騒ぎの予感3

「それで、どうする?」


 レタスの串にかぶりつきながら麻衣子を見る。噛んだ途端、しゃっきりとした歯応えが残るレタスとベーコンの旨味が溶け出した汁が溢れ出した。机に飛んでしまった飛沫をペーパーナプキンで拭いながら答える。


「どうするって言われても、どうもしない。仕事に支障を来すようになったら対処する」

「そう言うと思った。こっちに任せてくれたら何とかするけど?」

「絶対に止めて」


 綺麗な顔を歪めて悪い笑みを浮かべる麻衣子にぴしゃりと言って、飲み物のメニュー表を渡す。素面で話したいから烏龍茶を選んだのだろうけれど、ここはさっさとアルコールで思考力を鈍らせてもらおう。


 だが麻衣子の心配もわかるのだ。彼女のように付き合いが長くなければ、果奈は気難しい、常に不機嫌に見える人間だ。それはつまり、よく知らない、知られていないということ。そういう人たちが、果奈は「魔性」だの「キープがいる」だのという話を聞いたなら、そうだったのか、と信じてしまっても仕方がない。

 さらに言えば、果奈を敵視している岬愛美のこともある。彼女とその仲間たちがこの件に便乗して根も葉もない噂を流したり攻撃してきたりしても不思議ではない。


(…………ん?)


 そのとき、ふと、ある考えがよぎる。


(いや、まさかな。さすがにそこまで暇じゃないはず……)

「果奈」


 メニュー表から目を上げた麻衣子が探る目をしている。

 それを真っ直ぐに見返して、何でもないと意思表示をしながら「ジンジャーエール、お願い」と告げる。呼び出しベルでやってきた店員に飲み物を頼んだ後、麻衣子は机に沈み込むみたいに「ああ、もう」とため息を吐いた。


「こういうことになるから恋人がいた方がいいんだって、何度言ったらわかるのよ」

「必要ないって何度言えばいいの」


 学生時代から繰り返したやりとりだが、このときの麻衣子は違った。そうじゃない、と果奈に向かって身を乗り出す。


「恋愛しなくちゃいけない、恋人がいないと不幸っていう話じゃないの。付き合っている人がいるっていうのはある一定の層の人間にとって、他人とそういう関係を構築できる、コミュニケーション能力を備えているという目安になるのよ」


 整えられた長い爪が、こつん! と果奈には見えないものを叩き示す。


「人間関係は煩わしいし、面倒臭い。でも時々自分の身を守るものにもなるの」

「それなら恋人じゃなくてもいいよね」

「そうよ。友人や趣味仲間がたくさんいるというのでも構わない」


 果奈のささやかな反論を、麻衣子はさらりと受け流す。


「でも恋人ならあんたを守ってくれる。もしかしたら家族よりも。あんたにはそういう人が必要だと、私は思う」

「麻衣子、私は」

「友達をやっている私の気持ち、考えたことないでしょう。あんたを悪く言われて、勘違いされて、嫌な感じで笑われて。こいつら何にもわかってないって鼻で笑えるときとそうじゃないときがある。悔しいのよ、すごく」


 そう一息に言って、机に肘をついて顔を半分隠すようにする麻衣子に、果奈は逆の方向へ目を逸らした。じっと見ていればきっと麻衣子の目に光るものを見つけてしまう。自分を曲げようがないのに謝りでもすれば、さらに彼女を怒らせてしまうとわかっていたからだ。


 お待たせしました、とやってきたジンジャーエールとレモンサワーが手を付けられないまま、雫を滴らせる。


 もう好かれようとはしない。好かれたいと思わない。好かれるためにしていると思われるのはごめんだ。愛想がない、付き合いづらいと言われても、嫌われたとしてもそれでいい。果奈自身がそう思っているものを、麻衣子が悔しいと感じていると初めて知った。

 でもどうすればいいか、果奈にはわからない。


 冷えつつある残りの串を黙々と咀嚼していると最後の串が来た。うずら卵、焼き餅、フライドポテト、焼き鳥のたれとねぎま串が一本ずつ。

 新しい割り箸を取り出し、ねぎまの串を取り外して長ねぎを取り除いたその皿を麻衣子の前に置く。


「聞きたいことがあるんだけど、いい?」


 皿を見下ろした麻衣子が肘を外して「何?」と果奈に向き直る。


「それなりに親しくしていたと思っていた人が自分のことを『悲しい』と感じていた。この場合考えられるその人物の本心とは?」


 麻衣子は凄まじく訝しい顔をした。

 そうなるだろうなと放った問いの複雑さを思いながら、追加された長ねぎを咀嚼する。

 これまでの野菜巻きと違って、ちゃんと焼き鳥として焼いたのだろう。溶けた食感と素材の甘さに、鶏肉の風味が移り、直火で焼いた香ばしさとわずかな苦味が感じられる。


「……悲しいと感じていたって、それは、あんたが誰かにそう言われたって話?」


 視線だけ上げて黙秘する。この流れで鬼嶋の「悲しい」発言の話をすれば間違いなく終電コースだ。

 難しい顔をした麻衣子が嫌いな長ねぎが消えたねぎまの鶏を口に運び、レモンサワーを飲んで、斜め上を見る。


「『悲しい』ねえ……切ない、だったらわかるんだけど」


 普通に生きていて「この人と一緒にいると『悲しい』気持ちになる」という状況は恐らく滅多にない。切ない、苦しい、辛いではなく『悲しい』。果奈自身、誰かにそう思ったことはこれまで一度もなく、想像もできない。麻衣子もこれというものが思いつかないようだった。


「悲しいと感じたってことは、その人を悲しませる言動をしたってことじゃない?」

「……やっぱり、そうか……」


 決定的な出来事はこれだという確信はないけれど、そう思われても仕方ないだろうという気はしている。無愛想、怖い、素っ気ないと言われてきたけれど、そこに『悲しい』が加わったわけだ。


(でも、それならどうして外出に誘うんだ?)


 悲しいというネガティブな感情と行動をともにすることは両立できるものなのだろうか。

 わからない。人の気持ちをなるべく気にかけずに生きようと決めて一般的な人付き合いも最低限にしてきた果奈に、鬼嶋の発言も行動も未知数すぎる。


「めずらしい。というか、初めてじゃないの? あんたが他人に何か言われたことで悩んでるのって」


 果奈は目を見張った。


 確かに、そうだった。そもそも好かれたり嫌われたりという他人の評価から逃れたのが果奈のいまなのだ。たとえ岬愛美が嘲笑しようと、尾田課長が男だったらよかったのにと言おうと、そうですかと聞き流してまともに取り合わないようにしてきた。なんならこういった手合いやその発言は関係が切れた途端に忘れるよう努めている。


 だというのに、鬼嶋の発言のことをずっと考えてしまっている。


 何故そんなことを言ったのか、それでも外出に誘う理由は何か、そして果奈のことをどう思っているのか。次から次に答えの見つからない問いにぶつかっては、わからない、と結論を出して、気付いたときにはまた考えている。


(私、どうして……)


 ぶーっ、ぶーっ、とスマホの震える音がして我に返った。

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