
麻衣子の言う『あいつ』は恐らく岬愛美だろう。『また』と言うべきなのは色々と被っている果奈であって麻衣子ではないのだが、どうも彼女にはそういうイメージがついてしまっているらしい。
『不明。
それじゃよろしく。』
長くなりそうなやり取りをぶった切って部屋に戻ろうとしたときだった。「お疲れ様でーす」と満面の笑みで言った岬が廊下にいた果奈に気付くと、表情を消し、つまらなさそうに髪を弄びながらこちらにやってくる。
「お疲れ様です」
「二人っきりの残業になってよかったですねー?」
すれ違い様に言われて足を止める。
果奈に向けられたその笑みの名を悪意という。
「岩田さんがそういう人だって思いませんでしたよぉ。さすが魔性。そういう態度もわざとですか? すごーい、まなみには無理ぃ、そこまでメンタル強くないしー」
首を傾げて巻き髪をこぼして、ぽってりさせた唇でにこにことそんなことを言うので、果奈は心の底から思った。
(鏡を見ろ)
果奈にはそういうことを言っても許されると思っているのか。もし第三者がこの会話を聞いたなら岬の方が加害者だと断定されるだろうに。それともそれを理解する感覚がないのか。
「何の話かわかりません」
「あ、すごい、とぼけた。面の皮が厚いって言うんでしたっけ?」
「お疲れ様です」
時間の無駄だと判断して踵を返したが、定時を迎えていたからだろう、さすがに岬も追いかけてこなかった。
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