騒ぎの予感1

 迫る年の瀬、そしてクリスマスの存在が街の風景のみならずカレンダーの絵柄などに主張されるせいで、この月は職場の誰もがどことなく浮かれて見える。

 むすび食品株式会社は業務内容の性質上、年末ぎりぎりまで出勤だ。全体としては仕事が少なくなるため、休暇前後に有休を取得して長く休む社員もちらほらいる。もちろんクリスマスと前後の三日間も有給取得者が増える日でもある。


「あの……本当に休んで大丈夫ですか? 岬さんも休むって言ってたような……」

「はい。この日は今井さんと岬さんが有休休暇です」


 ニットやコートがありがたいこの季節こそ今井にとって最も過ごしやすい時期だろう。薄手の長袖のニットと軽そうな素材のパンツを合わせた身軽な格好をしている彼女は、冬になる頃には仕事や人間関係が順調に構築されてだいぶ表情が明るくなっていた。

 そんな彼女の顔が不安そうに曇っている。好きなアーティストのクリスマスコンサートのチケットを譲ってもらえることになった、地方公演なので仕事を休みたいが問題ないか、とおずおずと聞いてきたときと同じ顔だ。やっぱり出勤すると言いかねないので「大丈夫です」と果奈は事実を告げた。


「いまのところ急ぎの仕事はありませんから、引き継ぎさえしてもらえれば、私一人で問題ありません」


 仕事が溢れたとしても持ち越していいかどうかの区別はつく。たとえ引き継ぎがなかったとしてもどうにかできる、それがいいことかどうかは別として。

 突き放した言い方に今井は怯んだ顔をしたが、果奈がそういう人間だと思い出したのか、これから提出する有給休暇申請書を手にこっくりと頷いた。


「……それなら、お休みをいただきます。何かあったら仰ってください、時間休暇にして出勤しますから」

「そうはなりませんから安心してください」


 一年も経っていない後輩に休暇を返上させて出勤させるほど不甲斐なくはないつもりだ。「休暇理由は空欄で大丈夫です」と念のために説明してから仕事に戻る。少ししてちらりと目を上げると、申請書類に記入する今井の顔に抑えきれない笑みが浮かんでいた。そこまで楽しみなものがあるのなら仕事のことは忘れて存分に楽しめばいいと思う。


(まあ事前に休んで大丈夫かと聞いてくれるだけましだしな)


 倉庫に行ってくると言って小一時間戻ってこない岬愛美を思う。

 岬は今井と対照的で、休暇を取得する日をすり合わせる気もないようだった。勤務表を兼ねたカレンダーのデータを見なければ彼女が休暇を取っているとは知らずにいただろう。『岬愛美:有休』の表示は鬼嶋の入力によるもので、すでに休暇申請が通っていることを意味していたのだから。

 休暇の取得は自由でも、同じ部署にいる人間としては、全員が休暇で不在にすることを避けるために「休みます」の一声が欲しいところだが、岬愛美にそれを要求するのは無理だろう。すっかり諦めた果奈は彼女とのコミュニケーションを可能な限り削減しつつある。そしてこの件で声をかけたが最後、クリスマスに予定がないなんて可哀想、と何に同情されているかわからないことを言い出すに違いない。


(……チキン、仕込むか)


 骨付きの鶏もも肉をきっちり仕込んで、二日三日くらいかけて食べ切ったならきっと達成感がある。揚げたてのフライドポテトとサラダに、お高めのチーズ、そしてケーキ、シャンパンと炭酸ジュースがあれば最高の食卓だ。


 そうしよう絶対にやってやろうと心に決めて、カレンダーを一瞥して買い出しの日をおおまかに確認する。買い物は一週間前、ケーキは当日の帰宅時が妥当か。

 楽しみを設定した果奈はその後ひたすらモニターの前でキーボードを叩き、内線を取り、過去書類を繰るといういつも通りの業務をこなして定時退勤を迎えた。


 昨日が副業日だったので鬼嶋宅に寄る必要はなく、普段なら直帰するところだが、何となく寄り道したい気分だった。

 会社を出たそこでスマホで近隣のチェーン店以外のカフェやレストランを検索し、食べに行こうか買って帰ろうかを考える。


(ハンバーグ……オムライス……シンプルに洋食の定食……アジフライもいい……いやここは新鮮な刺身か……)


 店に行くなら作り立てが美味しい揚げ物か、贅沢をして海鮮か。テイクアウトなら海鮮丼はマストだろう。そうやって贅沢のために真剣に検討していたときだった。


「ちょっとそこの、仇を見るみたいにスマホを睨んでるお嬢さん」


 知った香水を鼻先に感じて顔を上げると、白のダウンコートとグレージュのマフラー、ショートブーツという出で立ちの麻衣子が「どーん」と言いながら肩をぶつけてきた。


「お疲れ様。そんなところで何してんの。誰かと待ち合わせ?」

「私が、会社の前で待ち合わせるような人に、あなたは心当たりがあると?」


 あり得ないだろう、と確認のつもりで言えば、麻衣子はほっとしたように深く息を吐いた。


「そうよね、うん、あんたはそうだわ。まったく、いったい誰が出どころなんだか」

「麻衣子?」


 何を言い出したのだろうと愛想のない顔をしかめる果奈に、「ちょっと時間ある?」と麻衣子は妙に真剣な顔をしながら顎をしゃくる。

 今夜は美味しいものにありつけそうだったけれど、少しばかり嫌な予感がした。

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