第4話 傷心は唐揚げでも癒せない

頭の中のボウル

 ――かなしい、と思われている。




 レンジが加熱終了のメロディを歌って、果奈ははっと我に返った。じゃがいもを茹でる鍋のぐつぐつと煮えた泡を見つめたままぼうっとしていたらしい。


(集中しろ。調理中に怪我なんてしたら迷惑にも程がある)


 再びレンジが鳴る前に扉を開けて、加熱したブロッコリーを取り出して荒熱を取る。

 鍋の中のじゃがいもに菜箸を突き刺してしっかり火が通っているか確認したら、三つの耐熱容器にブロッコリーとじゃがいもをそれぞれ分けて入れる。その上に先んじて作っていたツナ缶とくし切りにした玉ねぎを炒めたものを載せ、溶けるチーズをたっぷり振って、オーブントースターで美味しそうな焦げ目がつくまで焼く。

 キャベツの入ったコンソメスープを弱火にかけて温めながら、焼き上がりまで洗い物など片付けをして待つ。


 二つ目の皿をトースターで焼き始めたところで、すぐそこのリビングのドアが開いた。


「ただいま」


 誰だと問う必要もない、この家の主である鬼嶋だ。


「おかえり」

「……おかえりなさい」


 テレビを見ながら告げた綾子にコンマ一秒遅れて会釈した果奈は、拭き終わったはずのシンクを再び磨く手元に視線を落とした。

 帰宅を告げた後に鬼嶋は着替えるために自室に行く。いつものように彼がリビングを去ると、果奈の肩からふっと力が抜けた。続いてため息を吐きそうになるが、自制心で飲み込んだ。


(……会社だとそうでもないんだけど、自宅だとな……)


 綾子のおつかいでカフェに出かけた後に鬼嶋宅へ寄った、あの日。

 電話をするために離席した後、盗み聞きになってしまった鬼嶋と綾子の会話がずっと頭から離れないでいる。


 私は、かなしい、と、思われている。


 何が、とか、どういう意味か、なんて聞けるはずはなく、その日はまかない作りのときと同じように鬼嶋に家まで送られ、翌日会社では同様に愛想なく仕事をし、指定日にはこうして鬼嶋宅で食事を作っている。

 会社では上司と部下の関係以上でも以下でもないし、年末を控えて仕事量が増えていることもあってしばらく忘れていられるが、それ以外はだめだ。特に鬼嶋宅だと、あのときの感覚を思い出して無意識に呼吸が浅くなったり身体を強張らせていたりする。


 何がかなしいのか。

 どういう意味でかなしいと感じるのか。


 沸騰する鍋を見ながら。無駄にシンクを拭きながら。オーブントースターが鳴るのを待ちながら。ぐるぐる、ぐるぐると、ボウルの水を泡立て器で混ぜているような感覚で繰り返し考えている。


「鳴ったから出していい?」


 にゅっと後ろから腕が伸びてきて悲鳴をあげそうになった。


「鬼じ、っあ!?」

「うわっ!」


 そこがキッチンだったのが悪かった。振り返りながら天板についた後ろ手が滑り、大きく姿勢を崩した果奈を、驚きの声を上げた鬼嶋が抱き留める。


 時間が止まったような間の後、はー……、いう深いため息が耳元で聞こえた。


「頭は打ってないね?」


 そうなる前に鬼嶋が果奈を引き寄せたので負傷は免れていたが、それよりもメンタルが重症だった。

 急激に血が上った顔が熱い。ぐらぐらと彷徨う視線は、しかし必死に避けようとしていたはずの鬼嶋にふうっと引き寄せられる。


(…………目の色、緑っぽい……?)


 鬼嶋は全体的に色素が薄く、日が透けると髪が金色っぽく見えるときがあるが、こうしてまじまじと瞳の色を確認したのは初めてだった。ただの薄茶ではない、緑がかった灰色を帯びた色をしていたらしい。きらきらと光る綺麗な目、綾子と違って虹彩が人間と同じなのが不思議なくらいだ。


(って、私は何を考えてるんだ)


 現状を把握することを放棄したい気持ちが、思考を別方向に飛ばしたようだ。とりあえず身体を自分で支えられるよう床に手をついて、スリッパの脱げた靴下の足が再び滑ることのないよう、足元を確認する。


「申し訳ありませんでした。もう大丈夫です」


 未だ忙しない心臓を宥めながら声をかけるが、鬼嶋は何故か動かない。自力で立とうにも背中はキッチンカウンターの引き出しに貼り付いていて、彼が退いてくれなければ身動ぎした途端どこかに触れてしまうような距離だ。

 目を覗き込みそうになり、慌てて思い直して顔を俯かせる。そうして思う。


 いま、私の姿は、この人の目にどんな風に映って見えるんだろう?


