揺れる心
すっかり鬼嶋の担当になった洗い物が終わったのを見届けて、早々に暇乞いをする。靴を履いていると、見送りに出てきた綾子の後ろからコートを羽織った鬼嶋が現れ、スマホとキーケースをポケットに押し込んで言った。
「何か買っておくものある? 寄るとすればコンビニかスーパーだけど」
「急ぎじゃないけどみかんとバナナ、あとぬれ煎餅かぬれおかき」
「ぬれ煎餅? また変わったものを……」
やれやれという顔をしながら靴を履いた鬼嶋が「いってきます」と告げて扉を開ける。
「果奈ちゃん」
「はい」
鬼嶋に続こうとしたところを呼び止めた綾子に手招きされ、側に寄る。
「――そろそろはっきり言った方がいいと思うわ」
それは扉の向こうにいる鬼嶋のことか。それとも一方的なメッセージを送ってくる山村のことか。
黙り込む果奈に綾子はそれ以上のことは言わなかった。「気を付けてね」と手を振られて「おやすみなさい」と一礼した果奈は、冬の冷気がなるべく入り込まないよう素早く外に出た。
廊下で待っていた鬼嶋が施錠して歩き出したその後ろに続く。
寒さが本格的になると、鬼嶋は果奈を自家用車で送ってくれるようになった。すでに何度か固辞し、季節柄最寄駅から自宅までさすがに歩かせられないと主張する鬼嶋に押し負けることが続いていたが、うっかりそれを綾子の前でやり「ガソリン代くらい私が持つわよ」の一言で決着がついてしまって、いまに至る。
(わざと綾子さんの前で話題に出した気がするんだよな……)
すでに記憶は薄れているが、いつもなら帰り道でその会話になるはずが、そのときに限って食事中に今日も送っていくからと言われたのだったと思う。やっぱり断った果奈と、譲らない鬼嶋の応酬を一通り聞いた綾子がどのような結論を下すか、彼はしっかり予想していたのだではないか、なんて。
助手席に収まった果奈がシートベルトをしたのを確認して、鬼嶋が車を発進させる。最初はカーナビで最寄りのコンビニまでの順路を確認していたが、それも必要なくなったらしい。いつの間にかそれだけの付き合いになっている。
「岩田さんの明日のお弁当は?」
不意に鬼嶋が言って、反射的に冷蔵庫の中身を思い浮かべる。
「ハムカツと卵焼き、ブロッコリーのオイル漬けにします」
「オイル漬け? 美味しそうだね」
「弊社の『黒酢と国産たまねぎのドレッシング』に塩と醤油を足したもので漬け込みます」
ブロッコリーの房に味が絡んでとてもいい副菜になる。しっかり水切りをするのがコツだ。
果奈にとって多種多様な味付けのドレッシングはお手軽な漬けだれだ。夏場ならきゅうりやトマトなどを漬け込めばいいご飯のおともになるし、オイル系ドレッシングで刺身を漬けておくと最高のカルパッチョが食べられる。
「ドレッシングか。いいね、俺も何か浸けてみようかな」
そこで「何か作ってよ」と言わないのがこの人のいいところだ、なんて。
(何様なんだ、私は)
人様を比べられるほどの人間じゃない。暗い色に沈んで鏡のようになった窓ガラスの無愛想な顔を見るともなしに見ていたときだった。
「休みの日、一緒にクリスマスマーケットに行かない?」
どきっ、とも、ぎくっ、ともつかない動悸を感じた果奈は一瞬眉を寄せ、可能な限り己の強張りを隠しながら静かに答えた。
「申し訳ありません。帰省する前にこちらで済ませておきたい用事や大掃除をする予定です」
年末年始休暇は最終日以外は実家で過ごす予定だったから、今月の休みは少しずつ大掃除を消化するつもりでいた。けれどわかっている、一人暮らしで大掃除に固執する必要はないことも、休日すべて使っても時間が余るということも、一日二日外出したとしても果奈の予定には支障がないということも。
無愛想クイーンの本領を発揮して事務的を告げる、人の言うところの冷たい物言いをすると、慣れているだろう鬼嶋は「そうか、残念」とからりと笑ってすぐに退いた。
「それじゃあまた今度」
また誘ってくださいと言うべきところだとわかっていたが、果奈は「申し訳ありません」と軽く頭を下げた。
行く宛のない視線を向けた窓には、どこか痛みを感じているような自分の顔が映っていた。
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