騒ぎの予感4
自分の端末を気にしたが、鳴っていたのは麻衣子のものだった。鞄の中に入っているものと触れ合っているせいで振動音が大きく聞こえたようだ。スマホを取り上げた麻衣子は画面を確認した途端、一瞬にして表情を消した。
「部長だわ」
この場合の部長とは麻衣子の直属の上司である人事部長で、それを果奈に告げるのは電話に出るという宣言だ。
果奈が頷いたのを確認して、麻衣子は応答ボタンを押した端末を耳に当てる。
「お疲れ様です、中西です」
口元に笑み、目を細めて、発した声は高くはっきりと。相手が目の前にいなくてもにこやかに。電話応対のお手本のような姿に果奈は(さすが……)と思いながら残った料理を片付けていく。
(そういえば所属が離れてじきに一年なんだよな……。この感じだとそれなりに上手くやってるのか)
コミュニケーション能力の高い麻衣子はいずれ花形部署に異動になるか同じ部内の役職に付くだろう、それなりに上手くやっていくはずだと思ってさほど心配していなかったが、順調そうだとわかったらわかったでそれなりに嬉しいし安心する。
仕事の連絡ならうっかり漏れ聞くのも悪いだろうと、果奈も鞄からスマホを取り出した。新着通知が表示されていたメッセージアプリを開くと未読状態の山村のアカウントが最上位に現れる。
「…………」
面倒だという言葉を飲み込んで、未読通知を消すためにアカウントを表示させて戻す動きを機械的に行う。
特に返信が必要な連絡が埋もれていないことを確認して、今日の夕方のニュースの見出しを眺めているうちに、麻衣子が通話を終えていた。
「ポータル、再構築することになりそうって」
麻衣子がこの件を報告した人事部長が在社していた役職付きを集めて根回しをしたらしい。作ったまま半ば放置されていた社内ポータルサイトを使いやすくするという名目で、システム周りの諸々の見直しを行うよう会議にかけることになったそうだ。
「そうなればしばらくサイトは閉鎖、そのうちみんな掲示板のことを忘れるわ」
麻衣子はそう言って、残っていたレモンサワーを飲み干し、冷めた料理に手を付けていく。同じように箸を動かして料理と飲み物を先に平らげた果奈はしばらくその様子を眺めて、はた、と気が付いた。
(……私のことを心配してくれた?)
掲示板の書き込みの報告と相談をしながら、ポータルサイトについて思うところを人事部長に述べていたとしたら。それを受けた人事部長が動くと約束し、結果が出たら教えてくれるよう依頼して、先ほどの連絡となったのだとしたら。社内ポータルとはいえ根拠のない噂をネットに流された果奈を慰めてくれたのか。
言葉にして確認して、お礼を言うべきか。迷っている間に「食べ終わったら解散で」と告げられてしまい、話をする機会を逸してしまった。
だからその後、帰宅した果奈は冷蔵庫にあった野菜とチーズを使って塩ケーキを焼くことにした。自分の明日のお弁当と、麻衣子への差し入れだ。
塩ケーキはケークサレと呼ぶ方が通りがいいかもしれない。フランス発祥の惣菜ケーキをいう。
小麦粉とベーキングパウダー、バター、卵、砂糖に、オリーブオイルと牛乳を加えたものが基本の生地だ。そこに具として肉や野菜を混ぜ込んで焼く。少しだけ残ってしまった野菜などを一気に消費したいとき、果奈は鍋かオムレツかこの塩ケーキを作ることが多い。
冷蔵庫に入っていたベーコン、たまねぎ、ちょうど一本だけ残っていたエリンギと、作り置きにしていた茹でほうれん草を細かく刻んで、コンソメと塩胡椒で味をつけた後、耐熱容器に入れてレンジで二分ほど加熱しておく。フライパンで炒めた方がいいに決まっているが、洗い物をしたくないという不精者の強い味方が電子レンジだ。
その後は電子レンジをオーブンモードに設定して余熱を始め、生地を作り、焼き型にクッキングシートを敷いて、荒熱を取った具材と混ぜ合わせていく。
(おっと、忘れるところだった)
塩ケーキなのにチーズがないなんてチョコチップクッキーなのにチョコが入っていないくらいの大失態だ。
そう言えば、それを聞いた十人中七人が果奈の正気を疑うだろう。そうでない三人のうち、何を言ってんだかと呆れるのが麻衣子、らしいと綾子が笑い、同じような事例を出して共感してくれるのが鬼嶋といったところだろうか。
「…………」
ああ、まただ。また、鬼嶋のことを考えている。
ため息を落として、無心で生地を混ぜ、一滴も一欠片も無駄にしないという執念でもって焼き型に流し入れる。
そうして、使った道具、お弁当箱とスープジャー、水筒など洗い物をしているうちに余熱が完了したのでオーブンで焼き始める。焼いている間は手持ち無沙汰になるので、明日のスープを考えたり、冷蔵庫の中身を確認して買い出しの予定を考える時間だ。
(塩ケーキに合わせてコンソメスープか、コーンポタージュだな)
スープジャーに粉だけ入れて、昼食時に会社のポットで熱湯を注げばいい。スープを作るのも楽しいがこうして手抜きをすることもまた必要だ。
(年末が近くて仕事は忙しくなってきたし、掲示板の件は別にしてもトラブルは絶対起きるだろうからな。お弁当は揚げ物と肉、手の込んだものを作らないと)
残業でなければ帰りにスーパーに寄って食材を買いつつ、クリスマスの料理のための下見をしておく。そのときお手頃価格だったらローストチキン用の肉を買って冷凍してしまおう。チーズやシャンパンもだ。
まずは明日、出勤前に鶏肉を漬け込んで帰ってきたら唐揚げを作る。
スマホのメモアプリで買い物リストを記入していると、メッセージアプリの通知バナーと山村の名前が現れた。
いつものことなので何とも思わないが、それが二回目、間を置いて三回目と続くとさすがに眉が寄る。
「…………」
――そろそろはっきり言った方がいいと思うわ。
(……こっちのことなんだろうか)
綾子の直感はあやしのことをよく知らない果奈にも本物だとわかる。安易な助言はせずに大きく踏み込んでこなかった綾子がそう言葉にしたのなら、恐らく、何か行動を起こさなければよろしくないことになるのだろう。だがしかし。
「……はっきりしなければならないことが多すぎるんだよなあ……」
大きくぼやく果奈に、電子レンジがまるで返事をするように加熱終了を知らせた。
要領が悪く不器用な果奈には荷が重いが、一つ一つ片付けていくほかない。塩ケーキを切り分けるように簡単にはいかなくても。
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