色褪せるもの

 鬼嶋宅を訪れた果奈を迎えたのは玄関に置かれた段ボール箱だった。

 中身はいくらか持ち出されたらしく、洗剤やボックスティッシュ、レトルトのパックご飯と缶詰が箱の中に偏った状態で置き去りにされていた。果奈を連れて帰宅した鬼嶋がそれを指摘すると「ああ、ごめん」とソファに座った綾子はスマホから顔を上げないままおざなりに言った。


「片付け始めたはいいけどちょっと疲れちゃって。それに置き場所もなかったし」


日用品はわからないが、果奈が食事を作ることもあって食材は常に万全で、保存食はほとんど手付かずだろう。


(保存食の消費期限を確認して、次はそれで何か作ろう……)


 そうだけど、と言いはした鬼嶋もそれ以上の反論は諦めて、テイクアウトしたパンの入った袋をソファに置いた。


「これ、頼まれていたもの。経費はさっきメッセージで送ったやつな」

「了解。今日の分のお給料と経費諸々は、いつもの分とまとめて渡すのでよかったわよね?」


 ソファ越しに振り向かれて「はい」と果奈は頷いた。にこりと笑った綾子の顔はいつものように優しくて鷹揚だ。


「そうそう、荷物ね。果奈ちゃんにはお世話になってるからって、親が送ってきたのよ。ちょっと待ってて」

「座っていてください。場所を教えてくだされば自分で」

「俺が取ってくるよ。お茶でも何でも好きに飲んで待っていて」


 鬼嶋がリビングの隣の綾子の部屋に消える。手持ち無沙汰になった果奈が綾子に視線を送ると「白湯をくれる?」とテーブルの空のマグカップを差し出されたので、キッチンのポットでお湯を淹れて返した。


「ありがとう。今日はどうだった?」

「おしゃれなカフェで、料理も大変美味しかったです。日曜日で盛況だったので、行くのなら平日の方が良さそうです。テイクアウトも列ができていましたが、回転が早かったですし、パンは常に焼き立てが補充されているようでした」


 それを聞いた綾子は思わせぶりに笑った。

 つんつん、と華奢な指先が突いたマフラーは、それが誰のものか知っている。


「楽しいデートだったみたいね?」


 仕事なのかデートなのかと聞かれたら、多分仕事じゃなかった、と思う。

 けれどデートだとも言えない。綾子のおつかいというきっかけと給料と経費が発生しているからだ。


「…………」


 でも『次』は。

 本当に次の機会があったときは、もしかしたら。


 綾子の笑みに答える前に、果奈の近くでスマホが震える音がした。長くはっきりしたバイブレーションはメッセージではなく、電話の着信だ。


「電話? 気にしないで、出てあげて」


 綾子が気にする素振りを見せたので、発信者だけ確認する。出ないつもりだったのに、表示された名前に「あ」と声が出た。


(実家だ)


 恐らく帰省の件だろうと思ったが万が一のこともある。すみませんと綾子に断り、玄関前の廊下に出てから、受話ボタンをタップした。


「……もしもし?」

『ああ、果奈? お母さんだけど、いまいい?』

「出先だから手短にお願い。どうしたの」


 何十年と育てた娘の性格は承知しているはずが、果奈の言い様に『相変わらず素っ気ない子だわ』と母は電話の向こうでため息を吐く。予想しなくともわかりきった反応に、果奈自身はもう何とも思わなくなってきている。


『帰省のこと、返信してこなかったから電話したのよ。どうするの?』


 連絡しそびれていたのは事実だったので「それは、ごめん」と言っておく。今日思い出した、後で返信しようと思っていたなどは口にしない。言い訳をするなと大人になっても言われたくはないからだ。