「…………」

「…………」


 次の瞬間、ビーッビーッ! と鋭い警報が鳴って二人してびょんっと飛び跳ねた。


(鍋!)


 長時間火にかけて高温になったのでコンロが自動停止したのだ。揚げ物をしているとよくあることだが、今回はやけに物騒に聞こえてしまい、わたわたと立ち上がってコンロの点火ボタンをオフにする。

 果奈が激しい動悸にこっそり喘いでいたそこへ、背後から「うわっ!?」と鬼嶋の叫び声がして、今度こそ心臓が破れるかと思った。


 キッチンの入り口を見れば、そこには妖しいくらい魅力的な笑顔を浮かべる綾子の姿。


「……そんなところで何してるの」

「それはこっちの台詞なんだけど? ばたばたしてたみたいだから心配で見にきてあげたんじゃない」


 心配していたという顔じゃないと思ったが、果奈は背を向けることで言葉を飲み込み、残っていた耐熱皿をオーブントースターに突っ込んだ。その間に鬼嶋が「大丈夫だから座ってなよ」とお腹の大きな綾子をリビングに丁重に押しやっていく。


 今日の夕食は、野菜とツナのオーブン焼きとキャベツのコンソメスープ。綾子から体重が増えていないのが心配だと医師に言われたことを聞いたので、デザートに弊社商品の「とろショコラ」が控えている。濃厚なブラウニーなので食べ過ぎ注意だが、しっとりと濃厚なので少量でも食べ応えがあると、むすび食品の人気商品の一つに名を連ねている。


 料理を配膳して果奈が席につくと、珍しくテレビが点いたままになっていた。

 出演者の来年の運勢を占い師が診断する特番らしい。年明けまでいましばらく時間があるのに気の早いことだ。


「妊娠してからずっとブロッコリーとほうれん草のお世話になってる気がするわ」

「でも絶対同じメニューにならないのがすごいよね、岩田さん」


 溶けて伸びるチーズを器用に絡めとりながら鬼嶋が言い、綾子は「美味しい」と笑顔になっている。

 ブロッコリーもほうれん草も、下茹でして保管しておけば調理のときに主菜に合わせたり副菜にしたりと簡単に一品作れるので、果奈の中で定番の食材なのだった。


(まずいな、無意識だった。マンネリ化しないように工夫しないと……)

「姉さん、テレビ消すよ」

「ちょっと待って、あと五分で番組が終わるから」


 放送が終わる前に占いのまとめと解説が行われているようだ。もぐもぐと咀嚼し、スープを啜りながら、綾子は真剣に画面を見つめている。


(占い、か)


 思い出したことがあった果奈は、番組が終わってテレビが消されたタイミングで声をかけた。


「綾子さん、もしご存知でしたら教えていただきたいんですが、よろしいでしょうか」


 果奈の物言いに綾子はもうそんなにかしこまらなくてもと笑わない。当たり前のように「どうしたの?」と首を傾げて話を促す。


「あやしの能力に、百発百中の占いというものはあるんでしょうか?」

「絶対当たるならそれは占いじゃなくて予知よ」


「そこまでの人は滅多に人前に出ないわ」と、とんでもないことをさらりと言う。


「直感に優れていたり何かを感じ取る能力を持っていたりするあやしはそれなりにいるわ。それを利用して古今東西の占術を学んで占術家を名乗ったり、お家が代々霊能者や祈祷師をやっていたり、という感じね」


 そう説明する綾子自身、時々何もかも見透かしたようなことを口にするが、それらは占ったわけではなく、そのとき彼女自身が感じ取った何かだ。それと同じだということらしい。


「……感じ取ったものを占いだと言うことはできる、か」

「なになになぁに? 今度は何があったの?」


 思うように外出できない綾子に会社での出来事やちょっとしたやりとりなどを、守秘義務にぎりぎり触れるだろうかくらいの塩梅で話題を提供している果奈だった。トラブルの気配を感じて身を乗り出す綾子から鬼嶋に視線を移すと問題ないと頷かれたので口を開く。


「実は、弊社に占いを得意とする社員が在籍しているらしいと、近頃噂になっているんです」

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