「こっちでやることがあるから、予定を確認して、帰省の日とこっちに戻る日をメッセージで連絡する。文字で残った方がいいでしょう」


『そうね、覚えていられないから』とそもそも覚える気はなさそうな答えが返る。


 帰省日が決めきれていなかったのはぎりぎりまで綾子の食事作りの仕事をしようと考えていたからだ。だが多忙な九条氏の休みが取れそうだとかで、綾子が九条宅に戻るのか、氏が鬼嶋宅に一時滞在するのか、まだはっきり決まっていないらしい。今年中のまかない作りはこの日が最後だという話が出ているだけだ。


 しかし実母にそんな事情を話してもややこしい、よくわからないと一蹴されるだけなので、説明はしない。


『どう、元気? ちゃんと食べてる?』

「食べてる」

『麻衣子ちゃんも元気? 一緒に働いてたわよね。仲良くしてる?』


 大学生のときに出会って社会人になっても付き合いのある麻衣子は、果奈の希少な友人なので、なんでもすぐに忘れる母もちゃんと名前を覚えている。


「元気だよ」

『そう、よかったわ。友達は大事にしなさいね』


 社会人になっても母親の注意というのは十代の頃と変わらない。あの頃と違うのは、苛立ったり口答えしたりすると面倒だと知っているから「わかってる」と受け流せるようになったことだ。

 そのまま世間話に突入しかけたが、長くなりそうな気配に「ごめん、いま外だから」と伝えて通話を終わらせようと試みる。

 受話器越しにまたつまらないとばかりにため息を吐いた母は、お決まり事の、ちゃんと食べて寝ること、風邪を引かないようになどの注意を一通り述べて、ある程度気が済んだようだ。


『じゃあね。連絡忘れないでよ』

「わかってる。おやすみ」


 通話終了の表示を眺めて、はあ、と息が零れた。実の家族であっても電話一本に気を遣う、これが大人になることかと苦い気持ちになる。母の望む娘にはなれなかったと思うから、なおさら。


(……家に帰ってから折り返し電話した方がちゃんと話を聞いてあげられたかな)


 それはそれで、また母の発言にむっとさせられて気を回すんじゃなかったと思うんだろう。同じ失敗を繰り返してもなかなか学べないのは、家族であることに原因があるのか。

 そんなことを考えながらリビングのドアを開けたときだった。


「……そういうの、余計なお世話って言うんだよ」


 一歩踏み出そうとした足を止める。

 リビングに、二人の姿はない。綾子の部屋から漏れ聞こえてくる声は奇妙な緊張感を孕んでいる。


「いい加減止めてくれないかな。子どもじゃないんだし」

「あんたがはっきりしないから悪いのよ。私がどんな気持ちで」

「そういう姉さんは俺がどんな気持ちでいるかわかってる?」


 すうっと血の気が下がった気がしたのは、それが普段傍観している微笑ましくも一方的な口喧嘩とは一線を画したものだと感じたからだ。


「わかるはずだ。そうでしょう?」

「輝」

「だからもう余計なことはしないで。迷惑だから」


 鬼嶋が出てくる気配がする。果奈は咄嗟に一歩引いて、開きかけていたリビングのドアをわずかに戻す。


「……あんたの言い分はよくわかった。でも最初の質問の答えをまだ聞いていないわよ」


 怒りを殺した声で綾子が言う。

 リビングの床に差した鬼嶋の影は、シルエットであっても凛と涼やかだ。




「――かなし……」




 息を潜める果奈に耳に届く、密やかな、秘密を明かす囁き声。


「岩田さんといると、そう思う」


 ずるり、と無意識に一歩退いた果奈の足元でスリッパが滑った。握りしめたスマホの画面を震える息が曇らせる。

 鬼嶋はいま、何と言った?


(……かなしい……?)




 ――私といると『かなしい』?




 金色の落ち葉。夕暮れの光。公園の風景。

 他愛ない会話に、さほど楽しくもない話題。

 美味しいランチとスイーツ。

 小さなイヤリング。温かいマフラー。

 穏やかな声、微笑み。

 ため息。静けさ。

 優しさと安堵。


 今日一日の記憶があっという間に色と熱を失っていくのを感じながら、果奈は「どういう意味だ」という疑問を飲み下した。尋ねることなど、できるはずがなかった。

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